第二話 折れた槍
サヴィンから三軒の場所を聞くと、父はすぐに役割を決めた。
「市場街の方は俺が行く。サヴィン、お前は残りを回れ。同じ材料は使わないよう伝えてくれ」
「ああ、分かった」
サヴィンは木箱の蓋を閉め、そのまま持ち上げかけた。
「それは置いていけ」
「これもか?」
「原因が分からん物を持ち歩くな。それも置いていけ」
サヴィンは木箱へ目を落とした。
「……分かった」
木箱を台へ戻すと、父は炉の火を落とし、散った試料には触れずに加工台の周りを空けた。工房を閉める支度を済ませると、エルドを見た。
「お前も来い」
「俺も?」
「さっきみたいなのが見えたら、すぐ言え」
それ以上の説明はなかった。
床に落ちた留め具を見てから、父の後を追った。
◇
外へ出ると、朝の通りにはすでに人と荷車が行き交っていた。工房の前を木箱を積んだ荷車が通り過ぎ、向かいの店では主人らしい男が見習いへ指示を飛ばしている。少し先では二台の荷車が道を塞ぎ、御者同士が何やら言い合っていた。
父は荷車や人の間を抜けていく。市場街まではそう遠くない。
しばらく歩いたところで、前を向いたまま口を開いた。
「さっきの留め具だが」
「うん」
「何が見えた」
どう言えばいいか少し考えた。
「折れてた。片側が外れて、金具が曲がってた」
「実際には折れてなかったな」
「うん。壊れてない留め具の上に、折れた方が重なって見えてた」
父は歩みを止めず、肩越しにエルドを見た。
「前にもあるのか」
「昔から、たまに」
「初めて聞いたぞ」
「何なのか分からなかったから。言っても仕方ないと思ってた」
嘘だと思われるかもしれない、という気持ちもあった。そこまでは口にしなかった。
「見えたものが、その通りになるのか?」
「ならないこともある。たぶん、そっちの方が多い」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。
あまりに普通の反応だったので、かえって気になった。
「父さん」
「何だ」
「……変な話だと思わないの?」
「変な話ではあるな」
あっさり返され、父を見る。
「だが、お前が止めろと言った直後に留め具が折れた。それは俺も見た」
父は歩調を変えない。
「また何か見えたら、すぐ言え」
「……うん」
それで話は終わった。
市場街へ近づくにつれて、人通りも荷車も増えていった。店先には野菜や布、工具が並び、荷を担いだ人夫がその間を行き来している。川の方から来たらしい樽積みの荷車も、中央市場へ向かって何台か続いていた。
父は人の流れから外れ、横道へ入った。
「もうすぐだ」
頷こうとした時、前から怒鳴り声が聞こえた。
「押さえろ!」
続いて、何か重いものがぶつかる鈍い音がした。
通りにいた人間が一斉にそちらを見る。
父が足を速め、そのまま走り出した。エルドも後を追う。
角を曲がった先では、加工場らしい建物の前に人が集まっていた。その向こうで、大きな赤褐色の角が激しく揺れている。
赤角羊だった。
肉も角も売り物になるため、市場へ運ばれてくることは珍しくない。エルドも何度か見たことがあるが、普段は人を見ただけで襲いかかるような魔物ではなかった。
今は荷車の脇で太い綱を引きずり、何度も頭を振っている。身体が荷台へ当たるたび、木の柵がきしんだ。
「近づくな!」
一人の男が槍を構え、赤角羊と人だかりの間に立っていた。足元には、引きちぎられた綱の端が落ちている。
父が近くの人夫へ声をかけた。
「何があった」
「分からん。そこの工房で急にでかい音がして、それからだ!」
指された建物は扉が開け放たれていた。中では何人かの職人が動き回り、焦げたような匂いも漂ってくる。
父が加工場へ目を向けた。
「使ってた材料は――」
赤角羊が前脚で石畳を掻いた。
槍を持った男が腰を落とす。獣も頭を下げた。
その時、男の槍が折れて見えた。
柄が半ばで折れ、穂先側が石畳に転がっている。
だが、実際の槍はまだ一本につながっていた。
「その槍で正面から受けるな!」
男が一瞬だけこちらを見た。
赤角羊が地面を蹴る。
男はとっさに身体をずらした。
