第11話 藍銀の糸
その夜、わたしは帳面に初めて書きたくない計算を書いた。
契約から、ひと月半が経っていた。
ほどいた結び目が六つ、そのあいだに縫い足されたのが二つ。
差し引きで、ひと月半かけて、たった四つしか減っていない。
残りは二十四だから、このままの早さなら、すべてほどき終わるまでに九か月はかかる。
(季節ふたつかみっつだなんて、大見得を切ったのに。年を跨いでしまうかもしれない)
しかもこれは、向こうが今の早さで縫い続けてくれたら、の話だった。
縫い手が本気で急げば、差し引きはいつでも零になる。
零どころか、逆さまにもなる。
ほどくたびにあの方の体は削れて、わたしの胸には煤が積もって、それでも数だけが減らないまま季節が巡る。
(ほどくだけでは、勝てないんだわ)
インク壺に蓋をして、わたしは結論を書き足さずに帳面を閉じた。
書かなくても、答えはもう決まっていた。
糸の反対側にいる手を止めること。
呪いの出どころを断つこと。
そのために何が要るのかは、まだ分からなかったけれど。
翌週、店に侯爵家の馬車が停まった。
ソランジュ侯爵夫人といえば、社交界の流行を決めると言われる方だ。
その方が三本裏の小店に自ら足を運んだというだけで、通りの向こうまで野次馬が立った。
ご用向きは、季節の締めくくりの大夜会のためのドレス一式だった。
「審査の噂を聞きましてよ。金の糸の加護ですって? わたくし、本物にしか興味がありませんの」
注文は金貨立てで、うちの帳簿には桁がひとつ足りないくらいの大口だった。
採寸の間、夫人はよく喋り、よく笑い、その裏で油断のならない目が店中を検分していた。
「意匠はお任せでよろしいのですか」
「あら、お任せとは言っていませんわ。わたくしを驚かせなさい、と言っているの」
扇の先が、わたしの胸元をとんと指した。
「似合うものなら自分で分かります。似合うと知らなかったものを着せてくれる針子を、わたくしは探しているのよ」
難しい注文を、ずいぶん楽しそうになさる方だと思った。
半月、わたしは店の仕事の傍らでそのドレスにかかりきりになった。
選んだのは、灰青の絹に夜露の加護を縫い込む意匠だった。
朝露なら、屋根裏の九年でさんざん縫った。
でも夜会の主役に要るのは、朝の初々しさではなくて、夜の更けるほど冴える光のほうだと思った。
着る人の疲れを軽くして、顔色を月の下でも明るく見せる縫い込みにした。
納品の日、夫人は試着の鏡の前でくるりと回って、しばらく黙って、それから扇を鳴らした。
「……合格。夜露だなんて、わたくしの歳への嫌味かと思いましたら、鏡を見て取り消しましたわ。朝より夜が似合う女だと見抜いたのね」
貴族のお客さまから仕立てを請けた、初めての大きな納品だった。
夜会の翌朝、その夫人が倒れたという報せが届いた。
報せてくれたのはマーサさんだった。
生地屋の朝は貴族家の御用聞きから始まるから、噂は誰より早い。
大夜会の真ん中で、ソランジュ侯爵夫人が胸を押さえて崩れ落ちた。
運ばれた先で王室縫製室の検査が入り、ドレスから呪いの縫い込みが見つかった。
そして、そのドレスを縫ったのは。
「三本裏の、金の糸の針子だと。……もう、そういう話になっちまってるんだよ」
昼までに、今日の予約は全部消えた。
午後には通りの野次馬の質が変わって、店の看板を遠巻きに指差す人たちになった。
呪い屋、という言葉が通りを這った。
解くと見せかけて、縫う側なんだと。
リディア嬢の一件だって、自作自演だったんじゃないかと。
噂というのは、仕立ての良い服より早く街を一周する。
夕方、怒鳴り込んできた侯爵家の家令さんが叩きつけるように置いていったのは、あのドレスと、契約破棄の書状と、慰謝の請求だった。
「明後日までに申し開きがなければ、しかるべき筋へ訴え出る」
ピムが箒を握って震えているのを、今日も襟首で止めた。
その夜の夕食は、ふたりともほとんど喋らなかった。
ピムはスープを行儀よく半分残して、わたしも半分残して、どちらも相手の皿を見ないふりをした。
皿を下げるとき、あのさ、とピムが一度だけ口を開いて、それから、何でもねえ、と自分で仕舞った。
言いたいことは分かっていた。
俺は信じてるからな、というようなことを、この子は口に出すと嘘くさくなると知っている歳なのだった。
夜更けに、裏口が二度だけ叩かれた。
戸を開けると、カイウスさまが一通の書きつけを差し出して、何も言わずに帰っていった。
角張った字で、三行だけ書いてあった。
