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『殺人学概論』 ――この講義では、まだ誰も死なない  作者: 御子柴 流歌


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結:いや、これはむしろ『起』とも言えよう


「そんな、大層なことじゃ、ないです」


 彼女の目尻には、薄く涙の跡が光っている。


「私が壊したかったのは、システムなんかじゃなくて……多分、自分の方です」


 僕たちは黙って彼女を見ていた。言葉を挟む隙がなかった。


「先生のせいじゃないです。研究室の方針が変わったのも、予算が削られたのも、全部外側の事情だってわかってます。でも、どうしても納得できなくて。私が一年のときからやってきたテーマが、『非効率だから』って理由で切られて……。『殺しにくいから』って」


 最後の言葉だけ、彼女は強く噛み締めるように吐き出した。


「私、先生が言ったんです。『殺人事件の少なさは社会の成熟度の指標だ』って。だから、私のテーマ――『地方における殺人事件の減少要因の分析』は、絶対に意味があるって。でも……結局、『数字が出にくい』からって、外されたんです」


 如月は、何も言わなかった。表情も動かない。ただ、じっと聞いている。


「それで、その……。先生の研究室に残る条件として、『もっと扱いやすいテーマ』に移るようにって言われて。それが、『未解決殺人事件の傾向』で。正直、嫌だったんです。未解決ってことは、誰かが今も苦しんでるってことで。そこに、数字を貼って……」


 言葉が途切れる。宮下は目元を手の甲で乱暴に拭った。


「だから、こんな授業、つくった先生のことも、ちょっとだけ憎らしくて。でも同時に、羨ましくて。こんな派手なタイトルで、人を集めて。私のテーマなんて誰も見向きもしなかったのに」


 彼女は肩を落とす。


「……睡眠薬は、たまたま家にあった親の薬です。ちょっと混ぜれば、先生を困らせられるかなって。授業中に寝ちゃったら、『殺人学』の先生なのにって笑われるかなって。それくらいの、幼稚な……」


 如月は、ようやく口を開いた。


「本当に、『それだけ』かい?」


 宮下は、びくりと肩を震わせた。


「君が私の研究室のドアをノックした日のことを、私はよく覚えている。テーマの相談に来たときのことも。そのとき君は、『殺人事件なんて本当は一つも起こってほしくない』と言った」


「……言いました」


「いい言葉だと思ったよ。だが、研究者としては、少し困る言葉でもある。なぜなら、君の願いが完全に叶ってしまったら、君の研究テーマは存在意義を失うからね」


 如月は、ビニール袋を軽く揺らした。


「君は、自分のテーマが『殺しにくい』から切られたことを、ずっと気に病んでいた。だが、私はそれを『悪いこと』だと思っていなかった。むしろ誇るべきことだと。だからこそ、今回の件は、非常に残念だ」


「……すみません」


 宮下は小さく頭を下げた。


「謝る相手は、ここにはいない」と、如月は静かに言った。「少なくとも今は。君自身が、自分で決めることだ。自分を壊すのか、壊さないのかを」


 教室に、重い沈黙が落ちた。


 ――これが、「殺人学概論」の第一回か。


 僕は、カードを見下ろした。「被害者:如月一真」と書かれた文字が、少しだけ、滑稽に見えた。


     ◇


 その後の十五分間は、後始末の時間だった。


 如月は、睡眠薬の件について警察には届けないと宣言した上で、しかし「これが二度と起こらない保証は欲しい」と念を押した。宮下は、「研究テーマの件も含めて、もう一度だけ話し合ってほしい」と頭を下げた。