ほとんど同時に、赤角羊の角が槍を叩いた。鈍い音が響き、柄が半ばから折れる。穂先側が石畳を跳ね、そのまま滑っていった。
男はよろめいたものの、倒れなかった。
赤角羊はその脇を抜け、人だかりが一斉に崩れた。
エルドも通りの端へ避けようとした。
その途中で、赤角羊が荷車へ角をぶつけた。大きく首を振り、向きが変わる。
その先にいたのは、自分だった。
「エルド!」
父の声とほとんど同時に、赤角羊が走り出した。
反射的に足へ魔力を回した。重い物を運ぶ時にも使う身体強化なら、やり方そのものは知っている。
けれど、足に力が乗った頃にはもう遅い。
横へ跳ぶ。
角は外れたが、赤角羊の肩が左腕をかすめた。勢いに身体を持っていかれ、石畳へ片手をつく。
腕がじんと痺れた。
赤角羊はそのまま数歩進み、また向きを変えようとしていた。
そこへ横から男が走り込んだ。
さっき槍を折られた男だった。折れた武器はもう手にない。
踏み込みが急に鋭くなった。
身体強化だと気づいた時には、もう赤角羊の横へ回り込んでいる。
男は角の前へ出ず、首元から垂れた綱を掴んだ。
「綱を取れ!」
二人の人夫が動く。
一人が地面を引きずっていた綱を拾い、もう一人が荷車脇の太い杭へ回した。
赤角羊が首を振るたび、男も位置を変える。角が人のいる方へ向くと、そのたびに綱を引いて向きをずらした。
何度か繰り返すうちに杭へ回した綱が張り、三人がかりで動きを抑えると、赤角羊の暴れ方も少しずつ弱くなっていった。
「押さえた!」
周囲から安堵の声が漏れる。
ようやく立ち上がると、父がすぐに左腕を取った。
「指、動かせるか」
言われた通り手を握って開いてみる。痺れはまだ少し残っていたが、指は問題なく動いた。
「動く」
「腕は?」
今度は肘を曲げ伸ばしする。少し痛むものの、動かせないほどではない。
「少し痛いけど、動く」
父は擦れたところを確かめてから手を離した。
「ひどくはなさそうだな。帰ったらもう一度見る」
「うん」
答えながら、赤角羊を押さえた男へ目を向ける。さっきの踏み込みが、まだ頭に残っていた。身体強化そのものなら自分も使えるが、さっきは足へ魔力を回してから動いたせいで、力が乗る頃にはもう遅かった。
あの男は違った。
動き出した時には、もう身体強化が効いていた。
「おい」
声をかけられて顔を上げると、さっきの男がこちらを見ていた。赤角羊はまだ荒い息をしていたが、人夫たちが綱を押さえている。
男は石畳に転がった槍へ目を向けた。
「さっきの、なんで分かった?」
つられて折れた槍を見る。
「……折れそうに見えました」
「見えた?」
「うまく説明できないんです」
男が眉を寄せたところで、父が口を挟む。
「本人もまだ分かってない」
男はエルドと折れた槍を見比べた。
「そうか。まあ、助かった。あのまま正面で受けてたら、ただじゃ済まなかった」
「俺も、さっき助けてもらいました」
男は短く笑った。
「なら、お互い様だな」
少し離れたところでは、まだ人夫たちが赤角羊を押さえている。さっきまであれだけ騒がしかった通りにも、人の声が戻り始めていた。
父は加工場へ目を向けた。
「中を確認するぞ」
「うん」
父の後について中へ入る。
加工場では炉の火が落とされ、三人ほどの職人が加工台の周りに残っていた。作業を途中で止めたらしく、道具や試料がそのままになっている。
父が年嵩の職人へ聞いた。
「さっき、何を使ってた?」
「あれだ」
職人が脇に置かれた木箱を指す。
「昨日入ったやつを、今朝から試してた。途中で魔力の通りがおかしくなってな。止めようとしたところで音が出た。それから外まで騒ぎになった」
父が木箱へ近づいたので、横から中を覗く。布の上には灰白色の石が並び、見た目は工房に残してきたものとよく似ていた。
「どこから買った」
「サヴィンだよ。昨日持ってきた」
父は箱の中を見た。
「……うちに持ってきたのと同じか」
「見た目はね」
それ以上は言えなかった。
父も石には触れなかった。
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次回、第3話は10月6日21:10公開予定です。




