第1話 盗まれた朝露
シャンデリアの光が降るたび、あのドレスは呼吸をするように輝きを変えた。
若草色の絹地に銀糸で縫い留めた朝露の刺繍が、王女殿下の一歩ごとに揺れてきらめく。
大広間を埋めた貴族たちのため息と拍手が、波のように押し寄せては引いていった。
今夜の夜会の主役はドレスだった。
この広間で、それを知らない者はいなかった。
「なんて素晴らしいの。まるで夜明けの庭を纏っているようだわ」
王女殿下が扇を胸に当てて微笑むと、その正面で義姉のロザリンドが完璧な角度のお辞儀をしてみせた。
金色の縦巻きの髪がしなやかに揺れる。
「もったいないお言葉ですわ、殿下。一針一針、殿下のお姿だけを思い浮かべて縫い上げましたの」
(一針も、縫っていないくせに)
わたしは壁際の使用人の列で、義姉の予備の扇と針箱を抱えたまま、そっと自分の指先を見下ろした。
人差し指の腹には固い針だこ。
徹夜仕事で割れた爪には、軟膏が滲んでいる。
あのドレスの朝露は、この指が三晩かけて縫った露だった。
露の一粒一粒に込めた魔力が、わたしの目には淡い光の筋になって視えている。
ほかの人の目に映るのは、きらめく露と、明るく映える殿下の顔色だけ。
糸の走る道まで視えてしまうのは、わたしの目だけだった。
広間を見渡せば、奥さま方のドレスにも加護の縫い目がちらほらと視える。
そのほとんどは、光の濁った粗いまがい物だった。
魔力を糸に通すだけなら誰にでもできる。
けれど加護として布に生かせる針子は、王都にもそう多くない。
「メイフィールド男爵家のご令嬢は、王都一の魔法刺繍の腕をお持ちですのね」
「ぜひ我が家の夜会服も」
「うちの娘の婚礼衣装は、ぜひメイフィールド嬢に」
義姉を取り囲む声は、どれも砂糖菓子のように甘い。
あら、困りましたわ、手が足りませんの、と断る素振りで焦らして、相手の位が高ければ扇の陰でそっと快諾する。
あの人は布に針ひとつ通せないけれど、人の心の隙間にならいくらでも針を通せるのだった。
(腕は、盗めない)
胸の奥で、お母さまの声がする。
『盗めるのは名前だけ。だから名前を盗まれても、泣かなくていいのよ』
わたしは針箱を抱え直した。
悔しさで泣きそうになったら、代わりに数を数えることにしている。
あと金貨二十枚。
屋根裏の床板の下の貯金箱にあと二十枚貯まれば、王都の裏通りの一番小さな店の権利に手が届く。
(そうしたら看板を出すの。エルシーの店、って)
もう誰にも、この指が縫ったものを他人の名前で飾らせたりしない。
拍手がもう一度大きくなった。
「メイフィールド嬢。三週間後の夜会のドレスも、あなたにお願いできるかしら」
王女殿下が、義姉に手を差し伸べる。
その拍子に、若草色の袖口がふわりと翻った。
(──え?)
袖口の裏で、何かが光を呑んだ。
露の光の筋のあいだを縫うように、黒い糸が一筋走っている。
光を放つのではなく、周りの光を吸い込んで、そこだけ闇が深い。
あんな糸を、わたしは知らない。
思わず一歩踏み出したところで、義姉の視線がわたしを射抜いた。
微笑んだまま、目だけが命じている。
使用人は動かないで。
聞いたわね、次も縫いなさい、と。
足を止めた一瞬のうちに、殿下は腕を下ろし、取り巻きの人垣が袖口を隠してしまった。
(……シャンデリアの影、よね)
あの袖裏は、糸留めまでこの指で確かめた。
黒い糸など、一本も使っていない。
わたしは使用人らしく目を伏せた。
(ええ、縫いますとも。あと金貨二十枚ですから)
背中のほうで、扇の陰の声がした。
「……今夜も、ヴィルフリート殿下はお見えにならないのね」
「アルディスの大公さま? もう三年よ。呪われていらっしゃるって噂、本当なのかしら」
「黒い手袋を一度も外さないのですって。触れた者まで呪われるとか」
呪い。
加護と同じ針と糸で、人を蝕むために縫われるもの。
針子なら誰でもその名を知っていて、わたしは一度も見たことがないもの。
さっきの黒い一筋が、瞼の裏から消えなかった。
屋敷に戻る馬車に、わたしの席はなかった。
義姉と義父の箱馬車の後ろから、巻いた生地と衣装箱を積んだ荷馬車に揺られてついていく。
御者のトムじいさんが膝掛けを貸してくれるのも、いつものことだった。
「今日のドレスも、そりゃあ見事だったってねえ。で、その大繁盛のお屋敷の針子さまは、なんだって夜中の荷馬車で凍えてなさるかね」
「荷物の見張りは大事なお役目よ。この生地、わたしの駄賃の何年分かしら」
「……嬢ちゃんが縫ったんだろう、あれは」
