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義姉に手柄を盗まれ続けた針子令嬢 〜追放されたので呪いほどきの仕立て屋を開きます〜  作者: 陽和


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第5話 ひと結び、金貨一枚

 気がつくと、わたしの手首は黒手袋に掴まれていた。


 血の玉が糸を伝い落ちるのと、大公さまが椅子から身を乗り出すのがほとんど同時だった。


 革越しの指がわたしの手首を包んで、針から遠ざけるように引き寄せていた。


「殿下……!」


 悲鳴みたいな声を上げたのはカイウスさまで、当のわたしは声も出なかった。


 そして一番驚いていたのは、たぶん大公さまご本人だった。


 薄青の目が自分の右手を見た。


 他人の手首を掴んでいる自分の右手を、信じられないものみたいに見て、それから火に触れた人の速さで離した。


「……すまない。考えるより先に、手が」


「いえ……」


「移ったか。痺れや、悪寒は」


「ありません。手袋越しですし、それにわたし、あなたの呪いには昨夜も素手の指で触れていますけれど」


 大公さまは黙った。


 黒手袋の右手が所在なく宙に浮いたままで、その指先がまだかすかに強張っているのが分かった。


 わたしは裂けた指先をハンカチの端で縛って、針を持ち直した。


「続けます。この呪い、わたしがほどいた道筋を覚えていて、同じ道を塞いでいます。ですから」


「覚えて、だと? 縫い目が、か?」


「はい。つまりこの縫い手は、ほどかれることを織り込んで縫っている。性根がねじ曲がった、ものすごい腕です」


 褒めている場合かとカイウスさまが呻いたけれど、腕は腕として認めなければ勝てるものも勝てなくなる。


 わたしは今度は逆側の端から糸を読んだ。


 塞がれた帰り道の手前に、囮の針をひとつ浅く掛ける。


 結び目がそちらへ牙を向けた隙に、本命の針先を裏から滑り込ませる。


 子猫の鼻先でリボンを揺らしておいて、そのあいだに反対の手で毛糸玉を取り返すのと同じ要領だった。


 ほどきものというより、騙し合いだった。


 その結び目が、黒い糸屑になって散った。


 大公さまの呼吸がまたひとつ深くなるのを見届けたところで、視界がぐらりと揺れた。


 倒れる前に自分で床に膝をついたのだから、上出来だったと思う。


 結び目から流れ込んだ憎悪の残りが、胸の底で煤みたいに重かった。


 医師と侍女が駆け寄ってくる足音の向こうで、「休ませろ、絶対にだ」という低い声が聞こえた。


 それから店が決まるまでの半月を、わたしは大公邸の離れで過ごした。


 監視も兼ねている、と言い渡したのはカイウスさまで、「結構です。お家賃が浮きます」と即答したらこめかみに筋を浮かべていた。


 あの人はわたしをまだ疑っている。


 疑うのが役目の人がそばにいるのは、むしろ健全なことだと思う。


 店の条件は、わたしの中で最初から決まっていた。


 仕立て屋通りの表に構える店も、頼めば手に入ったのかもしれない。


 けれど、自分の稼ぎで回していけない店は、わたしの店とは呼べなかった。


 だから、その裏手でいい。


 工房と住まいを兼ねられる二階建てで、水場があって、南向きの窓から針仕事のできる光が入ること。


 三本裏の通りに、ちょうど店じまいした帽子屋の空き家を見つけたときは、これはもう縁だと思った。


 トムじいさんが教えてくれた安宿と、同じ並びだったから。


 初めて中に立った日のことは、たぶん一生忘れない。


 埃の積もった床に、南の窓から午後の光が斜めに落ちていた。


 帽子の木型が二つ三つ、棚に置き忘れられたまま埃をかぶっている。


 壁は煤け、階段は二段目が軋み、雨漏りの染みが天井の隅に地図を描いていた。


 それでもわたしには視えた。


 この光の下に作業台を置いて、あの壁に生地の棚を作って、勘定台はあそこ。


