第3話 糸の帰り道
銀の鋏を握ったまま、わたしはまず男の人の口元に手をかざした。
息はあった。
細くて浅いけれど、雨の冷たさの中でかすかに温かい呼吸が指先に触れて、わたしは少しだけ息を吐いた。
(生きているわ)
なら、まだ間に合うかもしれなかった。
雨は勢いを増していた。
わずかに雨をしのぐ軒の下で、わたしは膝が泥に沈むのも構わずに屈み込んだ。
近くで視ると、結び目は糸と糸が交わるところにひとつずつ作られていた。
そのどれもが男の人の鼓動に合わせて脈打ち、脈打つたびに、この人の中から何かを吸い上げている。
(これが、呪い……)
扇の陰でささやかれていたものも、王女殿下の袖口に潜んでいたものも、きっとこれだった。
手元に灯りはなかった。
月はまた雲に隠れて、路地は黒いビロードを被せたような闇だった。
それなのに、あの縫い目だけは視えた。
光を呑む糸が、呑んだ光のぶんだけ闇より黒く浮かび上がっている。
鋏を構えかけて、手が止まった。
糸の先が布を抜けて、男の人の胸に根を張るように沈み込んでいたからだ。
(だめ。切ったら、根だけが体に残ってしまう)
呪いを縫われた衣は燃やすしかない、と針子なら誰でも教わる。
縫い手の魔力を吸った糸は指紋のようにひとつきりで、他人が針を入れれば弾かれるか、もつれて余計に悪くなるからだ。
けれどこの呪いは、もう布だけのものではなかった。
わたしは形見の鋏を、外套の隠しにそっと戻した。
(ほどくしか、ない)
できるかどうかは分からなかった。
分かっていたのは、ほどこうとすれば、お母さまとの約束を破ることになる、ということだけだった。
物心つく前から、わたしには縫い目の光が視えていた。
三つか四つの頃、お母さまの繕いものに灯る淡い光を砂糖細工だと思って、つかもうとしたことがあるらしい。
その話をしてくれたとき、お母さまはわたしの両手を包んで、いつもより低い声で言った。
『視えることは、人に言ってはいけないのよ』
理由は教えてもらえないまま、お母さまは逝ってしまった。
それでも約束だけは守ってきた。
今朝の書斎で、自分の濡れ衣を晴らすためにさえ、わたしはそれを破れなかった。
針箱を開けて、自分の針に糸を通す。
かじかんだ指が二度しくじって、三度目に通った。
何の変哲もない白い木綿糸が、わたしの指から魔力を吸って、雨の路地でほんのりと金色に灯る。
小さな灯りが、わたしの指先と、男の人の蝋のような頬を照らした。
子供の頃、この金色をお母さまにだけ見せたことがある。
綺麗ね、とは言われなかった。
お母さまはわたしの手を痛いくらいに握って、こう言った。
『この色は、家の外で出してはだめよ』
お母さまがわたしに残した約束は、視えることも、この色のことも、隠しなさい、という同じ形をしていた。
(ごめんなさい、お母さま。今夜わたしは、約束をふたつとも破ります。でも、見殺しにする腕なんて磨いた覚えがないの)
一番端の、一番小さな結び目に狙いを定めた。
ほどきものの基本は端からで、それは呪いだろうと同じはずだった。
結び目の脇の布を、左手の指でつまんで張る。
触れた者まで呪われる、と夜会の噂は言っていた。
指先が一瞬だけすくんで、それからわたしは布をつまみ直した。
(布に触れずに縫える針子なんて、いないもの)
金色の糸を通した針先を、漆黒の結び目の中心にそっと差し入れる。
弾かれる、と身構えた瞬間だった。
結び目が咬みついた。
針を伝って、氷水みたいなものが指から腕へ流れ込んできた。
冷たさの奥に、声にならない何かが混じっていた。
憎い、という形をした冷たさだった。
誰のものかも分からない憎悪が糸を伝って、わたしの胸の内側を直接撫でていく。
「ぐっ……」
針を離しそうになって、堪えた。
(落ち着いて。呪いだろうと、糸は糸よ)
固結びになった編み上げ靴の紐は、両端を引けば引くほど締まる。
けれど最後に通した輪を探して、爪の先でそこだけ緩めてやれば、あとは嘘みたいにするりとほどける。
絡まった首飾りの鎖も、ドレスのほつれも、理屈は同じだった。
糸には必ず、通ってきた道がある。
