第7話 防呪検査済み
開店から十日目の昼下がりだった。
わたしは勘定台の隅で、ピムの初めての運針を見ていた。
太い針と麻布で、わたしが十歳で始めたのと同じ稽古を、この子は口を尖らせながら、それでも投げ出さずに続けている。
縫い目はまだ糸がのたうったみたいに曲がっているけれど、十日目にしては目の間隔が揃い始めていた。
財布を抜いたこの指は、やっぱり針に向いている。
「なあ、これ、いつになったら服が縫えるんだ」
「真っ直ぐ縫えるようになったらよ。どんな豪華な刺繍も、元をたどれば真っ直ぐなひと針だもの」
「師匠の説教って、どこも同じなんだな」
生意気な口を叩いたところで、店に飛び込んできたのは、走り通しで息を切らした侍女さんだった。
「マーサさんの生地屋で聞いたんです。三本裏に、縫い目の悪いものを視てくださる針子さんがいるって」
布包みから現れたのは、真珠色の絹に薔薇の意匠をあしらった、見事な夜会用のドレスだった。
仕立ても一級品で、王都の表通りの工房の仕事だとひと目で分かる。
侍女さんの主は伯爵家のリディアお嬢さまで、十七歳になるこの春に、社交界へ出たばかりだという。
「お嬢さまは、夜会で必ず倒れられるんです」
最初の夜会ではお披露目のダンスの最中に。
二度目は乾杯の直後に。
三度目のこの前の夜会では、広間に入って十五分ももたずに、真っ青になって崩れ落ちた。
医者は口を揃えて、緊張のせいだ、気の病だ、心が弱いのだと言う。
社交界はもっと露骨で、伯爵家の姫は人前に出られない出来損ない、という噂がもう縁談を三つ潰したらしかった。
「でもお嬢さまは、お屋敷では健やかそのものなんです。庭を走り回るくらい。おかしいのは夜会のときだけ……このドレスを着たときだけなんです」
作業台にドレスを広げて、わたしは目を凝らした。
視えたのは、胴の裏側だった。
真珠色の生地の内側に、漆黒の糸が蔦の形に這っている。
結び目は五つあった。
糸はまだ真新しく艶を持っていて、結び目の芯は、大公さまのものと同じように、どくり、どくりと生きて脈打っていた。
(新しい。それも、こんなに元気な)
仕掛けの意地の悪さに、読み解きながら寒気がした。
この呪いは、着る者から常に力を吸うのではなかった。
糸は、視線に反応するように張られている。
人目を集めるほど、注がれる視線の数だけ、結び目が口を開けて力を吸い上げる。
屋敷でひとりなら何も起きない。
けれど大広間で、社交界中の目が初々しい令嬢に注がれた瞬間、呪いは一斉に彼女の熱を啜る。
(人前で、確実に恥をかかせるための縫い目だわ)
殺すためではない。
壊すための呪いだった。
若い娘の評判と縁談と、人前に立つ心そのものを。
「ほどけます。ただしこの呪いは腕のいい縫い手の仕事ですから、罠の用心をしながらになります。今日の仕立ての仕事はもう手が離れましたので、このまま始めましょう」
「あの……お代は、これで……」
侍女さんが胸元から出したのは、角の擦り切れた小さな財布だった。
数えられた銀貨は、一枚一枚が長く手元にあったものの艶をしていた。
お屋敷のお金ではないと、すぐに分かった。
「……これは、あなたのお給金では?」
「お嬢さまには、内緒で参りましたから。旦那さまも奥さまも、もう祈祷師にも医者にも懲りて、お嬢さまの気の病だと決めてしまわれて」
侍女さんは、財布を両手で握りしめた。
「でも、わたしは十年お仕えして、あの方が弱い方じゃないことを知っています。誰かが証を立てて差し上げないと、あの方、ご自分でもそう信じ始めてしまう」
「牙を剥く結び目は、金貨一枚」
侍女さんの手から、財布が落ちそうになった。
「あのドレスの結び目は、五つとも生きて牙を剥いています。品書き通りなら、金貨五枚です」
銀貨を握った侍女さんの指が、白くなった。
わたしは目を逸らさずに続けた。
「値札は下げません。下げたら、次のお客さまに嘘をつくことになりますから」
「で、では、わたし……」
「その代わり、払い方は相談に乗ります」
わたしは財布を、そっと押し返した。
「お嬢さまが夜会で倒れなくなったその日に、伯爵家の名前で正式に頂きます。お屋敷の帳簿に『エルシーの店』と書いて頂く形で」
侍女さんが口を押さえた。
わたしはそれから、約束をひとつ足した。
ほどき終えたら、呪いがあった証拠の糸を、目に見える形でお渡しします、と。
気の病と言った人たちの前に、突きつけられる証を。
お茶を出すようピムに頼んで、わたしは針箱を開けた。
金の糸に、いつもの断りをひとつ入れる。
それから五つの結び目と、騙し合いを始めた。
罠はあった。
三つ目の結び目に、返しの締めがひとつ仕込まれていた。
大公さまの呪いに比べれば子供だましみたいな仕掛けだったけれど、同じ流派の匂いがした。
囮の針で牙を逸らして、裏から帰り道を開く。
