第2話 光を呑む糸
落ちた角灯の硝子が砕ける音は、思ったよりずっと大きく響いた。
温室の陰で、ふたつの影が跳ねるように離れる。
わたしは逃げることも隠れることもできないまま、割れた角灯の火が雨上がりの水たまりに落ちて消えるのを見ていた。
「……エルシー?」
ダリオさまの声が、夜の中庭で他人みたいに固かった。
義姉は悲鳴を上げなかった。
乱れた部屋着の襟元をゆっくり直して、それから月明かりの下でも分かるくらい綺麗に微笑んだ。
「まあ、いやだ。盗み聞きだなんて、はしたない子」
(盗んだのは、どちら)
喉まで出かかった言葉は、声にならなかった。
十年この屋敷で暮らして、わたしは知りすぎていた。
ここでわたしが何を言っても、義姉の言葉のほうが正しい形に整えられて義父に届くのだということを。
ダリオさまは気まずさに目を泳がせて、わたしと義姉とを見比べて、結局どちらの名前も呼ばずに口をつぐんだ。
その沈黙が、この人の答えのすべてだった。
わたしは割れた硝子を拾い集めて、黙って屋根裏に戻った。
指先が震えて、破片で親指の付け根を浅く切った。
(手だけは)
血の玉がぷくりと膨らむのを見て、一瞬だけ背筋が冷えた。
けれど傷は浅くて、痛みのほうは不思議なくらい遠かった。
それから三日間、屋敷は何ごともなかったような顔をしていた。
義姉は朝の食卓で機嫌よく笑い、わたしには王女殿下の新しいドレスの図案を急かした。
あの夜のことなど、まるで夢だったかのように。
義姉は忘れる人ではない。
許す人でも、慌てる人でもない。
あの人は布に針こそ通せないけれど、人を陥れる前には、布の目を数えるように支度を整える人だった。
数え終わるのを、わたしは知らずに待たされていたのだと思う。
三日後の朝、王宮から使者が来た。
義父の書斎に呼びつけられて扉を開けると、義父は暖炉を背にして立っていて、長椅子には目を泣き腫らした義姉が、レースのハンカチを握りしめて座っていた。
その泣き顔があんまり完璧だったから、わたしは用件を聞く前に、ああ、数え終わったのだ、と思った。
「王女殿下のお肌に、発疹が出た」
義父は前置きもなくそう言った。
「夜会のドレスの袖の裏だそうだ。王宮付きの針子の見立てでは、加護のはずの縫い目が、肌を灼く縫い目に変わっていたとな」
(そんなはずない)
あの袖裏は最後に仕上げた場所で、糸留めまで指の腹で確かめた。
寒さで指がかじかんでいたけれど、乱れなんてあるはずがなかった。
そこで、あの夜の袖口が瞼の裏に浮かんだ。
露の光の筋のあいだを走っていた、光を呑む黒い一筋。
(シャンデリアの影じゃ、なかったんだわ)
わたしの縫ったあとで、誰かがあの袖に針を入れたのだ。
あの夜、黒い糸が視えました。
喉まで出かかったその言葉を、わたしは呑み込んだ。
言えば、わたしの目のことを話さなければならない。
それは、お母さまと交わした約束に触れることだった。
それに、使用人の目にしか視えなかった糸の話を、この部屋の誰が信じるだろう。
「あり得ません。あの袖は、わたしが──」
「わたしが、なんだ」
義父の声が低くなって、わたしは自分の失言に気づいた。
あのドレスは表向き、義姉が縫ったことになっている。
下縫いの分際で、と続くはずの叱責を待ったのに、義父は違うことを言った。
「ロザリンドから聞いている。仕上げの済んだドレスに、お前があとから針を入れていたそうだな」
長椅子の上で、義姉がハンカチに顔を埋めた。
「わたくし、信じたくなかったの。……先日の夜も、ダリオさまが、妹のことでどうしてもご相談があると仰って、夜更けの中庭にわたくしを呼び出されて。断り切れずにお話を伺っておりましたら、あの子が、それは恐ろしい目でわたくしたちを睨んでいましたのよ」
義姉が濡れた睫毛を、そっと持ち上げる。
「ねえお父さま。あの子はきっと、殿下のドレスがわたくしの手柄になるのが、許せなかったんだわ」
(ああ。そういうふうに、縫い上げたのね)
怒りより先に、奇妙な感心が胸を通り過ぎた。
婚約者を奪われた妹が、嫉妬に狂って王女殿下のドレスに細工をした。
中庭の一件さえ、わたしの逆恨みの証拠に縫い替えられている。
そういう型紙に合わせて、わたしという布は、とっくに裁たれていたのだった。
「わたしは、殿下のドレスにそんな細工はしていません」
「では誰がしたと言うのだ」
(誰かが、あとから──)
「……縫い目を検分させていただければ、わたしの針かどうかは分かります」
「屋敷の恥を、これ以上王宮に晒せと言うのか!」
義父の怒声で、書斎の窓硝子がびりりと鳴った。
「王宮には、細工をした下働きには暇を出した、と届けてある。殿下のほうでも表沙汰にはなさらぬそうだ。この家の恥で済むうちに、済ませる」
クレスウェル子爵家からは、昨夜のうちに婚約解消の申し入れが届いたという。
王宮からの使者より、先に。
義父は机の引き出しから古びた木箱を取り出して、わたしの前に音を立てて置いた。
床板の下にあるはずの、わたしの貯金箱だった。
「王宮への詫び金に充てる。足しにもならん額だが、元はと言えばお前が撒いた種だ」
(返して)
伸ばしかけた手が、宙で止まった。
義父の目が、それを待っていたからだった。
取り乱して縋りつけば、罪を認めたことになる。
金貨八十枚。
一枚一枚に、どの冬のどの夜なべだったか言えるくらいの覚えがある。
その六年分の重みが他人の手の中で鈍い音を立てるのを、わたしは唇の内側を噛んで見ていた。
「お父さま、どうかご心配なさらないで」
義姉が、涙の乾ききらない声で言った。
「サロンの手なら、もう当てがございますの。ある方が、それは腕の確かな針子を回してくださるって」
「聞いている。……だから、もうお前は要らん」
(初めから、だったのね)
この三日で数え終わっていたのは、わたしを追い出す段取りだけではなかった。
わたしがいなくなったあとの段取りまで、とっくに縫い上がっていたのだ。
(ある方、って誰。あの朝露を縫える手が、王都にほかにいるとでも?)
