第10話 増える結び目
審査から数日が過ぎた。
店は目が回るほど忙しくなった。
金の糸の針子、という噂は職人街を駆け抜けた。
繕いや仕立ての注文は倍になって、ピムはボタン付けと使い走りで一人前に忙しくしている。
それから、増えたのは客だけではなかった。
仮登録の条件だった呪いの検分の記録を、マーサさんのドレスとリディア嬢のドレスの分だけ清書して、今朝、組合へ初めて提出してきた。
結び目の数、糸の癖、ほどいた手順まで、全部を書いた。
書きながら、妙な心地がした。
わたしの手の内を、紙にして他人の棚へ預けるのだ。
規則だから仕方がないとはいえ、この写しを誰が読めるのかをわたしは知らない。
客が増えれば、噂も一緒に運ばれてくる。
家具職人の奥さんは、糸切り鋏を鳴らしながら教えてくれた。
メイフィールドのサロンが、とうとう王女殿下の夜会のドレスを落としたらしい、と。
図案が上がらず、納期を三度も延ばした挙句、ほかの工房に回されたのだと。
(そうでしょうね。図案を描ける手は、もうあの家にはないもの)
いい気味だとも、可哀想だとも、うまく思えなかった。
ただ、あの家がわたしの図案で保っていた化けの皮は、もう剥がれ始めている。
そのことだけを、わたしは静かに帳面の隅に書き留めた。
夕暮れどきにようやく客足が途切れて、店じまいの支度をしていたら、裏口ではなく表の扉が開いた。
フードを目深に被った、背の高いお客さまだった。
「ボタンが取れかけた」
挨拶より先にそう仰って、大公さまは軍服の袖口を差し出した。
今夜は解呪のお約束の日だけれど、刻限にはまだ早い。
袖口のボタンは確かにぐらついていた。
わたしが糸の切れ口を検めていると、勘定台の奥からピムがひょいと首を伸ばした。
「それ、擦り切れじゃねえよ。糸、刃物で切って──」
「ピム。倉庫の生地の検品、今日中にお願いね」
察しの良い弟子を倉庫へ追いやって、わたしは針に糸を通した。
ご自分でボタンの糸を切っていらした大公さまは、フードの陰で素知らぬ顔をしている。
三年間、用がなければ人を呼ばず、呼ばれなければ出向かなかった人が、ボタンひとつの用を作って夕暮れの店に立っている。
それを指摘するほど、わたしも野暮ではないつもりだった。
「上着ごとお預かりしても、すぐですけれど」
「……このままで頼む。冷える」
嘘のお上手なことで、と思いながら、わたしは袖口を手に取った。
着たままボタンを付け直すのは、手首のすぐ内側に指を添える仕事になる。
黒手袋の先の、軍服の袖布一枚の下に、この方の手首がある。
針を進める間、大公さまは息を詰めるみたいに動かなかった。
布越しにも革越しにも、指一本、触れてはいない。
それなのに袖口を返すとき、革の指先とわたしの指先が糸一本分の距離ですれ違って、どちらのものともつかない熱が、そこに生まれて消えた。
「付きました。今度は、刃物でも切れない糸にしておきましたから」
「……次の口実を考えねばならんな」
あんまり正直に仰るので、笑ってしまった。
この方は冗談の言い方をまだ思い出しかけている途中で、その途中の不器用さごと、夕暮れの店の空気は悪くなかった。
帰り支度の間、大公さまの視線が勘定台の脇の壁で止まった。
ピムの運針の稽古布が、一枚だけ待ち針で留めてある。
糸がのたくった初日の一枚だ。
本人は恥だから外せと言うのだけれど、わたしが記念にと言い張って飾っているものだった。
「あれは?」
「弟子が最初の日に縫った一枚です。今はもう、あの倍は真っ直ぐ縫えます」
「ひと月足らずで倍か。良い店だな、ここは」
誰にともなく仰ったその一言を、倉庫の扉の陰で聞き耳を立てていた誰かさんが、あとで三回くらい思い出し笑いしていたのをわたしは知っている。
刻限が来て、表に立っていたカイウスさまを招き入れ、店の鎧戸を下ろして、解呪の支度を整えた。
六つ目の結び目に入る前に、わたしはいつもの検分から始めた。
呪いの全図を視て、結び目をひとつずつ数えて、帳面の図と突き合わせる。
地味だけれど、この呪いは帰り道を塞ぎ替えてくる相手だから、毎回の検分だけは欠かしたことがなかった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
数えながら、指が止まった。
(……多い? そんなはず……)
息を止めて、最初からすべて数え直した。
動かないでください、と声が硬くなるのが自分で分かった。
角灯を近づけ、首元から胸へ糸の蔦をたどって、結び目の芯をひとつずつ、針の頭で宙に印をつけながら数えていく。
二十五。
指先が冷えていくのを感じながら、三度目を数えた。
祈るような気持ちの数え直しほど、あてにならないものはないと知っていたから、三度目はわざと逆向きに、胸元から首へと数え上げた。
二十五。
やはり、二十五あった。
帳面を繰る手が、勝手に速くなった。
呪いの結び目は、はじめ二十八あった。
