↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
義姉に手柄を盗まれ続けた針子令嬢 〜追放されたので呪いほどきの仕立て屋を開きます〜  作者: 陽和


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/18

第13話 届かない針

 競技会の本選まで、あと半月と迫っていた。


 店の鈴は朝から晩まで鳴りっぱなしだった。


 侯爵夫人の一筆のおかげで貴族のお客さまが列を作り、そのうちの何人かは、繕いにかこつけて衣装棚の古い呪いを持ち込んでくる。


 夜は本選のための下拵えに回した。


 課題は、当日会場で夜会装一式を仕立て上げること。


 生地と刺繍済みの部品の持ち込みは許されているから、勝負の半分は前の晩までに決まっているようなものだった。


 意匠は、迷わず夜と夜明けに決めた。


 深い夜の色の絹に夜明けの色の絹を重ねて、闇が明けていく一瞬を一着に閉じ込める。


 図案帳のどの頁にもない、店を持ってから初めて自分のために引いた図案だった。


 雨の夜に家を追われた針子が朝を迎えた話を、わたしは布で語るつもりだった。


 刺繍の部品は、全部で九枚になる。


 要になる金の糸のパネルは、夜と夜明けの境目に据える。


 夜なべのたびに一枚ずつ仕上がっていく部品を数えるのが、疲れた指へのご褒美だった。


 そして数日おきの夜には、あの方の結び目がある。


 先日、七つ目をほどいて、残りは二十三になった。


 ふたつ増えていたあの夜から、数はまだ一度も増えていない。


 それでも検分のたびに、わたしは息を止めて数え直す。


 一度裏切った数を、もう素直には信じられなかった。


 手を緩めれば、また追いつかれる気がした。


 だから、休む日を作らなかった。


 右手の震えが疲れだけのせいではないと、本当は分かり始めていた。


 朝一番の指は正直で、顔を洗う手のひらから水がこぼれる。


 仕事に入ってしまえば忘れられるのに、糸を針に通す最初のひと手だけ、日ごとにしくじりが増えた。


 思い当たることが、ひとつだけあった。


 ほどくたびに胸の底に煤が積もる。


 他人の憎しみや妬みを結び目ごしに素肌で浴びて、その澱が少しずつ溜まっていく。


 はじめは薄く積もるだけだった煤が、今はもう確かめるのが怖いくらいの厚さになっている。


 その煤が、指を動かすいちばん細い糸まで、詰まらせ始めているのではないか。


 これはあくまで、わたしの当て推量にすぎない。


 医者に診せたわけでも、誰かに教わったわけでもない。


 ただ、煤が厚くなる速さと、震えのひどくなる速さが、気味が悪いくらいに揃っている気がするのだった。


(お母さま。もしかして、これを知っていたのですか……)


