第12話 名乗るなと言われた名前
翌日、わたしは選り分けた二種の糸と査察方を連れて、侯爵家の門を叩いた。
申し開きの場は、談話室に整えられていた。
長椅子には顔色の戻ったソランジュ侯爵夫人が座っていて、その後ろに家令さんと、招かれたらしい貴族の奥さま方が三人控えていた。
『疑われた針子の言い訳を見物する席』
部屋の空気は、はっきりとそう言っていた。
わたしは灰青のドレスを広げて、皿に分けた糸を並べて、昨日と同じ検分を最初から繰り返した。
加護の縫い目と呪いの縫い目では、針の癖が違う。
糸の撚りも違う。
そして呪いの糸の染めの下には、藍がかった銀の芯が透けている。
最初のうち、奥さま方は扇の陰で囁き合っていた。
呪いだの糸の癖だの、針子の口上に付き合わされる茶会だと思っていらしたのだと思う。
それが変わったのは、選り分けた二種の糸を、それぞれ蝋燭の火に近づけて見せたときだった。
わたしの加護の糸は、燃え尽きる寸前まで淡い光を保った。
呪いの糸は、火が触れる前から、炎のほうが避けるみたいに黒くうねった。
目に見える違いというのは、どんな口上より速い。
囁きが止まって、身を乗り出す衣擦れの音がした。
査察方が組合の記録簿を開いて、無愛想な声で言い添えた。
「儂は昨日、この検分に最初から立ち会った。この娘の申し立てに細工の入る隙はなかった。組合としてはそう記録する」
「つまり……こういうことですの?」
夫人が扇の先で、皿の上の漆黒の糸を指した。
「わたくしのドレスは、この娘の加護ごと、あとから何者かに呪いへ作り替えられていた。そういうことでよろしくて?」
「はい。そしてわたしの見立てでは、狙われたのは奥さまではなく、わたしの店の信用です」
わたしは深く頭を下げた。
「奥さまは……巻き込まれたのだと思います。ご無事で、ようございました」
夫人は長いことわたしの顔を見て、それから扇をぱちりと鳴らした。
「わたくし、担がれるのは嫌いですの。担ぐのは好きですけれど」
その日の夕方には、侯爵夫人が金の糸の針子の潔白を認めた、という話が呪い屋の噂と同じ速さで街を巡った。
翌朝には予約が戻り、昼には夫人からの新しい注文書と、社交界の流行を決める方の一筆が届いた。
『この店の仕事は、わたくしが保証いたします』と。
それでも、と帳面の前でわたしは思う。
呪いの糸の出どころに照会が行ったはずのメイフィールド家からは、盗難に遭った糸だという返答が組合に届いただけだった。
糸は盗まれたもので、縫ったのが何者かは知らない。
紙の上では、それで終わりだった。
(盗まれた、で逃げるつもりね。いいわ。糸で駄目なら、腕で証明する。あの人が針を持てないことを、いつか王都中の目の前で)
藍銀の糸のことは、申し開きの晩のうちに書きつけにして、カイウスさま宛てに届けてあった。
縫い手を探すのは俺の仕事だと、あの方は言ったのだから。
終わっていないことを知っている顔が、三日後、店の扉を開けた。
鈴の音と一緒に入ってきたのは、王都の最新流行を纏った金髪の人だった。
菫色の瞳が店の中をゆっくりとひと巡りして、棚の生地、勘定台の帳面、作業台の待ち針の一本までを値踏みして、最後にわたしで止まった。
完璧だった。
装いも、微笑みも、香水の濃さも。
でも九年、この人の着付けと繕いをしてきた目は、完璧の下の針目を拾ってしまう。
縦巻きの髪が、いつもより一段きつく巻かれている。
手袋の指先が、左だけ僅かに毛羽立っている。
爪を噛む癖は、子供の頃に矯正されたはずだった。
装いは嘘をつけても、装いの手入れは嘘をつけない。
この人は今、追い詰められている。
「ごきげんよう、エルシー。まあ……思ったより、ちゃんとお店の形をしているのね」
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用向きでしょうか、メイフィールドのお嬢さま」
他人行儀に徹したのは、店の勘定台に立つ者の作法と、それからささやかな意趣返しだった。
名乗るなと言われた家の名を、お客さま用の敬称にして返す。
義姉の眉が一瞬だけ動いて、すぐに完璧な微笑みに戻った。
「ひどい災難だったんですってね。うちの糸まで盗まれて、あなたのドレスに使われたとか。世の中には恐ろしいことをする人がいるものだわ」
「ええ、本当に。九年ボビンを巻いた糸でしたから、ひと目で分かりました。撚りの芯まで存じ上げている糸って、そうはございませんもの」