路地でひとつ、契約の朝にひとつ、離れでふたつ、店に移ってからひとつ。
これまでにほどいた数は五つだ。
だから今夜、ここに残っていていい結び目は、二十三のはずだった。
「どうした」
「殿下。……増えています」
言葉にした途端、店の静けさが一段深くなった気がした。
「ほどいた数は間違いなく五つです。図も日付も全部残してあります」
わたしは帳面の頁を、殿下のほうへ向けた。
「なのに結び目が、二十五あります。ふたつ、増えている。……この呪い、いまも縫われ続けています」
角灯の火が、芯を鳴らした。
大公さまはご自分の胸元を見下ろした。
そこに視えないはずの糸を探すみたいに、長いこと黙っていた。
やがて口を開いたとき、その声は恐ろしいほど静かだった。
「道理でな。三年、どんな手当ても効かなかったわけだ。祓っても薬を替えても、こちらが眠っているあいだに、縫い足せばいいだけのことだった」
「どうして、そんなに落ち着いて」
「三年前に一度、死んだつもりでいる身だ。いまさら驚かん。……驚くべきはむしろ、増える呪いを相手に、五つほどいて差し引き三つも減らした針子がいることだろう」
落ち着いた声のまま、大公さまは続けた。
契約は白紙に戻していい、と。
「追いかけっこだ。しかも向こうは、こちらが休むあいだも縫える」
薄青の目が、わたしの右手に落ちた。
「おまえはほどくたびに憎悪を浴びて、手を震わせている。気づいていないとでも思ったか? 割に合わん賭けに、おまえの体を張らせる道理がない」
「お断りします」
考えるより先に、口が動いていた。
「職人は仕掛かりを投げません。それにこの契約には、わたしの店とわたしの名前が懸かっています。いまさら白紙にされたら、看板ごと路頭に迷いますので」
「……理由は、それだけか」
薄青の目が、まっすぐにわたしを見た。
それだけか、と問われて、胸の奥で何かが返事をしかけて、わたしはその何かに急いで蓋をした。
「それだけです。さあ、六つ目を始めます。増やされるなら、それより早くほどくだけですから」
大公さまは、しばらく黙ってわたしを見ていた。
それから、黒手袋の指で卓を一度だけ叩いた。
「ならば、役目を分けよう」
その声から、さっきまでの諦めの色が消えていた。
「おまえはほどけ。縫い手を探すのは、俺の仕事だ」
戸口に控えていたカイウスさまが、黙って一礼した。
六つ目の結び目は、これまでのどれよりも深く牙を立ててきた。
囮を二重にしても、今夜の結び目は釣られなかった。
わたしの囮の型を、もう覚え切っている。
仕方がないので、わたしは針先を結び目の際に置いたまま、動くのをやめた。
ほどきに来た針が動かなければ、警戒はいつまでも保てない。
呪いにも、たぶん息継ぎがある。
鼠穴の前の猫みたいに、角灯の芯が二度鳴るあいだ、わたしは瞬きだけで待った。
結び目の殻がほんのわずかに緩んだ刹那、裏の裏から帰り道を開いた。
黒い糸屑が散ったときには、角灯の油が半分に減っていた。
流れ込んだ憎悪を奥歯で受けて、残りは二十四、と帳面に記す。
差し引きで、今夜も前に出た。
ただし、一歩だけだった。
大公さまとカイウスさまを裏口から送り出して、わたしは二階に上がり、帳面をもう一度開いた。
ほどくたびに塞ぎ替えられていた帰り道の跡が、頁ごとに描き残してある。
あれを、わたしは呪いが覚えるのだと思っていた。
糸そのものが学ぶのだと。
でも縫い手がいまも針を動かしているのなら、話はまるで違ってくる。
塞いだのは糸ではなくて、人だ。
わたしがどこをどうほどいたか、そのたびに知って、縫い直している誰かがいる。
(どうやって、知るの? それに、どうやって縫い足すの?)
大公さまのおそばにいるのは、カイウスさまと、触れない作法の染みついた屋敷の人たちだけだ。
あの方の服に針を入れられる者など、どこにもいない。
それなのに結び目は、確かに増えている。
針の届かないはずの場所に、誰かがどうやって針を入れているのか、わたしには見当もつかなかった。
ただ、これから先のことなら分かる。
背中が、冷えた。
結び目の数も、糸の癖も、ほどいた手順も。
わたしは今日、自分の手で清書して、組合の棚に預けてきたのだった。
誰が読めるのかも、知らないまま。
窓の外で、夜の王都の屋根が月に濡れていた。
あの屋根のどこかに、今夜も灯りをひとつ点けて、あの人の命に針を刺している手がある。
増える呪いと、ほどくわたしの、追いかけっこだ。
このままでは、追いつかれる日のほうが先に来る。
そう気づいた瞬間、胸の奥で蓋をしたはずの何かが、また小さく動いた。
店が懸かっているから、名前が懸かっているから。
そう並べ立てた理由の列の、一番うしろに、理由の形をしていない何かがじっと座っている。
わたしはまだ、それに名前をつけずにいる。
(向こうはわたしの針を知っている。わたしはまだ、相手の顔を知らないのに)




