第9話 採寸する目
審査の朝、三本裏の通りは、総出でわたしを送り出してくれた。
マーサさんは勝負着だと言って上等の肩掛けを貸してくれた。
靴屋のご主人は黙って靴の紐を新品に替えてくれた。
家具職人の奥さんは道中で食べなと飴を握らせてくれた。
わたしはといえば、夜明け前に起きて、針箱の中身をひとつずつ検めた。
針を番手の順に並べ直し、銀の鋏の刃を絹布で拭う。
大一番の前の道具の手入れは、お母さまから教わった、たったひとつの験担ぎだった。
道具を疑わずに済めば、あとは腕を疑うだけでいい。
組合会館の大広間は、天井が教会みたいに高くて、人いきれで空気が重かった。
公開審査というのは言葉のとおりで、傍聴席には王都中の職人が詰めかけていた。
新入りの小娘が理事たちに絞られるのを見物に来た顔が半分、呪いをほどく針子の噂を確かめに来た顔が半分、というところだと思う。
最前列にマーサさんと靴屋のご主人が陣取っていて、ピムはわたしの道具箱を抱えて壁際に立っている。
その少し後ろの柱の陰に、フードを目深に被った背の高い人影と、片眼鏡の従者が見えた。
見届けようという言葉は本気だったのだと、少しだけ肩の力が抜けた。
審査席には、理事が五人並んでいた。
そしてその最奥、一段高い立会人の席に、漆黒のドレスの老婦人が座っていた。
白髪を一分の隙もなく結い上げて、背筋に鋼の芯でも縫い込んであるような人だった。
膝の上で黒い扇をゆっくり開いたり閉じたりしながら、こちらを見ているのかいないのか、わからない。
襟元で、塔と針の紋章の徽章が鈍く光っていた。
縫製室の立会人が、末端の仮登録審査にじきじきに出るなど前代未聞だ、とざわめく声が傍聴席の後ろのほうで聞こえた。
あの娘の噂を聞いて、わざわざお運びになったらしい、とも。
「では、審査を始める」
中央の理事が咳払いをして、係の人が運んできたのは、無残に破れた絹の夜会服だった。
燭台を倒したとかで袖から胸にかけて焼け破れ、王都の三つの工房が直しを断った品だという。
「課題はこれの繕いだ。制限は二時間。糸と道具はそこに用意したものだけを使え」
台の上に、鋏と針山と、色を揃えた絹糸の束が置かれていた。
わたしは夜会服の破れを検分して、それから糸の束を手に取って、指先で一本しごいた。
(……なるほどね。そういうこと)
色は完璧に合わせてある。
でも指の腹に伝わる腰の強さが、絹のものではなかった。
麻の芯に絹を撚りかけた紛い物で、これで繕えば今日は見栄えがしても、十日で縫い目が攣れて破れが戻る。
落とすための仕掛けにしては、ずいぶん手が込んでいた。
糸の紛い物を見抜けない者に、呪いの紛い物が見抜けるはずもない。
そういう試しなのだと思った。
「恐れながら、理事のみなさま。この糸は使えません」
「用意された道具に不服を言うのか」
「不服ではなく検分です。この糸は絹の色をした麻紛いで、この夜会服の絹地とは伸びが合いません」
わたしは糸の束を、そっと台に戻した。
「今日の見栄えのために、十日後にお客さまを裏切る糸を、わたしは針に通さない主義です」
広間がざわりと揺れた。
理事のひとりの目が泳ぐのが見えたけれど、追い詰めるのはやめておいた。
今日の勝負はそこではない。
「では、糸がなければどうする。棄権か?」
「いいえ。糸なら、ここにございます」
わたしは夜会服を裏返して、裾上げの折り返しの内側に鋏を入れた。
仕立ての良い服は、縫い代と折り返しに布の余りを蓄えている。
その隠れた場所から、緯糸を一本、また一本と丁寧に抜き出していく。
破れた本人の布から取った糸なら、色も伸びも艶も、合わないはずがなかった。
「共糸のかけつぎだ」
傍聴席の年寄りの職人が、うめくみたいに言うのが聞こえた。
抜いた糸を針に通して、破れの織り目をひと目ずつ拾って、元の布の綾のとおりに織り直していく。
経糸を三本掬って一本潜らせ、次の段は一目ずらす。
この夜会服の綾の律は、それだった。
布には布ごとの律があって、律を写し取れば、直しは布に溶けて消える。
根気だけが頼りの、地味で、誤魔化しの利かない仕事だった。
三十分も続けると、指先の感覚だけが世界のすべてになる。
広間のざわめきが遠のいて、傍聴席も理事たちも消えて、織り目や糸、針先だけが残る。
下縫いの九年のあいだ、義姉が燭台の火の粉で焦がしたドレスも、義父が袖を裂いた礼服も、なかったことにしてきたのはこの手だった。