『噂は聞いた。手が要るなら言え。要らんと言うことも、知っている』
(ええ。要りません)
笑うつもりはなかったのに、口の端がゆるんだ。
わたしは書きつけを帳面のあいだに挟んで、寝床に入った。
それでも、眠れなかった。
期限は明後日までだった。
申し開きの中身より先に、申し開きの形を決めなければいけない。
ひとりで検分して、ひとりで潔白を言い立てても、呪い屋の自作自演がひとつ増えるだけだ。
なら、誰の目の前でやるか。
味方の目では駄目だった。
マーサさんの証言はもう、身内の贔屓と割り引かれる。
要るのは、わたしを疑っていて、それでも目の前の縫い目には嘘のつけない人だった。
天井の染みが白み始めた頃、定規で引いたような、あの査察方の四角四面の顔が浮かんで、わたしはやっと少しだけ眠った。
朝一番に組合へ使いを出して、査察方に立会いを頼んだ。
呪いの検分の記録は、どのみち組合へ出す義務がある。
手の内をまた一枚、誰が読むとも知れない棚へ預けることになるけれど、今は店の信用のほうが先だった。
なら検分そのものを、疑っている人の目の前でやったほうがいい。
査察方は渋い顔のまま来てくれた。
「言っておくが、儂は貴様の味方ではないぞ」
「結構です。味方でない方の目が一番信用されますので」
作業台に灰青のドレスを広げた。
視えたのは、思ったとおりのものだった。
わたしの夜露の加護が、胴の裏でねじ曲げられていた。
加護の縫い目そのものに、上から漆黒の糸が絡みつけられている。
露の粒を模したわたしのひと針ひと針が、そっくりそのまま、熱を吸う口に作り替えられていた。
土台にわたしの魔力の道があるから、呪いは楽に、深く効く。
わたしが丁寧に縫えば縫うほど、良い呪いになる仕掛けだった。
しかもこの飢えには、覚えがあった。
人目を浴びるほど深くなる、あのリディア嬢のドレスと同じ質の飢えだった。
「……これはわたしの加護です。そしてこの黒いほうは、わたしの糸ではありません」
わたしは漆黒の一筋を、針の先で示した。
「針の癖も、糸の撚りもまるで違う。あとから誰かが、わたしの縫い目の上に針を入れています」
「そう申し開きをして、誰が信じる?」
「信じていただくために、これから縒りをほどいて、糸を分けます。最後までご覧ください」
加護の糸と呪いの糸をひと目ずつ選り分けていく細工は、日が落ちるまでかかった。
査察方は途中から前のめりになって、選り分けた二種の糸が別々の皿に積み上がっていくのを黙って見ていた。
呪いの結び目は三つあった。
大公さまの二十四とは別の、同じ手が別の布に落とした種だった。
ほどくたび、馴染んでしまった冷たさが胸を流れる。
今度の残留感情は妬みでも憎しみでもなくて、もっと事務的な仕事、という手触りをしていた。
それが一番、怖かった。
(やっぱり。王女殿下のドレスと同じ手口だわ)
共布の検印を見つけた夜に、わたしが行き着いた答えが、いま皿の上で形になっていた。
わたしの縫った加護を、あとから呪いに作り替える。
一度目はわたしから家と婚約者を取り上げて、二度目は店の信用を取り上げに来た。
(それにしても、妙)
皿の上の漆黒の糸を毛抜きでつまんで、角灯に翳す。
(糸の反対側の誰かは、わたしの針を読めるくらいの腕なんでしょう。その気になれば、店ごと、わたしごと、潰す手はいくらでもあるはずなのに。来るのはいつも、こういう……試すような手ばかり)
審査の日の、あの扇の止まった静けさを思い出した。
刺繍でも顔でもなく、糸の一筋だけを見ていた薄灰色の目を。
肩幅でも着丈でもないものを測る、あの目を。
(潰されていないんじゃない。泳がされているんだわ。今もどこかで、わたしは採寸されている)
背筋の冷えを指先に出さないように、わたしは糸をもうひと寄り角灯へ近づけた。
そして今度こそ、息が止まった。
漆黒に染められた絹糸の撚りの芯に、藍がかった銀の光が一筋だけ通っていた。
染めの下から透けているのは、藍がかった銀の絹糸だった。
王都でこの撚りを扱う糸商はひとつしかない。
メイフィールド家のサロンが専属の工房に撚らせている、特注の絹糸だった。
見間違えるはずがなかった。
この糸のボビンを、わたしは九年、巻かされ続けてきたのだから。
けれど、と冷えた頭の隅で、もうひとりのわたしが言う。
お義姉さまは、布に針ひとつ通せない。
この糸をどれだけ持っていても、あの人にこれは縫えない。
(お義姉さま。あなたの糸で……いったい、誰に縫わせたの)




