第七話 支えの影
坑口から差し込んでいた光は、もう見えなくなっていた。
前後に揺れる灯りがなければ、足元さえまともに見えそうにない。聞こえるのは靴が石を踏む音と、ときどきどこかで落ちる水の音くらいだった。
カイナスに言われた通り、足元には気をつけている。濡れた石を避け、前との距離が詰まりすぎないように歩く。それでも、壁際の支えや岩の割れ目が視界へ入るたび、そちらへ意識が引かれた。
これまでだって、見ようとして見えたわけではない。
目を凝らしたところで意味があるのかは、自分でも分からない。それでも、何かあるかもしれないと思うと、見ずにはいられなかった。
少し先では、ベルグが何度か足を止めていた。
灯りを壁際へ寄せ、支えの根元を確かめる。手で触れることもあれば、一度見ただけでそのまま進むこともある。
何を見ているのか追おうとしても、その違いまでは拾えなかった。
ベルグはある支えでは立ち止まり、別のものは気にも留めない。
工房なら、父が材料を指でなぞる理由くらいは分かる。表面を見る時と、叩いて音を確かめる時では、気にしているものも違う。
けれど、ベルグが何を基準に足を止めているのかは見えてこなかった。
自分が普段やっていることも、知らない人間から見れば同じなのかもしれない。
「前」
後ろから声を掛けられ、慌てて顔を上げた。
いつの間にかヴァルドとの間が詰まっている。
「すみません」
「壁ばっかり見てると、そのうちぶつかるぞ」
カイナスの声だった。
「足元も見ろって言われたので」
「だからって前を見なくていいわけじゃない」
少し笑っている。
「……難しいですね」
「慣れてないなら、そんなもんだろ」
それ以上からかうでもなく、カイナスは後ろへ注意を戻した。
少しだけ肩の力が抜けた。
そのまま歩き出して、何本目かの支えを通り過ぎようとした時だった。
灯りが揺れた。
支えの根元に、割れた木肌が重なった。
斜めに裂けたところから上がずれ、片側へ沈み込んでいる。
足が止まった。
瞬きをすると、元に戻っていた。
目の前にあるのは、黒ずんだ古い支えだけだ。
「待ってください」
思ったより声が大きくなった。
前の足音が止まり、ヴァルドが振り返る。
「どうした」
「あの支えです。今、一瞬だけ……折れたように見えました」
指した先へベルグが戻ってきた。
「どこだ?」
「根元からです。斜めに割れて、上がずれたみたいに」
もう一度見ても、何も重ならない。
言葉にしてしまうと、急に自信がなくなる。さっき確かに見えたはずなのに、今そこにあるものは普通の支えだった。
ベルグは根元へ灯りを寄せ、土を少し払った。裏側へ手を回し、場所を変えながら何度か押している。
「……湿ってるな」
ヴァルドも近くまで来た。
「まずいか?」
「すぐ折れるってほどじゃない。腐ってもいない。ただ、こっち側は水を食ってる。少し柔らかいな」
言われてから見ると、根元の片側だけ色が濃い。
それでも、エルドには危険と言われるほどの違いには見えなかった。
「さっき通った時は?」
「見てる。気にするほどじゃないと思った」
ベルグはもう一度支えを押した。
「今見ても、すぐどうこうなる感じじゃない。ただ、わざわざ近くを通す必要もない」
「なら離れて通る」
ヴァルドの判断で、列は壁際を避けて動き出した。
さっきまで自分の話を聞いただけだった人たちが、今は同じ場所で足を止め、ベルグの確認を待っていた。
何かを証明できたわけではない。それでも、少なくとも無駄なことを言ったと思われたわけではなさそうだった。
エルドも列に続きながら、何度かさっきの支えを見た。
壊れた姿は戻ってこない。
「……今みたいなのが、時々見えるのか」
すぐ後ろでカイナスが言った。
「はい」
「俺には普通にしか見えないな」
「今は、俺にも普通に見えます」
「消えるのか?」
「すぐ消える時もあります。ずっと見える時もありますけど」
「へえ」
返事は軽かったが、カイナスは通り過ぎる前に支えをもう一度見た。
セラも根元の方へ視線をやったが、何も言わなかった。
見えたものが本当にこれから起きる破損なのかは、まだ判断できない。
留め具も槍も、見えたあとに実際に壊れた。今回は、支えはまだ立っている。
このあと折れるとしても、それを知るのは帰りにここを通る時だろう。
そのことが頭に残ったまま、また歩き続けた。
それからもしばらく、坑道は同じように奥へ続いた。
ベルグが止まるたび、何か重なって見えないかと支えや壁へ意識を向けたが、何も起こらない。
一度、足元に溜まった水を見て、ベルグが通る位置を変えた。
「そこは踏むな。下に水が回ってる」
言われてから見れば、泥の色が周りより濃い。それでも、自分一人なら気づかずそのまま踏んでいたと思う。
何度か曲がるうちに、入口がどちらなのかも怪しくなってきた。似たような支えと岩壁が続き、もし一人で戻れと言われたら、来た道を辿れる自信はない。
父が止めた理由を、今になって少し実感した。
ここでは、自分の知らないことの方がずっと多い。
「何か見えた?」
後ろからセラの声がした。
「いえ。今は何も」
「そう」
それ以上は聞かれなかった。
しばらく進むと、前の灯りが横へ広がった。
またベルグが何かを調べているのかと思ったが、今度は違った。
坑道そのものが、二つに分かれている。
「ここだ」
ベルグの声がした。
正面へ続く道と、左へ折れる道。
正面側の泥には、いくつもの足跡が重なっていた。一度目の救助隊が進んだ道だろう。
少し先では支えの一本が斜めになり、その向こうに崩れた石が積もっている。さらに奥は灯りが届かず、黒いままだった。
あの先まで、ヴァルドたちは行った。
そこで、まだ中に残っている人たちの声を聞いた。
左へ折れる道は、正面より入口が少し低い。床には二本の浅い溝が走り、暗がりの奥へ続いていた。
「こっちが古い運搬路だ」
ベルグが灯りを向ける。
光は途中までしか届かない。
坑口で聞いていた言葉が頭に戻った。
分岐まで。
そこから先へ連れていくかは、その場で決める。
ヴァルドもしばらく古い道の奥を見ていた。
「こっちは、さっきは入ってない」
その声を聞きながら、エルドも灯りの届かない先へ目を凝らした。
今まで歩いてきた道とは違う。
古い運搬路が今どうなっているのかは、まだ確かめられていなかった。
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次回、第8話は10月13日21:10公開予定です。




