第13話 届かない針
競技会の本選まで、あと半月と迫っていた。
店の鈴は朝から晩まで鳴りっぱなしだった。
侯爵夫人の一筆のおかげで貴族のお客さまが列を作り、そのうちの何人かは、繕いにかこつけて衣装棚の古い呪いを持ち込んでくる。
夜は本選のための下拵えに回した。
課題は、当日会場で夜会装一式を仕立て上げること。
生地と刺繍済みの部品の持ち込みは許されているから、勝負の半分は前の晩までに決まっているようなものだった。
意匠は、迷わず夜と夜明けに決めた。
深い夜の色の絹に夜明けの色の絹を重ねて、闇が明けていく一瞬を一着に閉じ込める。
図案帳のどの頁にもない、店を持ってから初めて自分のために引いた図案だった。
雨の夜に家を追われた針子が朝を迎えた話を、わたしは布で語るつもりだった。
刺繍の部品は、全部で九枚になる。
要になる金の糸のパネルは、夜と夜明けの境目に据える。
夜なべのたびに一枚ずつ仕上がっていく部品を数えるのが、疲れた指へのご褒美だった。
そして数日おきの夜には、あの方の結び目がある。
先日、七つ目をほどいて、残りは二十三になった。
ふたつ増えていたあの夜から、数はまだ一度も増えていない。
それでも検分のたびに、わたしは息を止めて数え直す。
一度裏切った数を、もう素直には信じられなかった。
手を緩めれば、また追いつかれる気がした。
だから、休む日を作らなかった。
右手の震えが疲れだけのせいではないと、本当は分かり始めていた。
朝一番の指は正直で、顔を洗う手のひらから水がこぼれる。
仕事に入ってしまえば忘れられるのに、糸を針に通す最初のひと手だけ、日ごとにしくじりが増えた。
思い当たることが、ひとつだけあった。
ほどくたびに胸の底に煤が積もる。
他人の憎しみや妬みを結び目ごしに素肌で浴びて、その澱が少しずつ溜まっていく。
はじめは薄く積もるだけだった煤が、今はもう確かめるのが怖いくらいの厚さになっている。
その煤が、指を動かすいちばん細い糸まで、詰まらせ始めているのではないか。
これはあくまで、わたしの当て推量にすぎない。
医者に診せたわけでも、誰かに教わったわけでもない。
ただ、煤が厚くなる速さと、震えのひどくなる速さが、気味が悪いくらいに揃っている気がするのだった。
(お母さま。もしかして、これを知っていたのですか……)
『視えることは、人に言ってはいけないのよ』
『この色は、家の外で出してはだめよ』
このふたつの約束は、人の目からわたしを守るためだと思っていた。
でも、そうではなかったのかもしれない。
隠せと言ったのは、使うたびに娘の体が削れていくことを、お母さまが知っていたからだとしたら。
考えても、答えてくれる人はもういない。
わたしは思考に蓋をして、隠す工夫のほうに気を回した。
裁ちと荒い仕事は、左手を混ぜて使う。
糸通しは客の来ない朝のうちに、その日の分をまとめて済ませておく。
茶器を運ぶときは盆を使わず、両手で包んで持つ。
先日の解呪の夜は、支度のあいだずっと拳を握り込んで、針を持つ瞬間だけ開いた。
帰り際、あの方は何か言いかけて、結局、無理はするな、とだけ言った。
あの方の目は誤魔化せた、と思う。
そう思うことにしていた。
ピムには一度、鋏を取り落としたところを見られた。
けれど、寝不足よ、と笑ったら、それ以上は聞かずに、次の日から重い生地の巻きを全部先回りして運ぶようになった。
聞かない優しさというものを、この店の面々はみんな持っている。
それでも本選まで半月、倒れる予定は入れていなかった。
その日の店じまいの頃に、ピムが珍しく、もじもじと勘定台の前に立った。
「あのさ。……客、連れてきていいか? 金は、俺の給金から引いてくれ」
裏口から入ってきたのは、ピムより二つ三つ下の女の子だった。
継ぎの当たった肩掛けにくるまって、花籠を抱えている。
橋の下にいた頃の仲間で、ネルという子だった。
市場で花を売って暮らしているのだと、ピムが早口で説明した。
「こいつ、最近ずっと眠いって言うんだ。今日なんか昼まで起きられなかったって。顔も白いし、手なんか石みてえに冷てえし……」
ピムの声が、そこで少し上ずった。
「なあエルシー、そういうの、あれだろ。婆ちゃんのドレスと、おんなじやつだろ?」
早口の理由は、あとでピムがぽつりと話してくれた。
二年前の冬、ピムが熱を出して橋の下で三日動けなかったとき、氷と粥を運び続けてくれたのがネルだったのだという。
ネルは自分の花の売り上げを、全部それに使ったらしい。
