第8話 三本目の囮
翌日、その男の人は店に入ってくるなり勘定台をぐるりと見回して、挨拶より先に懐から手帳を出した。
運悪く、店には繕いものを取りに来た家具職人の奥さんがいた。
「王都仕立て職人組合、査察方だ。ここの主は?」
査察方、という一語で奥さんの顔が強張るのが分かった。
職人街で組合の査察といえば、店がひとつ畳まれる前触れの言葉だった。
「わたしです。エルシーと申します」
「組合の登録番号を」
ないと答えると、その男は分かりきっていたことを確かめた顔で、手帳に何かを書きつけた。
字を書く姿勢まで、定規で引いたようにまっすぐな人だった。
無登録の仕立て業は、組合法違反になるという。
加えて、と男は勘定台の後ろの壁に掛けたわたしの品書きを顎で示した。
縫い直し、仕立て、加護の刺繍と並んだその下の、開店の夜に書き足したばかりの一行を。
呪いの縫い目の相談、と。
「呪いに関わる検分は、王室縫製室の専管事項だ。無資格者が呪いをほどくなどと看板を掲げるのは、違反どころか犯罪に近い」
男は手帳を閉じた。
「十日以内に店を畳むか、しかるべき筋の沙汰を待つか、選ぶんだな」
「ひとつ、伺っても?」
わたしは男を見た。
「無登録の店なら、この通りにいくらでもあります。開いて十日の、裏通りのうちに、なぜ」
男は答えなかった。
答えないことが答えだった。
言うだけ言って、査察方は出ていった。
家具職人の奥さんは繕いものを胸に抱いて、気の毒そうにわたしを見て、それでも何も言えずに帰っていった。
当然だと思う。
組合に睨まれた店と付き合えば、累は職人街のみんなに及ぶ。
ピムが箒を握りしめて追いかけようとするのを、襟首を掴んで止めた。
「なんだよあれ! リディア様のドレスだって、婆ちゃんのドレスだって、誰も直せなかったのをエルシーが!」
「そうね。でも、あの人の言うことは、規則の上では正しいの」
午後のうちに、わたしは組合の規約の写しを、マーサさんの伝手で借りて読み込んだ。
読めば読むほど、壁は厚かった。
組合への登録には、認可工房での五年以上の徒弟修業と、親方の推薦状が要る。
わたしには九年の針の経験があるけれど、その九年は帳面の上ではどこにも存在しなかった。
メイフィールド家の工房の記録に、下縫いのエルシーの名前は一行もない。
あの家でわたしが縫ったものはすべて、義姉の名前で世に出たからだった。
(盗まれたのは、名前だけじゃなかったのね。名前と一緒に、わたしの九年も消えていたんだわ)
規約と一緒に借りた組合の名簿の写しには、メイフィールド家のサロンの職歴の欄があって、ロザリンド・メイフィールドの名が載っていた。
名簿の上では、あの人は十四で工房に入り、十六で親方格になったことになっていた。
布に針ひとつ通せない、あの人が。
並んだ代表作を、わたしは一着残らず指で覚えていた。
三年前の伯爵家の婚礼衣装もそうだった。
裾の白薔薇を七百輪、ひと月かけて縫った。
仕上げの晩に指を三箇所刺して、血が付かないように当て布をして縫った、あの七百輪だ。
名簿の上では、あれは義姉が十八のときの出世作ということになっていた。
悔しさより先に、規約の頁を繰る手が冷えた。
呪いの検分にいたっては、登録のあるなし以前の問題だった。
『防呪も解呪も、王室縫製室の免状なくして触れるべからず』
あの検印の紋章が、規約の頭に堂々と刷られていた。
呪いの縫い目を通しておいて検査済みの印を捺す、あの検印が。
夜になって、店の裏口が控えめに叩かれた。
外套のフードを目深に被った背の高い人と、その後ろで周囲を警戒する片眼鏡の人が立っていた。
今夜は一着目の外套の仮縫いと、五つ目の結び目の約束の日だった。
カイウスさまは店の中を検分してから、「わたしは表におります」と言って、本当に表へ出ていった。
あの人なりの気の遣い方なのだと、最近わかってきた。
「顔色が悪いな」
フードを下ろすなり、大公さまはそう言った。
ご自分の顔色を棚に上げてよく仰ると思ったけれど、今夜は言い返す元気が少し足りなかった。
