第4話 二十七の結び目
剣を突きつけられて連行された先は、牢屋ではなく暖炉の燃える客間だった。
大公さまご本人が気を失う寸前に、その娘に手荒な真似をするな、と言い残したかららしい。
らしい、というのは、扉の外の見張りの兵士たちの噂話で知ったからだ。
借り物の毛布にくるまって暖炉の前で眠ったのだから、待遇としては破格だったと思う。
なにしろ昨夜のわたしには、帰る家がなかった。
夜が明けて通されたのは、天井の高い書斎だった。
案内の途中で、わたしはこのお屋敷の奇妙さに気づいていた。
廊下ですれ違う使用人が、みんな壁際に寄って足を止める。
それ自体は行儀の内だとしても、誰もが判で押したように手を後ろへ組むのだった。
物を差し出すときは必ず卓を挟み、扉は主より三歩先で開けて離れる。
触れない、という作法がこの屋敷の骨の髄まで染みている。
この家の主がどんなふうに暮らしてきたのか、廊下を一本歩くだけで分かる気がした。
書斎の中央の長椅子に、昨夜の男の人が座っていた。
アルディス大公ヴィルフリートさまというのが、あの薄青の目の人の名前だった。
書斎に入る前に、片眼鏡の副官から聞かされていた。
聞かされた、というより、殿下の御名も知らずに近づいたと言い張るつもりかと詰問された、と言うほうが正しい。
扇の陰で噂されていた、三年も夜会に姿を見せない大公さまが、この人だったのだ。
「単刀直入に聞く」
その副官が、わたしと大公さまの間を塞ぐように立って口を開いた。
カイウス・ヴェルナーと名乗った人は、片眼鏡の奥の目が氷みたいに冷たかった。
「おまえのことは、昨夜のうちに調べさせた。メイフィールド男爵家の連れ子で、昨日、王女殿下のドレスに細工をした咎で家を追われている」
(一晩で、そこまで)
袖に針を入れたのはわたしではない、と言い返したところで、証は何ひとつなかった。
「その手が、同じ夜に殿下の胸元で針を持っていた」
カイウスさまは、一歩も引かずに続けた。
「呪いの縫い込みは、縫い手本人にしか手出しできぬのが常識だ。それをほどいたと言い張るなら、答えはひとつしかない。あの呪いを縫ったのは、おまえだ」
「では伺いますが、縫い手がわざわざ雨の路地で、自分の呪いをほどいて差し上げる理由はなんでしょう」
「油断させるためだろう」
「まあ。ずいぶん手の込んだ油断のさせ方ですこと」
カイウスさまのこめかみに、筋が浮くのが見えた。
喧嘩を売っている場合ではないと頭では分かっているのに、寝床と朝食を頂いた程度で、罪まで頂くわけにはいかなかった。
「よせ、カイウス」
低い声がした。
大公さまが長椅子から立ち上がって、こちらへ歩いてくる。
昨夜より足取りは確かだけれど、顔色はまだ雪の色に近かった。
「医師が言った。呪いの侵食が、昨夜を境に一段浅くなったと。この三年、どんな祈祷も薬も効かなかったものがだ」
薄青の目が、まっすぐわたしを見下ろした。
「もう一度、できるか?」
「殿下!」
「できるなら、見せてもらう。話はそれからだ」
わたしは頷いた。
どうせ疑いを解く道は、それしかなかった。
それに正直に言えば、あの縫い目を明るい場所でもう一度きちんと視てみたかった。
大公さまが軍服の上着を脱いで、シャツ一枚で椅子に腰を下ろす。
呪いは軍服だけではなく、その下のシャツにまで糸の根を伸ばしていた。
わたしが一歩近づくと、大公さまの肩が強張るのが分かった。
黒手袋の両手が肘掛けを掴んで、わたしから最大限遠い位置で固まっている。
「刺しませんので、ご安心を」
「……おまえを警戒しているのではない」
(知っています。昨夜、離れろと仰った時と同じ目をしていらっしゃるから)
毒だ、と昨夜この人は言った。
自分の呪いが、近づく者に移るとでも思っているような言い方だった。
それがどういう三年間を意味するのか、考えるのは後回しにして、わたしは縫い目に目を凝らした。
朝の光の下で視る呪いは、夜よりさらに緻密だった。
ひとつ、ふたつ、と糸の流れを端から順に目で追って、結び目を数えていく。
視線だけで糸をたどるうち、背中に冷たい汗が滲んできた。
(なに、この縫い方)
結び目は、全部で二十七あった。
昨夜わたしがほどいた分を入れれば、元は二十八あったことになる。
二十八という数を、わたしは口の中で一度転がした。
ドレスのボタンなら数え慣れた数字なのに、人の命に打たれた数だと思うと、指先が冷えた。
問題は数ではなくて、掛け方だった。
二十七の結び目は互いに糸を貸し合って、ひとつの網になるよう計算されている。
しかも要所には返し縫いが仕込まれていて、コルセットの紐を一本引けば胴全体が締め上げられるように、読み違えて引けば網全体が一斉に締まる。
「……ひどい」
声が漏れた。
大公さまとカイウスさまが、同時にわたしを見た。
「この呪い、罠が縫い込まれています」
わたしは襟元から胸へ、糸の走る道を指で宙にたどってみせた。
「二十七の結び目の順を無視して力任せにほどけば、残りが全部、一度に締まります。宿主の……殿下のお命を、絞り切る仕掛けです。おそらく、ほどこうとした針子ごと」
書斎が静まり返った。
「服なら、何度も焼いた」
大公さまが、シャツの胸元に目を落として言った。
「焼くたびに、新しい服の裏に同じ縫い目が浮いてくる。三年、その繰り返しだ」
