第一話 存在しない破片
棚の下に、瓶の破片が散っていた。
エルドは手を止めた。
透明な欠片が、朝の光を受けて床の上で光っている。
その真上の棚を見上げると、瓶は割れも欠けもせず、そこに立っていた。
「……またか」
しばらく瓶を見てから、念のため棚の奥へ押した。
こういうものは、昔からときどき見えた。壊れていない皿の破片や、傷のない板に走る亀裂。見えても何も起こらず、いつの間にか消えていることも多い。
なぜか最近は、前より目につくようになっていた。
「エルド、手が空いてるならこっち頼む」
加工台では、父のオルンが灰色の石片を固定枠に留めていた。
「今行く」
エルドは棚を離れ、加工台へ向かった。
工房には朝から炉の熱がこもっている。開けた窓の外を荷車が通り、石畳を鳴らす車輪の音に、通りの職人たちの声が混じっていた。
固定枠に収まっているのは触媒材だ。魔力を使う道具に組み込み、魔力の流れを安定させるために使う。
掘り出したままでは使いにくいものが多く、熱を加えたり魔力を通したりして、使える状態に整えるのがこの工房の仕事だった。
「昨日の残りだ。少し流してみろ」
「うん」
加工台の横に立ち、細く途切れないよう石片へ魔力を通した。父はその表面を見ていた。
「もう少し」
言われた通り、流す量をわずかに増やした。
「そこまで」
すぐに止めると、父は石片を枠から外し、表面を指で確かめた。
「次」
やり直せとは言われなかった。今ので問題はなかったらしい。
十五で成人扱いになったとはいえ、工房ではまだ父に教わることの方が多い。
次の石片へ手を伸ばしたところで、工房の扉が開いた。
「オルン、いるか」
聞き慣れた声に振り返ると、サヴィンが小さな木箱を抱えて入ってくるところだった。父と取引のある材料商で、昔から顔を知っている。
「仕事中だ」
父は加工台から顔を上げただけだった。
「見れば分かる。だから仕事の話を持ってきた」
サヴィンは空いている台へ木箱を置いて蓋を開けた。布の上には、灰白色の石がいくつか並んでいる。
「新しい触媒材が入った。今日は見本だ。使えそうなら次から回せる」
父は手を拭きながら箱の前まで来た。
「値は?」
サヴィンが値を告げると、細かな相場までエルドには分からなかったが、父の眉が少し動いた。
「安いな」
「今は量があるらしい」
「新しい仕入れか」
「品はな。仲買は前からの相手だ」
父はそれ以上聞かず、箱から一つ取り上げた。表面を親指で擦り、欠けたところを確かめる。手の中で一度転がしてから、エルドへ差し出した。
「少し通してみろ」
「分かった」
受け取った石は表面がざらついていたが、見た目も重さも、普段扱っているものと大きく違うようには思えない。
ごく弱く魔力を流してみた。特に気になる感触はなく、すぐに止めた。
「どうだ?」
サヴィンに聞かれ、手の中の石を見たまま答えた。
「今のだけじゃ分からない。変な感じはしなかったけど」
父が手を出した。
「少し使うぞ」
「ああ、そのための見本だ」
石を返すと、父は端から試す分だけ切り取り、固定枠に留めた。
「俺が熱を見る。エルドはいつも通り流せ」
「うん」
父が弱く熱を入れた。試料が温まるのを待って、魔力を細く一定に通し始めた。
「少し増やせ」
父の声に合わせて、流す量をわずかに増やした。試料の表面にひびはなく、色も変わっていないので問題なさそうだ。
そのまま続けていると、指先に妙な感触が返ってきた。
「父さん」
呼ぶと、父は試料を見たまま答えた。
「どうした」
「魔力が、一瞬だけ引っかかった感じがした」
「今もか?」
流れを確かめた。
「いや。今は普通」
父は試料と固定枠を順に見たが、目立った変化はなかった。
「量を落とせ。もう一度だけ見る」
「うん」
さっきよりさらに弱く魔力を流した。
固定枠の端にある留め具が、折れていた。
すぐに魔力を止めた。
留め具の片側が外れ、曲がった金具がぶら下がっているように見える。だが、実際の留め具はまだ壊れておらず、傷もない。
壊れた姿だけが、同じ場所に重なって見えていた。
これまでならそのまま様子を見るところだったが、さっきの引っかかりが気になった。
「父さん、止めて」
「何だ?」
「分からない。でも、その留め具――」
留め具を指した。
固定枠から、キ、と細い音がした。
「離れろ!」
父の声に、加工台から身を引いた。サヴィンもすぐに離れる。
父が熱を止めても、固定枠の片側はわずかに浮いたままだった。
金具が弾けた。
固定枠が片側から跳ね上がり、熱を持った試料が加工台の上へ散った。
反射的に腕で顔をかばった。試料の欠片が袖を掠め、弾けた金具が床を転がっていった。
「怪我は?」
「大丈夫」
袖の端が焦げただけで、火傷はなかった。
父はサヴィンにも目を向けた。サヴィンも自分の服を確かめ、首を振った。
「こっちも平気だ。……危なかったな」
父は床に落ちた留め具を拾い、折れた面と固定枠を見比べた。
サヴィンが近づこうとしたところで、父が片手を上げた。
「まだ触るな」
「……材料か?」
「まだ分からん」
父は折れた留め具を加工台の端へ置いた。
「原因が分かるまで、同じ材料は出さないでくれ」
「ああ」
サヴィンは短く答えた。
「これ、他にも出したか?」
返事が少し遅れた。
「……出した」
「何軒だ」
「三軒」
床へ目を落とすと、少し離れたところに弾けた留め具が転がっていた。
拾わなくても分かった。
さっき見えたのと、同じところで折れていた。
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10月5日21:10に、第2話を公開予定です。