わたしは仮縫いの外套をトルソーから下ろして、袖を通していただいた。
この外套には、注文にない工夫をいくつも入れてある。
この方の肩は着丈の割に薄い。
呪いが三年かけて削いだ厚みの分は、裁ち方でこっそり補ってある。
詰襟の内側には一番肌当たりの柔らかい絹を回し、黒手袋の出入りする袖口は、留め具に指が触れずに済む仕立てにした。
触れられない人の服は、服のほうから触れ方を覚えるべきだと思う。
採寸のたび、この方は置物みたいに動かない。
動かないことが、この方なりの精一杯の協力なのだと、もう分かっていた。
肩の線に、待ち針を打っていく。
三本目の待ち針を、しくじった。
指先が震えて、針が布を滑った。
昨日からずっと、震えは眠れば戻るはずだと自分に言い聞かせていて、実際ほとんど戻っていたのに。
今日の査察のせいか、疲れのせいか、一番見られたくない人の前で針が逃げた。
黒手袋の手が、動いた。
わたしの右手を取ろうとして、指の幅ひとつ手前で止まった。
革の指先が宙で強張ってそれ以上進めずに、ただわたしの手の上に翳されている。
手のひらの体温だけが、革を越えて届く距離だった。
「……針だこだらけだ。この傷は新しいな。それに、震えている」
「職人の手はこういうものです」
「その手は誰かに労られたことがあるのか?」
声が静かすぎて、返事に詰まった。
労られる、という言葉と自分の手がうまく結びつかなかった。
この手は、叱られるか、こき使われるか、良くて便利がられるかしかしてこなかった。
だからわたしは針だこを勲章だと思うことにしてきたのだった。
黙っているわたしに、大公さまは翳した手を静かに引いて、それから別のことを言った。
「組合が来たそうだな。カイウスが調べた」
「お耳が早いことで」
「潰せる。組合の理事の半分は、アルディスの名で黙る」
できるのだろう。
この方が一筆書けば、あの男は明日にも謝りに来る。
わたしは打ち終えた待ち針を確かめて、外套の肩を整えてから顔を上げた。
「お気持ちだけ頂きます」
「意地か」
「看板の問題です。大公さまの威光で黙らせた店に、わたしの名前を掲げる意味がありませんから」
外套の肩から、最後の糸屑を払った。
「わたしは名前を、自分の腕で取り返すと決めているんです」
薄青の目がしばらくわたしを見ていた。
怒られるかと思ったら、その目の奥でふっと何かが緩んで、この方は仮縫いの外套の襟を黒手袋の指で正した。
「では、見届けよう。俺は客だからな。この店が続かねば、外套の仕上がりを受け取れずに困る」
「ええ。ですから今夜の分も、きっちり働かせていただきます」
五つ目の結び目は、これまでで一番の難物だった。
呪いはもう、囮の針の手にも慣れ始めていて、帰り道を三重に塞いでいた。
囮を一本掛ければ、牙は本命のほうを向く。
二本掛ければ、二本とも見抜かれる。
仕方がないので三本目の囮を、わざと下手に、ピムの最初の運針みたいにのたうたせて掛けてやった。
結び目が嘲笑うようにそちらへ牙を剥いた。
その傲慢のひと呼吸のあいだだけ、本物の帰り道が空く。
職人を嘗めた報いというものだった。
十五分ほどの騙し合いの末に、漆黒の糸屑が角灯の光に散った。
残り、二十三。
流れ込む憎悪を奥歯で受け止めるわたしを、触れられない人が、手の届く一番近くで見ていた。
翌朝、店の郵便受けに、蝋で封をされた書状が届いていた。
王都仕立て職人組合の紋章の封蝋だった。
開くと、上等な紙に事務的な文字が並んでいた。
『無登録営業ならびに無資格の呪い検分の申し立てにつき、十日後、組合会館において公開の技能審査を行う』
審査に通れば仮登録を認め、通らなければ王都での針仕事を差し止めるという。
(受けて立つわ。人前で腕を見せられるなら、むしろ願ってもない)
そう思いながら書状を畳もうとして、末尾の一行に目が留まった。
『なお当審査には、王室縫製室より立会人を賜る』
塔と針の紋章が、その一行の脇に小さく捺されていた。
共布の端切れの検印と、同じ紋章だった。
(来るのね。検査の内側にいるかもしれない誰かが、わたしの針を、見に)