 扉にはよく響く音の鈴を付ける。


 屋根裏の夜に何百回も思い描いた店の絵が、埃の中に寸法までぴったりに重なった。


「鈴は真鍮のものにします」


 思わず声に出したら、検分に付き添っていたカイウスさまが、「鈴?」と怪訝な顔で聞き返した。


 説明はしなかった。


 これは六年分のわたしだけの図案だった。


「改装費はこちらで持つと、ヴィルフリート殿下が」


「お気持ちだけ頂きます。壁の漆喰はわたしが塗れますし、棚は大工仕事のできる方を紹介していただければ。足りない分は、自分で稼いで払います」


 わたしは、まだ表紙の固い新しい帳面を、カイウスさまの前に置いた。


「ですから、解呪には手間賃を頂きます。店は契約の対価、解呪は仕事。分けて頂かないと、帳簿がつけられませんので」


「……殿下のお命に、値札をつけるか」


「つけます」


 真新しい品書きの頁を開いてみせた。


「うちの店は、袖の繕いが銅貨三枚。加護の縫い込みが銀貨一枚」


 わたしは品書きの一番下に、新しい一行を書き足した。


「殿下のひと結びも、同じ帳面に同じ書き方で載せます。金貨一枚で承ります」


「……貴様」


「値札のない仕事は値切られるんです。わたしはもう、ただ働きはしないと決めていますから」


 カイウスさまは長いことわたしを見て、それから、ほんの少しだけ疑いの薄れた声で言った。


 おまえのような娘は初めて見る、と。


 褒め言葉として頂いておくことにした。


 半月のあいだに、大公さまはたびたび離れを訪れた。


 ほどきの日はもちろん、そうでない日も。


 そして、そのたびに少しずつ口数が増えた。


 最初は、「痛むか」とだけ。


 次は、「その針の持ち方には意味があるのか」と。


 三度目には、茶を勧められた。


 侍女が卓に茶器を置いて下がると、大公さまはそれを自分の側から卓の中央まで押して、そこで手を止める。


 そこから先はわたしが取る。


 この屋敷の作法だった。


 誰も、この人の手から直接ものを受け取らない。


 一着目の注文の採寸をしたのも、その半月のあいだだった。


 肩幅と袖丈を測るとき、大公さまは手袋を外さなかった。


 外さないまま、腕を上げろと言えば上げ、下ろせと言えば下ろし、律儀にわたしの言うとおりに動いた。


 三年、誰にも寸法を測らせなかった人の腕は、思っていたよりずっと素直だった。


 離れの本棚には、いつのまにか見覚えのない本が増えていた。


 染料の覚書。

 王都の商いの法。

 店を構える者のための帳簿の付け方。


 どれも背表紙に指の跡ひとつなく、けれど頁の端だけが、必要な章のところで柔らかく折られていた。


 誰が置いていったのかは、聞かなかった。


 聞けば、この人はきっと置いていくのをやめてしまう気がしたから。


 四度目の夜だったと思う。


 大公さまは黒手袋の指を眺めながら、呪いのことでも店のことでもない話をした。


「三年、誰にも触れずに生きてきた」


「…………」


「慣れたつもりでいた。だが、おまえが平気な顔で近づいてくるたび、慣れてなどいなかったのだと気づかされる」


「わたしは針子ですから」


 わたしは針を持つ手を、軽く持ち上げてみせた。


「布に触れなければ、仕事になりません」


 大公さまは何も言わなかった。


 ただ、その夜の茶器は卓の中央では止まらなかった。


 わたしの手のすぐ手前まで押されてきて、そこで止まった。


 指、二本分の距離だった。


 その二本分を、わたしはしばらく忘れられなかった。


 結び目はふたつ減って、茶器の止まる場所が少しだけ変わった。


 そういう半月だった。


 事件は開店三日前の市場で起きた。


 看板に入れる塗料とボタンを買い込んで、人混みを抜けようとしたときだった。


 外套の左側が、ほんのわずかに軽くなった。


 生地の重みの変化なら、誰よりも敏感な自信がある。


 振り向きざまに手を伸ばして、わたしは細い手首を掴んでいた。


