第三話 河岸の空白
サヴィンが戻ってきたのは、昼を少し回ってからだった。
加工台で道具を拭いていたエルドは、扉が開く音に顔を上げた。朝に赤角羊がかすめた左腕はまだ少し痛む。帰ってから父にもう一度見てもらい、今日は重い物を持つなと言われていた。
「二軒とも無事だ」
サヴィンは入ってくるなりそう言った。朝から歩き回っていたせいか、額に汗が浮いている。
父が手を止めた。
「使ってなかったのか?」
「一軒は箱も開けてない。もう一軒は朝に少し試したらしいが、今のところ何も起きてない。止めるようには言ってきた」
「そうか」
サヴィンは近くの椅子を引いた。
「そっちは?」
「一軒で異常が出た。加工の途中で魔力の通りがおかしくなって、外にいた赤角羊まで暴れた」
サヴィンは椅子に腰を下ろさず、父を見た。
「……材料は?」
「お前から買った物だそうだ」
「そっちでもか。怪我人は?」
「大きな怪我はない」
サヴィンが息を吐いた。
「赤角羊も、材料のせいか?」
「それは分からん。音に驚いただけかもしれん」
壁際へ離して置かれた木箱を見る。工房へ戻ってから、あの石には誰も触れていない。
「何もなかった方は、どのくらい試したの?」
「少し削って、魔力を通しただけだ。加工まではしてないし、変な感じもしなかったそうだ」
「石によって違うのかな」
「まだ分からん。加工の仕方かもしれん」
「仕入れを確認したい」
「ああ。俺もそのつもりで戻ってきた」
サヴィンは肩から下げていた鞄を加工台へ置き、中から革表紙の帳面を取り出した。
「待てよ。たしか、この辺だ」
何枚かページを戻し、指で書き込みを追っていく。
「あった」
サヴィンが帳面を加工台の端へ置くと、エルドも横から覗いた。品名と数量、金額。その脇に短い文字が並んでいる。家の帳面でも似たものは見るが、その文字が何を示しているのかまでは分からなかった。
「この時の荷札もある」
サヴィンは帳面の間から厚手の紙を一枚抜き、父へ渡した。
荷札には重さと個数、受け取った日が書かれ、その脇にいくつかの印が押されている。
「この印は?」
「仲買の印だ。西河岸の倉を使ってる」
父はサヴィンが示した印を見てから、荷札を裏返した。
「採った場所は?」
「……書いてない。いつもはあるんだけどな」
父が荷札から顔を上げる。
「気づいてたのか」
「産地がないのは見てた」
「それでも買ったの?」
エルドが聞くと、サヴィンは荷札の端を指で押さえた。
「仲買の印も見慣れたものだったし、品も見た。前にも別の物を買った相手だ」
サヴィンは荷札から手を離した。
「それに、安かったんだよ」
父は何も言わず、荷札へ目を戻した。
「最近、触媒材は仕入れが高くつくんだ。だから正直、助かった。産地は次の荷が来た時に聞けばいいと思ってた」
「次もあるのか?」
「ああ。今日だ。昼には西河岸に入ることになってる」
「もう着いてる?」
エルドが聞くと、サヴィンは帳面を閉じた。
「予定通りならな。俺が見てくる。荷が来てるなら、運び手にも聞ける」
父が上着を取った。
「俺も行く」
「工房は?」
「今日はもう新しい材料は触らん。急ぎもない」
父はエルドを見る。
「お前も来い」
「うん」
三人で工房を出た。
市場街を抜け、川の方へ下っていく。昼を回った通りは朝より人が多く、荷車の脇を抜けたり、道端に積まれた籠を避けたりしながら歩いた。
市場街を離れるにつれ、木箱や樽を積んだ荷車が増えていく。肩に縄を掛けた人夫も同じ道を行き来していて、川が近づく頃には、湿った風に泥と木材の匂いが混じっていた。
河岸まで来ると、石畳には荷車の轍に沿って湿った泥が残り、道端には空の樽や巻いた縄が積まれている。川面からは櫂が水を打つ音が聞こえ、少し先では人夫が荷の数を大声で読み上げていた。
倉の並びへ入ると、倉ごとに商人の印が掲げられていた。サヴィンはそのまま一角へ向かう。
「あそこだ」
大きな扉の開いた倉の前では、人夫たちが荷車から樽を下ろしていた。
サヴィンが中へ入ると、一人の男がこちらに気づいた。
「どうした。今日は自分で来たのか」
「今日入る触媒材、もう来てるか?」
「いや、まだだ。仲買も今日は見てない」
「使いも?」
「来てない。遅れる時はだいたい先に知らせがあるんだが、今日はそれもない。あの仲買の荷は一つも入ってないよ」
それがどれほど珍しいことなのかまでは、エルドには分からなかった。
「こっちは取引先の職人だ。あの材料のことで確認したいことがある」
父が口を開いた。
「どこから運んでくるかは分かるか?」
「俺は受け取るだけだ。仲買か、運び手に聞いてくれ」
「運び手は?」
「昼に着くはずの連中が、まだ来てない。もう着いててもいい頃なんだがな」
サヴィンが聞いた。
「運び手に話を聞くなら、どこへ行けばいい?」
「河岸の運送屋に聞くのが早い。いつもの運び手も、そこが手配してる」
「分かった」
サヴィンは踵を返した。
「そっちへ行く」
父は倉の男へ軽く頭を下げた。
エルドは二人の後について倉を出た。
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次回、第4話は10月7日21:10公開予定です。




