第6話 同じ手筋
磨り硝子の扉を開けると、頭の上で真鍮の鈴が、りん、と鳴った。
お客さまを連れて鳴るのはこれが初めてだった。
記念すべき一鳴り目を連れてきたのは、羊毛の肩掛けを巻いた小さなお婆さんと、焼き立てのパンの匂いだった。
「ごめんなさいね、看板も出てないうちから。三軒先で生地屋をやってる、マーサといいます」
差し出された包みは焼き立ての胡桃入りパンだった。
職人街では新入りの店に、最初の朝に食べ物を持っていく仕来りなのだという。
屋根裏で過ごした十年のあいだ、こういう仕来りのある通りに、わたしはずっと憧れていた。
小脇にもうひとつ、大きな包みを抱えているのには、そのとき気づかないふりをした。
ありがたく頂いて、お茶の一杯もと招き入れると、マーサさんは店の中をぐるりと見回した。
壁の漆喰の塗りむらまで確かめるような目をしてから、作業台の上の仕掛かりの布に目を留める。
大公さまのための、一着目の注文の袖だった。
「……あんた、その縫い、魔法刺繍かい」
「はい。加護の縫い込みを少し」
「ちょいと、見てもらいたいものがあるんだよ」
お婆さんの声がそこで少しだけ変わった。
世間話の声から、長いこと胸に仕舞っていたものを取り出す人の声に。
もうひとつの包みから出てきたのは菫色のドレスだった。
春祭りに着る娘物の仕立てで、生地は上等だけれど、型はひと昔前のものだった。
あちこちに丁寧な直しの跡がある。
孫娘のリタのために、亡くなった娘さんの形見を仕立て直したものなのだと、マーサさんは皺だらけの手で襟を撫でながら言った。
「リタはこれを着ると、決まって熱を出すんだ。祭りの朝に着せたら、昼には唇が真っ青になって倒れちまう」
襟を撫でる手が、そこで止まった。
「医者は気の持ちようだって言うんだけどね、あたしはどうも……この服が、いけない気がして」
わたしはドレスを作業台に広げて、目を凝らした。
(視えた)
菫色の胸元の裏、身頃の内側に、色褪せた灰黒色の縫い目がひっそりと走っていた。
大公さまの呪いのように脈打ってはいない。
糸はもう乾いた血みたいにくすんで、結び目もふたつしかない。
それでも結び目の芯には、まだ小さな熱が残っていた。
着る者の体温を、暖炉の灰が熾火を隠すように、静かに静かに吸う仕掛けになっていた。
「マーサさん。これ、呪いの縫い込みです。とても古いものですけれど」
「……やっぱり、そうかい」
お婆さんは驚かなかった。
ただ目を閉じて、深く息を吐いた。
「娘はね、心の臓が弱いって言われて、二十六で逝ったんだ。いつも寒い寒いって言ってた」
閉じた目のまま、マーサさんは菫色の生地を指でつまんだ。
「この生地はあの子が若い時分、お屋敷に針子奉公へ上がってた頃に、お仕着せ代わりに頂いてきたものでね」
「針子奉公を……なさっていたんですか?」
「ああ。あの子も針が好きでねえ。腕を見込まれて、十五で上のお屋敷に上がって……二年ばかりで、急に暇を出されて帰ってきたんだよ」
マーサさんは、そこで少し笑った。
笑うしかない、という笑い方だった。
「奉公先で何があったのか、とうとう一度も話さなかった。ただ、帰ってきてからは、ぱったり針を持たなくなった。あんなに好きだったのに」
「そのお屋敷はどちらの?」
「さあ。あの子は名前も言わなかった。ただ、王宮に糸を納めるような、それはお偉い縫い師の家だとだけ」
(お屋敷の針子奉公。二年で急に暇を出されて、針を持たなくなった)
胸の奥に、小さな棘みたいに引っかかるものがあった。
でも今は、目の前の縫い目が先だった。
「ほどけます。古い呪いは縫い手の魔力が抜けかけていますから、殿……ええと、以前手掛けたものより、ずっと素直なはずです。お代は銀貨二枚。それと、ほどく間、リタさんの話を聞かせてください」
「銀貨二枚って、あんた、そんなに安くていいのかい」
「値段を決めるのは、お客さまの身分でも、お財布でもありません。結び目です」
わたしは帳面の品書きの頁を開いて、殿下のひと結びの下に、もう一行書き足した。
「牙を剥く結び目は、金貨一枚。眠っている結び目は、銀貨一枚。このドレスの結び目はふたつとも眠っていますから、銀貨二枚です」
「……はあ」
「まけてもいませんし、吹っかけてもいません。うちはそういう店なんです」
ピムに湯を沸かさせて、マーサさんに椅子を勧めて、わたしは針箱を開けた。
金の糸を通すとき、一度だけ指が止まる。
この色を出すたび、たぶんわたしは一生、胸の内でお母さまに断りを入れるのだと思う。
金色に灯った糸を見て、マーサさんが、まあ、と小さく声を漏らした。
古い結び目は、大公さまのものとは比べものにならないくらい、大人しかった。
帰り道を塞ぐ牙もなく、糸はほどかれるのを待っていたみたいにするすると針に従った。
ただ、結び目が緩んだ瞬間に流れ込んでくるものだけは、古くても呪いだった。
流れ込んできたのは、薄まった憎悪だった。
煮詰めた酢のように、憎しみの形は崩れているのに、冷たさだけが濃くなっている。