じいさんは手綱を握ったまま、振り返らない。
振り返らないでいてくれる優しさに、鼻の奥がつんとした。
「わたしはただの下縫いよ。仕上げはお義姉さまがなさるの」
「ふうん。そういうことにしとくかね」
夜の王都で、仕立て屋通りの街灯だけが暖かい色をしていた。
下ろしかけの鎧戸の隙間に、作業台や仕立て用の胴型が眠っている。
(いつか、あの並びの一番小さな店でいいから)
屋敷に着くと、義姉はもう湯浴みに入っていて、義父の書斎からはわたし宛ての言付けだけが届いていた。
王女殿下の次の夜会は三週間後。
生地は明日届く。
図案は五日以内に義姉へ渡すこと。
労いの言葉は、どこにもない。
屋根裏の自分の部屋に上がると、わたしはまず床板を一枚外して、貯金箱を振った。
──ジャラ、ジャラ
金貨八十枚。
下縫いの駄賃と、こっそり請けた繕いの銅貨を、六年かけて積み上げた音だった。
今夜も無事でいてくれたことに安心して、窓辺の作業台に角灯を置く。
お母さまの形見の銀の裁ち鋏が、灯りを受けて静かに光った。
柄には、翼を畳んだ小鳥の彫刻。
同じ小鳥は、針箱の蓋の裏にも焼き印されている。
古いトランクの底には、十歳のわたしが初めて運針を習った布が仕舞ってあって、その隅にもお手本の小鳥が一羽、留まっている。
芥子粒ほどの刺繍なのに、羽根の一枚まで狂いのない、魔法みたいな針目だった。
九年経った今でも、わたしの針目はまだあの小鳥に届かない。
お母さまがわたしの手を引いて、この男爵家に後妻として入ったのは、わたしが九つの年だった。
財産も後ろ盾もない後妻を、親戚たちが陰でどう呼んでいたかは知っている。
翌年の冬、お母さまは流行り病で逝った。
残ったのは、血の繋がらない義父と義姉の屋敷と、そこに置いてもらっている連れ子の針子がひとり。
それでも、お母さまの指先が本物の魔法だったことを、わたしは知っている。
『いい、エルシー。腕は誰にも盗めないの』
熱で掠れた声が、十歳の冬からずっと耳の奥にある。
『盗めるのは名前だけ。名前を盗まれたら、悔しがる暇があるうちに腕を磨きなさい。腕さえあれば、名前はいつか自分で取り返せるから』
(取り返すわ、お母さま。もうすぐよ)
糸の在庫を確かめると、銀糸が残り少なかった。
屋敷の勘定で買う糸は、許しが下りるのがいつも遅い。
今夜のうちに執事に頼んでおこうと、わたしは角灯を持って階段を下りた。
夜更けの廊下は冷えていて、角灯の火がわたしの足元だけを丸く照らす。
中庭に面した硝子戸の前を通りかかったとき、外で何かが動いた。
(誰かいるの?)
月明かりの中庭に、人影がふたつあった。
温室の陰に、寄り添うように立っている。
ひとつは夜会用の外套のままの、背の高い男の人。
明るい栗色の巻き毛に見覚えがあった。
あるに決まっている。
ダリオ・クレスウェル子爵令息。
半年前に、わたしの婚約者になった人だ。
(どうして。今夜は先にお帰りになったはずじゃ)
持参金の要らない継子を片づけたい義父と、王都一のサロンと縁続きになりたい子爵家。
勘定の合った縁談で、わたしの気持ちは、どちらの帳簿にも載っていなかった。
それでも初めての顔合わせで、この人は、サロンの片隅に飾られた名前のないわたしの刺繍を指して、素晴らしいと言ったのだ。
もうひとつの影が、するりとその胸に寄った。
湯浴みを終えたばかりの、下ろした金色の髪が月の光を吸って揺れる。
「ね、言った通りだったでしょう。殿下はわたくしに次のドレスもご所望よ」
「ああ、本当にすごいよ。あの朝露を君が縫ったなんて。今夜は王女殿下より輝いて見えた」
「まあ。……妹に聞かせられませんわ、そんなこと」
「聞かせればいいさ。あの子は俯いて、はい、と言うだけだろう。君と違って、覇気のない子だから」
ダリオさまの声が、笑いを含んで軽く跳ねた。
わたしの刺繍を褒めた日と、同じ声だった。
胸の奥に灯っていた仄かな温度を、月の下の笑い声が音を立てて踏んでいった。
「ねえ、ダリオさま。あの子との婚約、いつまで続けさせておくおつもり?」
角灯の持ち手が、手の中でかたりと鳴った。
ダリオさまの手が、義姉の下ろした髪にゆっくりと触れる。
「……そう長くは、待たせないよ」
月が、ふたりの影をひとつに重ねた。
気づいたときには、硝子戸を押し開けていた。
雨上がりの中庭は冷たく湿っていて、踏み出した爪先の下で、濡れた石畳が鈍く光った。
わたしの指先から、角灯がすべり落ちた。
今後ともよろしくお願いします。