真夜中の屋根裏で、誰にも知られない直しものを何百と重ねた。
あの九年は帳面には残らなかったけれど、指は全部覚えている。
あの頃と違うのは、この直しが、わたしの名前でする直しだということだけだった。
刻限の鐘が鳴る少し前に、わたしは針を置いた。
理事たちが夜会服を窓の光に翳して、破れのあった場所を探して、探して、見つけられずに顔を見合わせた。
傍聴席の最前列で、マーサさんが胸を張っているのが見えた。
「……技能は、認めざるを得ん。だが問題は登録より、貴様の看板のほうだ」
中央の理事が声を低くした。
「呪いの縫い目の相談。あれは何だ? 呪いの検分は王室縫製室の専管。無資格者が呪いと騒いで銭を取るなら、それは詐欺と呼ぶのだ」
係の人が、もう一枚、婦人物の外套を台に載せた。
「ではこれを検分してみせよ。この外套には呪いがあるか、ないか」
(試しているのね。ないものを、あると言わせるために)
わたしは外套を広げて、目を凝らした。
縫い目は視える。
加護の縫い込みがひとつ、肩のところに古びて残っているだけで、呪いの糸はどこにもなかった。
「呪いは、ございません。左肩に旅の無事を祈る加護がひとつ、それも二十年は前のもので、もうほとんど消えかけています」
わたしは消えかけた縫い目を、指先でそっとなぞった。
「……どなたかの、形見の外套ではありませんか」
台の脇に控えていた係の老人の顔色が変わった。
亡くなった妻の外套です、と絞り出すみたいに言って、老人は深々と頭を下げた。
広間のざわめきの質が変わる。
「詐欺と仰るなら」
最前列で、マーサさんが立ち上がった。
「うちの孫のドレスを診てもらったよ。この娘は呪いをほどいて、銀貨二枚しか取らなかった。吹っかけもせず、まけもせずにね」
「うちのは繕いだけ見てもらったが、呪いなんぞないと正直に言われたぞ。銭を取る気なら、あると言えばよかったろうに」
靴屋のご主人が続いて、傍聴席のあちこちから、そうだそうだ、と声が上がった。
理事たちが顔を寄せて長いこと囁き合って、それから中央の理事が渋い顔のまま木槌を打った。
「……仮登録を認める。ただし呪いに関わる検分は、当面、記録を組合へ提出すること」
木槌の音の余韻が消えないうちに、理事は続けた。
「最後に、看板に掲げる加護の刺繍の実演をもって、審査の締めとする」
わたしは頷いて、審査用の白い布を台に広げた。
針箱から自分の針を取り、木綿糸を通して、そこで一度、指を止めた。
『この色は、家の外で出してはだめよ』
あの約束を、今日わたしは、王都中の職人の目の前で破る。
路地の雨の夜とも、書斎の四人の前とも、店の作業台とも違う。
ここで出せば、金の糸は二度と隠せない。
噂は今日中に王都を回り、この色はわたしの名前と縫い合わされて、一生ほどけなくなる。
(お母さま。この色は今日から、わたしの看板です。隠して守る代わりに、掲げて守ります。あなたの教えてくれた腕で)
魔力を通した糸が、金色に灯った。
広間じゅうの息を呑む音が、ひとつの音になって天井に昇った。
わたしは布の目を数えて、旅の無事の加護をひと針ずつ縫っていく。
さっきの形見の外套の、消えかけた加護と同じ紋様を選んだのは、あの係の老人へのささやかな礼のつもりだった。
縫い終えて顔を上げたとき、広間は拍手と歓声とざわめきで割れていた。
柱の陰のフードの人が、腕を組んだまま小さく頷くのが見えた。
その喧噪の中に、ひとつだけ、どの音とも違う静けさがあった。
審査席の最奥で、漆黒のドレスの老婦人の扇が止まっていた。
開いたまま、膝の上でぴたりと。
会場の誰もが金の光に沸いたのに、あの方だけは驚いた顔ひとつしていなかった。
まるで、それがそこにあると知っていて、確かめに来たみたいに。
ただ色の薄い灰色の目が、布の上の刺繍でもなく、わたしの顔でもなく、針から垂れた金の糸の一筋だけをじっと見ていた。
(……採寸、されている)
肩幅でも、着丈でもないものを測る目だと思った。
そういえば、と背中が冷えた。
末端の審査に、縫製室の立会人がじきじきに出るなど前代未聞だと、さっき誰かが言っていた。
この人は、呪いをほどく小娘の噂を聞きに来たのではない。
金の糸がそこにあるかどうかを、確かめに来たのだ。
老婦人は音もなく扇を畳むと、係の者に何かを短く囁いて、拍手のやまない広間から一度も振り返らずに出ていった。