「もちろん」と、如月はあっさり頷いた。「殺人を減らす研究者のテーマを、殺すわけにはいかないからね」


 鐘が鳴り、三限の終わりを告げる。


「では、今日の『殺人学概論』はここまでだ」


 如月は、黒板を軽く叩いた。


「次回までの課題を出しておく。テーマは『自分が一度だけ、本気で誰かを殺してやりたいと思った瞬間』。そのときの状況と、その後どうやって踏みとどまったか、あるいは踏みとどまれなかったかを、A4一枚以内で書いてくること。実体験でも、フィクションでも構わない。ただし、フィクションだと主張する場合、私は信じないかもしれない」


「……だいぶヘビーですね」と、朝倉さんが顔をしかめる。

「大学の授業とは、本来そういうものだよ。軽妙な語り口に騙されてはいけない」


 そう言ってから、如月は僕のほうを向いた。


「黒川くん。少しだけ、時間あるかい?」

「え? はい」


 反射的に返事をしてしまった。誘拐犯に「ついてきていい?」と聞かれて「はい」と答える子どもと、心理構造はだいたい同じだと思う。


「朝倉さんも、一緒にどうかな。君にも聞いてほしい」


「面白そうなので行きます」と、彼女は即答した。やはり社交性が二十四倍だ。


     ◇


 ゼミ室を出て、廊下を少し歩いたところで、如月は立ち止まった。窓から見える中庭には、サークル勧誘のビラが風に揺れている。平和そのものだ。


「さっきの推理だがね」と、如月は切り出した。「『事件はシラバスの公開時から始まっていた』というやつ。あれは、なかなか筋がいい」


「ありがとうございます」

「だから提案だ。私の研究室に来ないか?」


 あまりにも唐突なスカウトに、僕と朝倉さんは同時に「え」と言った。


「いや、別に君たちを助手にして身代わり死体に使おうとか、そういうわけではない。少なくとも今のところは」

「『今のところ』って言い方がアウトなんですが」と、朝倉さんが即座に突っ込む。

「『殺人学』は、一人でやるには範囲が広すぎるんだよ」と、如月は苦笑した。「人間の心、社会の構造、法律、文学、統計。いろんな視点が要る。だからこそ、多様な学生に来てほしい」


 彼は、ジャケットの内ポケットから二枚の名刺を取り出した。


「君たちがもし、『事件を起こす側』ではなく『事件を解明する側』に立ちたいと思うなら。いつでも訪ねてきなさい。――『殺人学演習Ⅰ』の非公式オリエンテーションは、今日がその第一回だ」


 名刺を受け取りながら、僕はふと、自分のカードに書いた「この事件はすでに始まっている」という一文を思い出していた。


 あれは、きっと間違いではなかった。


 ただ、「この事件」が指していたのは、今朝の睡眠薬騒ぎではない。もっと長く続く、もっと厄介な何か――僕がこれからしばらくの間、深く関わることになる「殺人学」という名の物語そのものだったのだ。


「どうする、黒川くん?」


 隣で、朝倉さんが訊く。


「相棒としては、巻き込まれに行くのを推奨するけど」


 彼女の笑顔は、なぜか心強かった。


「……そうだね」


 僕は、名刺をポケットにしまいながら答えた。


「せっかく大学に入ったんだし、単位の一つや二つ、命がけで取りにいくのもいいかもしれない」


「その発想がもう『殺人学』向きなんだよなあ」と、如月の溜息まじりの笑い声が、廊下に響いた。


 こうして僕は、『殺人学概論』という少し物騒な講義と、その裏側で進行する、もっと物騒かもしれない物語に、正式に巻き込まれることになった。


 ――このときの僕はまだ、知らなかった。


 この先、僕たちが本物の「死」と真正面から向き合わされることも。今日、ドアにかけられた鍵の音が、これから何度も耳の奥で反響することも。


 そして、誰かの「殺したくない」という願いと、誰かの「殺してやりたい」という衝動の、その両方を抱え込む学問が、本当に存在しうるのかどうかを、僕自身が試されることになるということも。


 ――『殺人学概論』、第一回講義はこれにて終了。


 講義の続きは、たぶん、まだ始まってすらいない。


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