問いは、声にならなかった。
「今夜のうちに屋敷を出て行け。メイフィールドの名を、二度と名乗るな」
名を名乗るなと言われた瞬間、悔しさよりも先に、笑い出しそうになった自分に驚いた。
(名前を盗んで使っていたのは、この家のほうなのに)
屋根裏に戻る階段は、十年上り下りしたのと同じ数の段しかないのに、今夜はやけに短かった。
持って出られるものは少なかった。
着替えが二枚と、お母さまの針箱と、古いトランクの底の、運針のお手本の布。
小鳥のお手本は四つに畳んで、針箱の底に敷いた。
銀の裁ち鋏は、柄の小鳥の彫刻を指で一度なぞってから、外套の内側に急いで隠しを縫いつけてそこへ差した。
義姉が形見の存在を思い出して取り上げに来る前に、と手が勝手に動いていた。
最後に、空になった床下の穴を見た。
六年分のわたしが入っていた穴は、思っていたよりずっと小さかった。
(いいわ。あの箱ごとくれてやる。その代わり、次に貯めるものは、誰にも触れられない場所に貯めるから)
腕なら、誰にも盗めない。
持ち出す荷物のいちばん重いものは、わたしの両手だった。
玄関ではなく、厨房脇の通用口から外へ出された。
見送りはトムじいさんひとりだけ。
じいさんは何も言わずに、焼き立てのパンをふたつ、布巾に包んで持たせてくれた。
「嬢ちゃん。仕立て屋通りの三本裏に、朝まで灯りの点いてる安宿がある。女将に、トムの知り合いだと言いな」
「ありがとう。……ねえ、トムじいさん。わたし、殿下のドレスに変な細工なんてしていないの」
「知ってるよ」
じいさんはそれだけ言って、通用口の扉を閉めた。
閉まる寸前、しわがれ声がひとつ、扉の隙間からこぼれた。
「達者でな、嬢ちゃん。あんたの縫った膝掛けは、今年の冬もあったかかったよ」
知ってるよ、というたった五文字を胸の内側で何度も畳み直しながら、わたしは夜の王都を歩いた。
歩き出してすぐに、雨が降り始めた。
春先の雨は氷の糸みたいに細くて冷たくて、外套の肩がみるみる重くなる。
雨を吸った亜麻色の髪が、頬に貼りついた。
(大丈夫。腕は、盗まれていない)
(一からでいい。縫って、貯めて、いつか看板を)
仕立て屋通りへの近道を、と角を曲がったのがいけなかった。
灯りのない路地は雨で石畳が黒く光っていて、軒下の暗がりがやけに深くて、わたしは足を止めた。
路地の奥に、誰かが倒れていた。
最初は打ち捨てられた外套の山に見えた。
けれど雲が切れて月明かりが差した一瞬、暗がりの輪郭が浮かんで、それが軍服の背中なのだと分かった。
上等な黒い外套、泥に投げ出された長い脚。
そして石畳に力なく開かれた、黒い手袋の手のひら。
(黒い、手袋……)
扇の陰で聞いた噂話が、ほんの一瞬、頭の隅をかすめた。
声を掛けるべきか、迷いは短かった。
行き倒れなら放っておけないし、追い剥ぎの罠なら、取られて困るものはもうほとんどない。
「あの、大丈夫ですか」
膝をついて覗き込んで、わたしは息を呑んだ。
雨に濡れた黒髪の下の顔は、蝋みたいに白い。
けれどわたしの目を奪ったのは、その人の顔色ではなかった。
詰襟の軍服の、襟から胸元にかけて。
黒い縫い目が、生き物のように脈打っていた。
布の上を、漆黒の糸が稲妻の形に走っている。
絡まり、固く結ばれ、その結び目のひとつひとつが、心臓みたいにどくりどくりと明滅していた。
加護の縫い目は光を放つのに、この糸は逆だった。
周りの光を、呑んでいる。
(この色……)
一度だけ、見たことがある。
あの夜会の夜、王女殿下の袖口で。
シャンデリアの影だと自分に言い聞かせた、あの黒だった。
けれど目の前のこれは、一筋どころではなかった。
(この縫い目は……この人を、喰らっている)
考えるより先に、外套の隠しから銀の鋏を抜いていた。