いつか誰かがこの糸に込めた感情の、その出涸らしを、わたしは奥歯を噛んで受け止めた。
ふたつ目の結び目が糸屑になって消えたとき、菫色のドレスは見違えるほど明るくなった。
生地そのものが持っていた、上質な絹の艶が戻っていた。
「終わりました。もう、リタさんの熱を吸うものは残っていません」
マーサさんはドレスを胸に抱きしめて、それから長いこと声を立てずに泣いた。
「娘はね、病じゃなかったのかもしれないんだね」と、掠れた声で言うのに、わたしは答えられなかった。
二十六で逝った娘さんが着続けたものが何だったのか、確かめる術はもうない。
でもマーサさんは涙を拭いて、あんたに見てもらえてよかった、と笑ったのだった。
「この御恩は忘れないよ。うちの生地、あんたのところには原価で回すからね。それから職人街の連中に言っとく。三本裏に、本物の針子が来たって」
銀貨二枚は、きっちり頂いた。
帳簿の売上の一行目に、わたしはそれを丁寧に記した。
午後には本当に、職人街から冷やかし半分の客が三人も来た。
最初は靴屋のご主人で、油の染みた前掛けをどさりと勘定台に置いて、繕えるかい、と顎で示した。
革包丁で切れた裂け目を当て布で塞いで、それから、開店祝いです、と断ってから、膝の擦れる場所へ疲れにくい加護をひと針忍ばせた。
ご主人は前掛けを腰に当てて、二、三度屈伸をして、それから初めてわたしの顔を見た。
「……あんた、いくつだ」
「十九です」
「ふん。腕は倍の歳だな」
それだけ言って、銅貨を几帳面に数えて置いて、帰っていった。
あとから来た家具職人の奥さんが、あの人が初対面の職人を褒めるのは十年ぶりだよ、と笑って教えてくれた。
裾上げも、外套のボタンの付け替えも、どれも小さな仕事だけれど、わたしは一針ずつ、王女殿下のドレスと同じ丁寧さで縫った。
下縫いの九年で身に染みたことがあるとすれば、針は着る人の身分を知らない、ということだった。
ボタンを付け替えるあいだ、家具職人の奥さんの世間話を聞くともなしに聞いた。
メイフィールドのサロンは王女殿下の次の夜会のドレスも請けて、それはもう大変な繁盛で、予約は半年先まで埋まっているらしい。
そこで奥さんは少しだけ声をひそめた。
「……でもねえ。あのサロン、ここ半月ばかり、どこもかしこも納品が遅れてるって話でね。王女さまのドレスだって、まだ絵図の一枚も上がらないとか」
(そうでしょうね)
わたしは玉留めをして、糸を静かに切った。
(回してもらった腕の確かな針子さんも、図案までは描いてくれないのね)
針は止めなかった。
夕方、ピムが妙な報告をしてきた。
「なあ。黒ずくめのでっかい男が、店の前を三べんも行ったり来たりしてたぞ。混んでんの見ちゃ、帰ってった」
(最初の客は俺だ、と仰っていたのに)
最初の客になり損ねたどこかのどなたかには、一着目の仮縫いを早めに進めて差し上げようと思う。
三日、早めた。
呪いの進行が心配だから、と自分に説明した。
説明が要るということの意味には、そのとき気づかなかった。
夜、店を閉めてから、わたしは勘定台の後ろの壁に掛けた品書きを外した。
縫い直し、仕立て、加護の刺繍と並んだその下に、少し迷ってから一行を書き足した。
呪いの縫い目の相談、と。
(医者に気の持ちようだと言われて、黙って熱を出している子が、この王都にあと何人いるのかしら)
リタさんのドレスは、誰にも気づかれないまま、二十年以上も着る人の熱を吸い続けていたのだ。
(お母さま。視えることを、とうとう品書きにまで書いてしまいました)
壁に掛け直した品書きの、新しい一行だけが、まだ乾ききらずに濡れて光っていた。
それから二階へ上がって、帳面に今日の縫い目の覚え書きを描いた。
縫い目を図に残すのは、下縫い時代からの習い性だった。
義姉の名前で世に出ていく仕事の、せめて自分の控えを、と始めた帳面だった。
誰に見せるあてもないのに九年続けたのは、いつか役に立つ日が来ると信じていたからか。
それとも、そうでもしないと自分の九年が本当に消えてしまう気がしたからか。
菫色のドレスのふたつの結び目を描き終えて、頁を繰り、半月のあいだ描き溜めた大公さまの呪いの図と並べて見比べた。
手が止まった。
返し縫いの重ね方。
糸の運びの角度。
結び目の芯の、締めの向き。
(同じ、癖だわ)
似ているどころではなかった。
教本にすれば同じ頁に載る、同じ手筋だった。
けれど、あのドレスの呪いは色褪せ方からして、少なくとも二十年、おそらくもっと前に縫われている。
大公さまの呪いは、たった三年前のものだ。
(二十年……)
わたしは自分の帳面を、最初の頁まで繰り戻した。
十歳の運針。
十三の下縫い。
十六の刺繍。
同じ手筋のはずなのに、癖は太り、角度は寝て、締めの向きさえ変わっている。
たった九年で、これだ。
二十年あれば、人の手筋は否応なく変わる。
それなのに、ふたつの結び目は寸分も違わない。
(……変わらないんじゃない)
背筋を、冷たいものが伝った。
(同じように縫えと、教わっているんだわ。誰かが、誰かに)