その道を逆向きにたどってやれば、糸は来たところへ帰っていく。
お母さまは、それを糸の帰り道と呼んでいた。
指先に流れ込む冷たさの向きを頼りに、わたしは結び目の中の道筋を読んだ。
右下から左上へ、返し縫いが三度重ねてある。
その下に、最後に通された輪がひとつ隠れていた。
(見つけた。ここが帰り道)
金色の針先を、その輪にそっと滑り込ませた。
押し込むのではなく、糸が帰りたがっている道を、ほんの少し広げてやるだけだった。
ほつれたドレスの糸を、布を傷めずに抜き取るのと同じことで、それならわたしは王都の誰よりも数をこなしてきた。
漆黒の結び目が、ふ、と緩んだ。
巻き取られるように糸がほどけて、結び目がひとつ、夜気の中に黒い糸屑となって散った。
糸屑は雨に触れると、燃え尽きた紙みたいに崩れて消えた。
男の人が大きく息を吸った。
浅かった呼吸が目に見えて深くなって、蝋の色だった頬に、ほんのわずかだけれど血の気が戻ってくる。
縫い目はまだ何重にも残っているのに、たったひと結びで、こんなにも違う。
(それだけ深く、ひとつひとつがこの人を喰らっているんだわ)
安堵と寒気が同時に来て、わたしは雨の中で膝を抱えるように座り込んだ。
指先がまだ冷たかった。
結び目から流れ込んだ憎悪の残りが、胸の底に煤みたいに薄く積もっているのが分かった。
そのとき、男の人の睫毛が震えた。
薄く開いた目は、冬の明け方の空みたいな薄青だった。
焦点の合わない瞳が雨空をさまよって、金色の灯りに引かれるように、わたしの顔の上で止まった。
「……死神、か」
掠れた低い声だった。
「目が、金色だ」
「琥珀色です。糸の灯りが映っているだけです」
言い返してから、死神と間違えられたのだと気づいた。
その人は黒手袋の手を自分の胸に当てて、それから目を見開いた。
息が深く通ることに、自分で驚いている顔だった。
その目が、わたしの手の中の針に落ちる。
「動かないでください。呪いの縫い込みを、ひとつだけほどきました。でもまだ残って──」
「触れたのか」
遮った声は、怒鳴り声よりも鋭かった。
「この呪いに、素手で触れたのか」
「針で、ですけど。……布には、少し指も」
「馬鹿なことを」
その人は身を起こそうとして、果たせずに石畳へ肘をついた。
それでも黒手袋の手だけは、わたしから遠ざけるように自分の体の下へ畳み込まれた。
まるでその手が、刃物か何かであるみたいに。
「離れろ。俺に……この呪いに、近づくな。毒だ」
「あなた、ご自分が今、死にかけていた自覚はあります?」
言ってから、我ながら口の利き方がひどいと思った。
でも雨は冷たいし、こっちは今夜家を追い出されたばかりだし、命懸けでほどいた相手に、礼より先に離れろはないと思う。
その人は虚を突かれたように黙って、薄青の目でわたしをまじまじと見た。
怒っている目ではなかった。
むしろ、勘定の合わないものを前にした人の目だった。
「……礼を、言っていなかった」
「いえ。通りすがりですから、どうぞお気になさらず」
「名は?」
名を訊かれて、わたしは一瞬詰まった。
メイフィールドの名を二度と名乗るなと言われたのは、ほんの数時間前のことだった。
「エルシーと申します。しがない、針子です」
「エルシー。……この縫い目が、視えるのか。おまえには」
視えることは、人に言ってはいけない。
お母さまの声が耳の奥で鳴ったけれど、ほどいてしまった今となっては遅かった。
わたしが頷くと、その人は何かを言いかけて、言葉を探すように黙った。
その沈黙の底に、蹄の音が近づいていた。
気づくのが、遅れた。
路地の入り口が、急に昼間みたいに明るくなった。
馬が嘶き、幾つもの足音が石畳を叩く。
松明の火が雨を橙色に照らし、抜き身のサーベルの光が、路地に雪崩れ込んでくる。
軍服の一団だった。
先頭の片眼鏡の男がこちらに松明を突きつけて、その顔色が変わるのが見えた。
倒れた男の人の胸元に、針を持ったずぶ濡れの女が屈み込んでいる。
この光景が人の目にどう映るか、気づいたときにはもう遅かった。
「貴様……大公殿下に、何をした!」