「糸の根が、お体そのものに移っているからです。布を替えても、根が新しい布へ縫い目を張り直すんです」
カイウスさまの顔から、疑いの色より先に血の気が引いていくのが分かった。
「ひとつ、伺っても」
わたしは糸から目を上げた。
「これほどの腕で、これほどの悪意です。この呪いを縫った人に、心当たりは?」
大公さまは答えなかった。
黒手袋の指が、肘掛けの上で一度だけ動いた。
訊いてはいけないことを訊いたのだと、それで分かった。
「手は、あります」
わたしは端の結び目を指さした。
「端から順に、糸の帰り道を読んで、ひと結びずつほどくこと。ただし結び目はお命から力を吸って張っていますから、一度に多くほどけば、反動でお体が保ちません」
昨夜は、ひとつほどいただけで呼吸が変わったのだ。
「ひとつほどいたら、数日休んで、また次を。二十七回、それを繰り返します」
「どれほどかかる」
「殿下のお体次第ですが、季節がふたつか、みっつ」
大公さまは長いこと黙っていた。
それから、笑った。
笑ったと言っても、口の端がほんのわずかに動いただけだった。
けれどそれは、昨夜から初めて見る、この人の呪い以外の表情だった。
「この三年間、死に方だけを考えてきた。治ると言われたのは初めてだ」
(だから昨夜、わたしを死神と間違えたのね)
薄青の目が、わたしを射抜いた。
「エルシーといったな、すべてほどけ。対価は望むままに用意しよう。金でも、爵位への口利きでも」
「では、店をひとつ」
わたしは即答した。
昨夜からずっと、もしも礼をもらえるならと、暖炉の前で考えていたことだった。
「王都に、仕立て屋の店をひとつ頂きたいのです。大きくなくて構いません。ただし看板には、わたしの名前を掲げます。エルシーの店、と」
口にしてしまってから、胸の奥が小さく軋んだ。
六年かけて貯めた金貨八十枚は、あと二十枚というところで、昨日、他人の手に渡った。
その六年分を、わたしは今、たったひと言で取り返そうとしている。
ただでもらうのではない。
この店の代金は、二十七の結び目と、あの氷水みたいな憎悪を二十七回浴びることで払う。
それなら恵みではなく、商いだった。
商いなら、堂々と受け取れる。
「……娘、貴様、殿下のお命を種に商売を」
「カイウス。気に入った」
大公さまが遮った。
「店は先に渡す。季節をまたぐ仕事だ。途中で俺が死んでも、おまえの取り分まで消えることはない」
(死ぬ話を、天気の話みたいになさるのね)
「死なせませんよ。お品を納める前にお客さまに死なれては、商いになりませんから」
大公さまの口の端が、また少しだけ動いた。
「殿下、前払いなど。逃げられでもしたら」
「自分の名前を看板に掲げたがる針子が、どこへ逃げる」
大公さまは黒手袋の右手を差し出しかけて、止めた。
手袋の指先が宙で一度握り込まれて、静かに下ろされる。
握手の代わりに、大公さまは深く頷いた。
「契約だ、針子どの。俺の呪いと、おまえの店。どちらが先に片付くか競うといい」
カイウスさまが、片眼鏡の奥で眉をひそめた。
「……妙だな。金でも、爵位でもなく。名誉の回復すら求めんのか」
わたしは膝の上の針箱に目を落として、その問いには答えなかった。
名誉なら、看板に彫って自分で取り返す。
それでは早速、と契約して最初のひと結びは、その場でほどくことになった。
カイウスさまが医師と侍女を呼び、書斎は俄か仕立ての治療室になった。
わたしは針箱を開けて、糸束の一番奥から白い木綿糸を選ぶ。
針に通しかけて、指が止まった。
(お母さま。二度目です)
昨夜は夢中で、約束を破ったことを謝る余裕しかなかった。
今は違う。
明るい書斎で、四人の目の前で、わたしはこれからこの色を出す。
そして季節がふたつも、みっつも巡るあいだ、出し続けることになる。
(でも、この色を隠したままでは、あの結び目はほどけません。だから約束は、わたしが破ります。わたしの目的のために、わたしの意思で)
糸に魔力を通した。
白い木綿糸が指先から金色に灯って、書斎の空気がひとつ揺れた。
侍女が小さく息を呑み、医師が眼鏡を押し上げ、カイウスさまが片眼鏡の奥で目を眇めるのが、視界の端に映った。
金色の魔力糸など見たことがない、という顔が三つ並んでいた。
大公さまだけが金色に驚く様子もなく、糸ではなくわたしの顔を見ていた。
わたしは端の結び目に狙いを定めて、金の糸の針先を差し入れた。
氷水みたいな憎悪が流れ込んでくる。
覚悟していたから、堪えられた。
糸の帰り道を探して、針先で流れをなぞる。
昨夜と同じ、返し三度の──。
(……違う)
返し縫いの下にあるはずの最後の輪が、どこにもない。
昨夜と同じ理屈で読めるはずの流れが、結び目の中で組み変わっていた。
まるで昨夜のわたしの手筋を覚えていて、同じ道を塞いだみたいに。
探し直そうとした針先を、結び目ががちりと咬んだ。
鋭い痛みが指先に走った。
針を持つ人差し指の腹が裂けて、血の玉が膨らんで糸を伝う。
(だめ。血が、布に)
針子の手が真っ先に恐れることを、こんなときでも体が覚えていた。
金色の糸がわたしの血を吸って赤く染まっていくのを、わたしは息を止めて見ていた。
(嘘でしょう。この呪い……ほどかれたことを、覚えている)
二十七の結び目が、いっせいに、どくりと脈打った。