 赤毛のそばかすの男の子が、わたしの財布を持ったまま猫みたいに固まっていた。


 歳は十三か十四くらいだろうか。


 手首は枯れ枝みたいに細いのに、財布を抜いた手際そのものは見事だった。


 外套の合わせ目の、縫い糸が一番弛む場所を正確に狙っている。


「衛兵を呼ぶ気かよ」


「呼ばれたい?」


「……腹が、減ってただけだ」


 睨み上げてくる目は灰緑色で、飢えているくせに謝る気は微塵もなさそうだった。


 わたしは財布を取り返す代わりに、その手首をひっくり返して、指をじっと見た。


 細くて、節が柔らかくて、指先の神経が生きている。


「ねえ、あなた。その指先、針に向いてるわよ」


「……はあ?」


「うちの店で働かない? 雑用と針の修業。給金は最初は安いけど、食事は三食つけるわ」


 男の子は、財布を盗もうとした相手に何を言われたのか分からない、という顔を長いことしていた。


「……なんで、盗人にそんな話すんだよ」


「盗めるものと、盗めないものがあるからよ」


 わたしは人差し指の腹の、固い針だこを見せた。


「あなたが盗んだのはお金。でも、腕は誰にも盗めないの。盗めないものは、自分で身につけるしかない。……教えてあげる、って言っているのよ」


 わたしは屋台で肉のパイをふたつ買って、片方を突き出した。


 受け取るまいという意地は、湯気の匂いの前であっけなく敗れた。


「……罠じゃ、ねえのかよ。飯で釣って、衛兵に突き出すやつ」


「そんな回りくどいことをするくらいなら、最初から突き出しているわ。それに罠っていうのはね、もっと居心地よく仕掛けるものよ」


「変なやつ」


 名前はピムというのだと、湯気の立つパイを両手で持ったまま、ぼそりと教えてくれた。


 父親は五年前の戦争から帰らず、母親はその次の冬に流行り病で逝ったという。


 寝床は橋の下で、雨の日は市場の軒下にもぐり込む。


 訊いてもいないことを、この子はぶっきらぼうに少しずつ話した。


 話しながら、パイを三口分も残して、そっと懐に仕舞おうとする。


「それはあなたの分、明日の分は明日あげる」と言ったら、目を真ん丸にしていた。


 そして、開店前夜が来た。


 わたしは二階の住まいで帳面をつけていた。


 階下の店には、削りたての木の匂いがまだ残っている。


 表には夕方、仕上がったばかりの看板を仮に掛けてみた。


【エルシーの店 仕立てと繕い】


 家具職人のご主人が彫ってくれた文字を、わたしは布を掛ける前に指先で一文字ずつなぞった。


 彫りの溝はまだ木の香りがして、少しだけささくれて、温かかった。


 扉の上には、真鍮の鈴も付けた。


 試しに扉を三度開け閉めして、三度とも、よく響いた。


 ピムは店の隅の小部屋で、毛布にくるまって早々に眠ってしまった。


 屋根の下で眠るのは久しぶりなんだと、照れ隠しみたいに悪態をつきながら。


 帳面には、開店資金の出入りと、それからもうひとつの数字が並んでいる。


 結び目、全部で二十八。


 ほどいた数、四。


 残り、二十四。


 大公さまが、開店したら最初の客は俺だと宣言なさったので、記念すべき最初のお客さまは決まっている。


 呪いの縫い手のことも、王女殿下のドレスのことも、考えなければならないことは山ほどあるけれど、今夜だけはこの帳面を眺めていたかった。


 最後に日付の横へ、エルシーの店、開店前夜、と書き入れて、インクが乾くのを待ってから帳面を閉じた。


 階下で、真鍮の鈴が隙間風に触れて、時々、思い出したように小さく鳴った。


 開店の朝は雲ひとつない晴れだった。


 わたしが表の看板に布を掛けたまま最後の掃除をしていると、店の扉が、こんこん、と控えめに叩かれた。


(お客さま? でもまだ、看板も出していないのに)


 扉の磨り硝子の向こうに、小さなお婆さんの影が立っていた。

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