「あら。妹が下働きまでしてくれていたなんて、初耳だわ」
微笑んだまま、瞳の温度だけが下がっていくのが分かった。
ピムが勘定台の陰で身構える気配がする。
義姉は棚の生地をひと巻き、指先で撫でて、埃を確かめるみたいにその指を擦り合わせた。
「ねえ、エルシー。侯爵夫人に取り入って、組合に潜り込んで、それで名前を取り返したつもり?」
「取り入った覚えも潜り込んだ覚えもありませんが、名前でしたら最初からわたしのものですので」
「そういうところが嫌いなのよ」
声は、恐ろしいほど静かだった。
「お父さまはね、あなたの図案の在庫が切れてからずっと機嫌がお悪いの。工房の職人は使えない者ばかり。お客さまの目は年々肥える」
毛羽立った手袋の指先が、生地の端をきつく掴んだ。
「……全部、あなたのせいよ。あなたが出ていったせい。あなたが、わたくしから盗んでいくせい」
「……盗む? わたしがお義姉さまから?」
「名前だけ潰しても足りないって、よく分かったわ」
義姉は生地から指を離して、真っ直ぐにわたしを見た。
「今度は腕ごと潰してあげる。あなたのその指が、二度と王都で針を持てないように」
それから義姉は、来たときと同じ完璧な微笑みに戻って、勘定台に一枚の刷り物を置いた。
王家の紋章の入った、上等な紙だった。
「近く、王都仕立て競技会が開かれますの。王家の後援で、審査には王室縫製室もお立ち会いになる、由緒正しい腕比べ」
義姉は刷り物の端を、爪の先でとんと叩いた。
「わたくし、出ますのよ。あなたも出るのでしょう? 逃げても構わないけれど……その場合は、王都中が金の糸の針子は模造品だったと知ることになるわ」
鈴を鳴らして扉が閉まったあと、店の中は長いこと静かだった。
ピムが刷り物を覗き込んで、うわ、と声を上げる。
「優勝したら、王室縫製室への推薦だってよ。……なあ、あの姉ちゃん、魔法刺繍は使えないんだろ? なんで勝てる気でいるんだ」
「使えないわ。でもあの人の腕はね、他人の腕を自分の物にする腕なの。九年、わたしで証明済みよ」
誰の腕を担ぐのかは、分からない。
でも、あの藍銀の糸で呪いを縫えて、縫製室の検印を素通りさせられる誰かとなれば、候補はそう多くないはずだった。
ただ、乗り込んでくる前のあの下見の目は、本気の目だった。
夜、わたしは刷り物を作業台に広げて、隅々まで読んだ。
優勝者には、王室縫製室への推薦が与えられるという。
読み返すほど、その一行が別の色を帯びていった。
縫製室は防呪検査を独占している。
検印は、貴族の衣装という衣装の関所だった。
あの関所の内側に入れるなら、呪いの縫い込みは着る人に届く前に、検査の台の上で見つけてほどける。
リディア嬢のドレスも、侯爵夫人のドレスも、王女殿下のドレスだって、そもそも起こらずに済んだ事件だった。
(それに、あの検印の内側には、たぶん糸の反対側の誰かがいる)
わたしの針を読み、あの方の呪いを縫い足し続けている手が。
泳がされているのなら、いっそこちらから水源へ泳いでいく。
(名前のためだけじゃないわ。これは、防波堤。呪いが誰かに届く前に止められる、たったひとつの席)
申込みの前に、わたしはもう一通、手紙を書いた。
宛名は、ソランジュ侯爵夫人だった。
『担がれるのはお嫌いで、担ぐのはお好きと伺いました。つきましては競技会の日に、ひとつ担いでいただきたいものがございます』
書き出しを読み返しただけで、夫人が扇を鳴らす音が聞こえる気がした。
封をして、それからやっと、参加申込みの紙面に向かった。
参加者名の欄の前で、一度だけ息を整える。
二度と名乗るな、と義父は言った。
けれど、メイフィールドの名を王都一にしたのは、この指だった。
義父でも義姉でもなく、屋根裏の針子が九年かけて縫い上げた名前だ。
『腕さえあれば、名前はいつか自分で取り返せるから』
お母さまがそう言い残したとおり、腕は磨き続けてきた。
もう片方を、取り返しに行く。
ペン先をインクに浸して、二度と名乗るなと言われた名前を、王家の紋章の入った紙に一字ずつ丁寧に書いた。
『エルシー・メイフィールド』
書き終えて乾くまでの間、わたしはその十一文字を眺めていた。
悪くない字だった。
屋根裏で図案の隅に署名の練習をしていた、十五のわたしに見せてあげたいくらいに。
(ええ、お義姉さま。逃げませんとも。この名前で、あなたの隣に並びます)