翌日、その男の人は店に入ってくるなり勘定台をぐるりと見回して、挨拶より先に懐から手帳を出した。
運悪く、店には繕いものを取りに来た家具職人の奥さんがいた。
「王都仕立て職人組合、査察方だ。ここの主は?」
査察方、という一語で奥さんの顔が強張るのが分かった。
職人街で組合の査察といえば、店がひとつ畳まれる前触れの言葉だった。
「わたしです。エルシーと申します」
「組合の登録番号を」
ないと答えると、その男は分かりきっていたことを確かめた顔で、手帳に何かを書きつけた。
字を書く姿勢まで、定規で引いたようにまっすぐな人だった。
無登録の仕立て業は、組合法違反になるという。
加えて、と男は勘定台の後ろの壁に掛けたわたしの品書きを顎で示した。
縫い直し、仕立て、加護の刺繍と並んだその下の、開店の夜に書き足したばかりの一行を。
呪いの縫い目の相談、と。
「呪いに関わる検分は、王室縫製室の専管事項だ。無資格者が呪いをほどくなどと看板を掲げるのは、違反どころか犯罪に近い」
男は手帳を閉じた。
「十日以内に店を畳むか、しかるべき筋の沙汰を待つか、選ぶんだな」
「ひとつ、伺っても?」
わたしは男を見た。
「無登録の店なら、この通りにいくらでもあります。開いて十日の、裏通りのうちに、なぜ」
男は答えなかった。
答えないことが答えだった。
言うだけ言って、査察方は出ていった。
家具職人の奥さんは繕いものを胸に抱いて、気の毒そうにわたしを見て、それでも何も言えずに帰っていった。
当然だと思う。
組合に睨まれた店と付き合えば、累は職人街のみんなに及ぶ。
ピムが箒を握りしめて追いかけようとするのを、襟首を掴んで止めた。
「なんだよあれ! リディア様のドレスだって、婆ちゃんのドレスだって、誰も直せなかったのをエルシーが!」
「そうね。でも、あの人の言うことは、規則の上では正しいの」
午後のうちに、わたしは組合の規約の写しを、マーサさんの伝手で借りて読み込んだ。
読めば読むほど、壁は厚かった。
組合への登録には、認可工房での五年以上の徒弟修業と、親方の推薦状が要る。
わたしには九年の針の経験があるけれど、その九年は帳面の上ではどこにも存在しなかった。
メイフィールド家の工房の記録に、下縫いのエルシーの名前は一行もない。
あの家でわたしが縫ったものはすべて、義姉の名前で世に出たからだった。
(盗まれたのは、名前だけじゃなかったのね。名前と一緒に、わたしの九年も消えていたんだわ)
規約と一緒に借りた組合の名簿の写しには、メイフィールド家のサロンの職歴の欄があって、ロザリンド・メイフィールドの名が載っていた。
名簿の上では、あの人は十四で工房に入り、十六で親方格になったことになっていた。
布に針ひとつ通せない、あの人が。
並んだ代表作を、わたしは一着残らず指で覚えていた。
三年前の伯爵家の婚礼衣装もそうだった。
裾の白薔薇を七百輪、ひと月かけて縫った。
仕上げの晩に指を三箇所刺して、血が付かないように当て布をして縫った、あの七百輪だ。
名簿の上では、あれは義姉が十八のときの出世作ということになっていた。
悔しさより先に、規約の頁を繰る手が冷えた。
呪いの検分にいたっては、登録のあるなし以前の問題だった。
『防呪も解呪も、王室縫製室の免状なくして触れるべからず』
あの検印の紋章が、規約の頭に堂々と刷られていた。
呪いの縫い目を通しておいて検査済みの印を捺す、あの検印が。
夜になって、店の裏口が控えめに叩かれた。
外套のフードを目深に被った背の高い人と、その後ろで周囲を警戒する片眼鏡の人が立っていた。
今夜は一着目の外套の仮縫いと、五つ目の結び目の約束の日だった。
カイウスさまは店の中を検分してから、「わたしは表におります」と言って、本当に表へ出ていった。
あの人なりの気の遣い方なのだと、最近わかってきた。
「顔色が悪いな」
フードを下ろすなり、大公さまはそう言った。
ご自分の顔色を棚に上げてよく仰ると思ったけれど、今夜は言い返す元気が少し足りなかった。