だから今度は俺の番なんだ、と言うこの子の給金が、まだ月に銀貨二枚なのを、雇い主のわたしは知っていた。
ネルはこくりと頭を下げて、抱えていた花籠を、両手でわたしのほうへ差し出した。
「お代は……これで、足りますか」
お代のつもりなのだと、少し遅れて分かった。
売れ残りの萎れかけた菫が、籠の底に律儀に整列していた。
施しは受けない子なのだと、それだけで分かった。
「お花は、お花で買わせてもらうわ。お代の話は、そのあとにしましょう」
わたしは売れ残りの花を全部買って、それから肩掛けを見せてもらった。
視えたのは、思ったより深いものだった。
古びた灰黒の糸が、肩掛けの裏に四つの結び目を作っている。
マーサさんのドレスと同じ、熱をゆっくり吸う型だった。
ただし、あのドレスのそれより結び目が肥えていた。
呪いは吸った力で肥る。
この肩掛けは施しの古着に紛れて回ってきたもので、ネルは冬の初めからずっと、これにくるまって眠っていたという。
(数ヶ月、吸われ続けたんだわ。この小さな体から)
施しの古着は、月に一度、教会の前で配られる。
貴族や商家の払い下げが樽に詰まって届いて、早い者勝ちで持っていく。
誰が着ていたかも、どこの樽から来たかも、たどれる者は誰もいない。
呪いを捨てるのに、これほど都合のいい流れもなかった。
頬に手の甲を当てると、氷の温度がした。
唇の色が薄い。
あのドレスのリタは家があって食事があって、それでも祭りのたびに倒れた。
橋の下で花を売る子の体に、呪いに分けてやれる蓄えなんて、最初からありはしない。
「ほどきましょう。今夜のうちに」
「い、いくらだ。銅貨なら、俺、貯めて」
「子供のお客さまは銅貨一枚。うちの決まりよ」
決まりは今作った。
ピムが泣きそうな顔で笑うのを見ないふりをして、わたしは針箱を開けた。
一晩置くべきではないかと、頭の隅で誰かが囁いていた。
指の調子は自分が一番よく知っている。
明日の朝、もし震えが引いていたら。
でも引かなかったら。
その保証はどこにもない。
そしてネルの首筋に掛かった肩掛けでは、結び目のひとつが、今夜もどくりと肥え続けている。
この子の残りと、わたしの指の戻りと、どちらが早いかの賭けはできなかった。
(大丈夫。四つだけ。古い型で、罠の癖も知っている型よ。丁寧にやれば)
糸を、針に通す。
通らなかった。
糸先が針穴の縁で滑って、二度、三度。
角灯の灯りのせいにするには、手元は明るすぎた。
四度目もだめで、五度目の前に、ピムが黙って手を出した。
細くて器用な指が、ひと息で糸を通して返してくる。
ありがとう、と言った自分の声が、少し掠れていた。
「なあ、エルシー。あんた、今日はやめたほうが……」
「平気よ。通ってしまえば、あとはいつもの仕事だもの」
嘘だった。
針を構えて、金の色を灯して、一番端の結び目に狙いをつけた瞬間から、いつもと違った。
針先が揺れている。
帰り道を読むには、糸の流れの上に針先を髪一本の幅で滑らせなければいけないのに、その髪一本が保てない。
金の光が明滅する。
結び目が、揺れる針先を警戒して、殻を固くするのが視えた。
囮の針を左手に持とうとして、左はもっとひどかった。
右手一本に戻して、息を殺して、震えの波の合間を縫うように針を進める。
一の目、二の目。
そこで指先が、びくりと跳ねた。
針が糸の流れを外れた。
結び目が牙を立てる寸前に引き抜いて、わたしは膝の上で右手を押さえ込んだ。
押さえた左手ごと、震えていた。
額から落ちた汗が、肩掛けの上で小さく光る。
残酷なのは、目だった。
帰り道は視えていた。
四つの結び目の糸の流れも、罠の位置も、どこをどの順でほどけばいいかも、頭の中には図面のように広がっている。
視えているのに、届かない。
目と手の間の、たった手のひらひとつの距離が、今夜は海より遠かった。
ネルが不安そうにわたしを見ている。
ピムが何か言っている。
聞こえているのに、遠かった。
(動いて)
九年、どんな夜なべにも音を上げなかった手だった。
義姉の締め切りにも、王女殿下のドレスにも。
あの方の結び目にも挑んでいる、わたしのたったひとつの財産だった。
(お願いだから、動いて。動きなさい、わたしの手。今この子を救えなくて、何のための腕なの)
祈りながら針を構え直した、そのときだった。
目の前で、ネルの小さな体が、蝋燭の火を吹き消したみたいに椅子から傾いだ。
「ネル!」
ピムの悲鳴が店に響いた。
床に崩れる細い体を、わたしの手は針を握りしめたまま、受け止めることさえできなかった。