ひとつ、またひとつ、漆黒の糸屑が午後の光の中に散っていく。
問題は、結び目がほどけるたびに流れ込んでくるもののほうだった。
新しい呪いの残留感情は、古いものとは比べものにならなかった。
マーサさんのドレスのそれが出涸らしなら、これは煮え立ったままの鍋だった。
ひとつほどくごとに、氷水と熱湯を同時に浴びせられるような感情がわたしの胸を通り抜けていく。
妬ましい、という形をしていた。
あの娘さえ、あの家さえ、なぜわたしではなく、どうしてあの女が。
誰のものとも知れない声が、他人の口紅みたいに、べったりと胸の内側に貼りついてくる。
五つ目の結び目が散ったとき、窓の外はもう夕暮れだった。
「終わり、ました。もう、視線を吸うものは残っていません」
自分の声が、遠くで聞こえた。
黒い糸屑を集めてから乾いた布に包んで、侍女さんの手に載せる。
「濡らさないでください。水に触れると、消えてしまいますから」
侍女さんが、包みを胸に強く押し当てた。
消えるものを証拠にするしかないのだと、そのとき初めて思い当たった。
あの朝、義父の書斎で、縫い目を検分させてくださいと言ったことを思い出す。
もし許されていたとしても、あの人たちは雨の一粒で、それを消せたのだ。
侍女さんは泣きながら、これでお嬢さまは、次の夜会は、と何度も確かめて帰っていった。
次の夜会は大丈夫。
ただし、念のため当日の朝にもう一度ドレスを検めさせてほしいと伝えて、わたしは扉を閉めた。
閉めたところで、膝が抜けた。
「エルシー!」
ピムの声が飛んできて、細い腕が思いのほか力強くわたしを支えた。
「大丈夫、ちょっと座りたいだけ」と笑ってみせたつもりだったけれど、あまり上手には笑えなかったと思う。
胸の底の煤が、今日は冬の暖炉の灰みたいに厚く積もっていた。
他人の妬みを、続けざまに五つ飲み下したのだから当然だった。
「顔、真っ白だぞ。あの婆さんのドレスのときは、こんなじゃなかった」
「新しい呪いはね、感情が濃いの……それだけよ。夕飯はわたしが作るから」
「いいから座ってろって。……なあ、その仕事、毒なんじゃねえのかよ」
毒、という言葉に、黒手袋の人の顔が浮かんだ。
毒だから離れろと言ったあの人に、わたしはあなたの呪いに毎回触れていますと言い返した。
あれは強がりではなくて本当のことだけれど、触れて平気なことと、無傷なことは、違う。
(でも、やめる理由にはならないわ。あの縫い目が視えるのも、ほどけるのも、わたしだけなんだから)
その夜、寝る前にいつもの覚え書きを描こうとして、わたしは手が震えているのに気がついた。
針を持つ右手の指先が、小刻みに、自分のものではないみたいに揺れている。
試しに針に糸を通してみると、三度しくじった。
四度目に、やっと通った。
雨の路地で凍えていたときですら、三度目には通ったのに。
(一晩眠れば戻る。きっと戻る)
帳面に五つの結び目の図を描き写して、大公さまの図、マーサさんの図と並べる。
同じ癖が、三たびそこにあった。
描き終えて頁を閉じようとしたとき、角灯の灯りが、作業台の隅に残っていた布切れを照らした。
侍女さんが忘れていった、ドレスの共布の端切れだった。
仕立て直しのときに使う、予備の布だ。
何気なく畳もうとして、わたしはその隅に押された小さな焼き印に目を留めた。
塔と針を組み合わせた紋章の、検印だった。
【王室縫製室 防呪検査済み】
貴族が夜会にドレスを着ていくとき、呪いの縫い込みがないことを保証する、王都でただひとつの公式の印だった。
屋敷にいた頃、納品前のドレスにこの焼き印が捺されて戻ってくるたび、義父は安堵の息をつき、お客さまは疑いもなく袖を通した。
王都の誰もがこの塔と針を信じている。
信じているから、誰も自分のドレスの裏なんて検めない。
あの真珠色のドレスは、検査を通っている。
呪いの糸が、あんなに堂々と胴裏を這っていたのに。
(検査が、節穴だった? いいえ、あの縫い目を見落とす検査官なんて……)
考えられる答えは、ふたつしかなかった。
検印のあとで、誰かが針を入れたか。
それとも──。
(検査をする側の中に、呪いの縫い手がいる)
どちらであっても、ひとつだけ、確かなことがある。
あの朝露のドレスも、検印を受けて屋敷に戻ってきていた。
わたしが袖裏の糸留めまで確かめてから、検査に出したドレスだった。
それなのに夜会の広間で、殿下の袖口の裏には、光を呑む黒い一筋が走っていた。
検印のあとで袖裏に針を入れられて、仕上げの日程も、どの袖がいつ空くかも承知している誰かがいる。
(ある方が、それは腕の確かな針子を回してくださるって)
書斎で聞いた義姉の声が、耳の奥でよみがえった。
(同じ手が、わたしの縫った袖にも針を入れたんだわ)
角灯の火が、ふ、と揺れた。
わたしは端切れの検印を、震えの残る指でそっと裏返した。