わたしは仮縫いの外套をトルソーから下ろして、袖を通していただいた。
この外套には、注文にない工夫をいくつも入れてある。
この方の肩は着丈の割に薄い。
呪いが三年かけて削いだ厚みの分は、裁ち方でこっそり補ってある。
詰襟の内側には一番肌当たりの柔らかい絹を回し、黒手袋の出入りする袖口は、留め具に指が触れずに済む仕立てにした。
触れられない人の服は、服のほうから触れ方を覚えるべきだと思う。
採寸のたび、この方は置物みたいに動かない。
動かないことが、この方なりの精一杯の協力なのだと、もう分かっていた。
肩の線に、待ち針を打っていく。
三本目の待ち針を、しくじった。
指先が震えて、針が布を滑った。
昨日からずっと、震えは眠れば戻るはずだと自分に言い聞かせていて、実際ほとんど戻っていたのに。
今日の査察のせいか、疲れのせいか、一番見られたくない人の前で針が逃げた。
黒手袋の手が、動いた。
わたしの右手を取ろうとして、指の幅ひとつ手前で止まった。
革の指先が宙で強張ってそれ以上進めずに、ただわたしの手の上に翳されている。
手のひらの体温だけが、革を越えて届く距離だった。
「……針だこだらけだ。この傷は新しいな。それに、震えている」
「職人の手はこういうものです」
「その手は誰かに労られたことがあるのか?」
声が静かすぎて、返事に詰まった。
労られる、という言葉と自分の手がうまく結びつかなかった。
この手は、叱られるか、こき使われるか、良くて便利がられるかしかしてこなかった。
だからわたしは針だこを勲章だと思うことにしてきたのだった。
黙っているわたしに、大公さまは翳した手を静かに引いて、それから別のことを言った。
「組合が来たそうだな。カイウスが調べた」
「お耳が早いことで」
「潰せる。組合の理事の半分は、アルディスの名で黙る」
できるのだろう。
この方が一筆書けば、あの男は明日にも謝りに来る。
わたしは打ち終えた待ち針を確かめて、外套の肩を整えてから顔を上げた。
「お気持ちだけ頂きます」
「意地か」
「看板の問題です。大公さまの威光で黙らせた店に、わたしの名前を掲げる意味がありませんから」
外套の肩から、最後の糸屑を払った。
「わたしは名前を、自分の腕で取り返すと決めているんです」
薄青の目がしばらくわたしを見ていた。
怒られるかと思ったら、その目の奥でふっと何かが緩んで、この方は仮縫いの外套の襟を黒手袋の指で正した。
「では、見届けよう。俺は客だからな。この店が続かねば、外套の仕上がりを受け取れずに困る」
「ええ。ですから今夜の分も、きっちり働かせていただきます」
五つ目の結び目は、これまでで一番の難物だった。
呪いはもう、囮の針の手にも慣れ始めていて、帰り道を三重に塞いでいた。
囮を一本掛ければ、牙は本命のほうを向く。
二本掛ければ、二本とも見抜かれる。
仕方がないので三本目の囮を、わざと下手に、ピムの最初の運針みたいにのたうたせて掛けてやった。
結び目が嘲笑うようにそちらへ牙を剥いた。
その傲慢のひと呼吸のあいだだけ、本物の帰り道が空く。
職人を嘗めた報いというものだった。
十五分ほどの騙し合いの末に、漆黒の糸屑が角灯の光に散った。
残り、二十三。
流れ込む憎悪を奥歯で受け止めるわたしを、触れられない人が、手の届く一番近くで見ていた。
翌朝、店の郵便受けに、蝋で封をされた書状が届いていた。
王都仕立て職人組合の紋章の封蝋だった。
開くと、上等な紙に事務的な文字が並んでいた。
『無登録営業ならびに無資格の呪い検分の申し立てにつき、十日後、組合会館において公開の技能審査を行う』
審査に通れば仮登録を認め、通らなければ王都での針仕事を差し止めるという。
(受けて立つわ。人前で腕を見せられるなら、むしろ願ってもない)
そう思いながら書状を畳もうとして、末尾の一行に目が留まった。
『なお当審査には、王室縫製室より立会人を賜る』
塔と針の紋章が、その一行の脇に小さく捺されていた。
共布の端切れの検印と、同じ紋章だった。
(来るのね。検査の内側にいるかもしれない誰かが、わたしの針を、見に)