『視えることは、人に言ってはいけないのよ』


『この色は、家の外で出してはだめよ』


 このふたつの約束は、人の目からわたしを守るためだと思っていた。


 でも、そうではなかったのかもしれない。


 隠せと言ったのは、使うたびに娘の体が削れていくことを、お母さまが知っていたからだとしたら。


 考えても、答えてくれる人はもういない。


 わたしは思考に蓋をして、隠す工夫のほうに気を回した。


 裁ちと荒い仕事は、左手を混ぜて使う。


 糸通しは客の来ない朝のうちに、その日の分をまとめて済ませておく。


 茶器を運ぶときは盆を使わず、両手で包んで持つ。


 先日の解呪の夜は、支度のあいだずっと拳を握り込んで、針を持つ瞬間だけ開いた。


 帰り際、あの方は何か言いかけて、結局、無理はするな、とだけ言った。


 あの方の目は誤魔化せた、と思う。

 そう思うことにしていた。


 ピムには一度、鋏を取り落としたところを見られた。

 けれど、寝不足よ、と笑ったら、それ以上は聞かずに、次の日から重い生地の巻きを全部先回りして運ぶようになった。


 聞かない優しさというものを、この店の面々はみんな持っている。


 それでも本選まで半月、倒れる予定は入れていなかった。


 その日の店じまいの頃に、ピムが珍しく、もじもじと勘定台の前に立った。


「あのさ。……客、連れてきていいか? 金は、俺の給金から引いてくれ」


 裏口から入ってきたのは、ピムより二つ三つ下の女の子だった。


 継ぎの当たった肩掛けにくるまって、花籠を抱えている。


 橋の下にいた頃の仲間で、ネルという子だった。


 市場で花を売って暮らしているのだと、ピムが早口で説明した。


「こいつ、最近ずっと眠いって言うんだ。今日なんか昼まで起きられなかったって。顔も白いし、手なんか石みてえに冷てえし……」


 ピムの声が、そこで少し上ずった。


「なあエルシー、そういうの、あれだろ。婆ちゃんのドレスと、おんなじやつだろ?」


 早口の理由は、あとでピムがぽつりと話してくれた。


 二年前の冬、ピムが熱を出して橋の下で三日動けなかったとき、氷と粥を運び続けてくれたのがネルだったのだという。


 ネルは自分の花の売り上げを、全部それに使ったらしい。


 だから今度は俺の番なんだ、と言うこの子の給金が、まだ月に銀貨二枚なのを、雇い主のわたしは知っていた。


 ネルはこくりと頭を下げて、抱えていた花籠を、両手でわたしのほうへ差し出した。


「お代は……これで、足りますか」


 お代のつもりなのだと、少し遅れて分かった。


 売れ残りの萎れかけた菫が、籠の底に律儀に整列していた。


 施しは受けない子なのだと、それだけで分かった。


「お花は、お花で買わせてもらうわ。お代の話は、そのあとにしましょう」


 わたしは売れ残りの花を全部買って、それから肩掛けを見せてもらった。


 視えたのは、思ったより深いものだった。


 古びた灰黒の糸が、肩掛けの裏に四つの結び目を作っている。


 マーサさんのドレスと同じ、熱をゆっくり吸う型だった。


 ただし、あのドレスのそれより結び目が肥えていた。


 呪いは吸った力で肥る。


 この肩掛けは施しの古着に紛れて回ってきたもので、ネルは冬の初めからずっと、これにくるまって眠っていたという。


(数ヶ月、吸われ続けたんだわ。この小さな体から)


 施しの古着は、月に一度、教会の前で配られる。


 貴族や商家の払い下げが樽に詰まって届いて、早い者勝ちで持っていく。


 誰が着ていたかも、どこの樽から来たかも、たどれる者は誰もいない。


 呪いを捨てるのに、これほど都合のいい流れもなかった。


 頬に手の甲を当てると、氷の温度がした。


 唇の色が薄い。


 あのドレスのリタは家があって食事があって、それでも祭りのたびに倒れた。


 橋の下で花を売る子の体に、呪いに分けてやれる蓄えなんて、最初からありはしない。


「ほどきましょう。今夜のうちに」


「い、いくらだ。銅貨なら、俺、貯めて」


「子供のお客さまは銅貨一枚。うちの決まりよ」


 決まりは今作った。


 ピムが泣きそうな顔で笑うのを見ないふりをして、わたしは針箱を開けた。


 一晩置くべきではないかと、頭の隅で誰かが囁いていた。


 指の調子は自分が一番よく知っている。


 明日の朝、もし震えが引いていたら。


 でも引かなかったら。


 その保証はどこにもない。


 そしてネルの首筋に掛かった肩掛けでは、結び目のひとつが、今夜もどくりと肥え続けている。


 この子の残りと、わたしの指の戻りと、どちらが早いかの賭けはできなかった。


(大丈夫。四つだけ。古い型で、罠の癖も知っている型よ。丁寧にやれば)


 糸を、針に通す。


 通らなかった。


 糸先が針穴の縁で滑って、二度、三度。


 角灯の灯りのせいにするには、手元は明るすぎた。


 四度目もだめで、五度目の前に、ピムが黙って手を出した。


 細くて器用な指が、ひと息で糸を通して返してくる。


 ありがとう、と言った自分の声が、少し掠れていた。


「なあ、エルシー。あんた、今日はやめたほうが……」


「平気よ。通ってしまえば、あとはいつもの仕事だもの」


 嘘だった。


 針を構えて、金の色を灯して、一番端の結び目に狙いをつけた瞬間から、いつもと違った。


 針先が揺れている。


 帰り道を読むには、糸の流れの上に針先を髪一本の幅で滑らせなければいけないのに、その髪一本が保てない。


 金の光が明滅する。


 結び目が、揺れる針先を警戒して、殻を固くするのが視えた。


 囮の針を左手に持とうとして、左はもっとひどかった。


 右手一本に戻して、息を殺して、震えの波の合間を縫うように針を進める。


 一の目、二の目。


 そこで指先が、びくりと跳ねた。


 針が糸の流れを外れた。


 結び目が牙を立てる寸前に引き抜いて、わたしは膝の上で右手を押さえ込んだ。


 押さえた左手ごと、震えていた。


 額から落ちた汗が、肩掛けの上で小さく光る。


 残酷なのは、目だった。


 帰り道は視えていた。


 四つの結び目の糸の流れも、罠の位置も、どこをどの順でほどけばいいかも、頭の中には図面のように広がっている。


 視えているのに、届かない。


 目と手の間の、たった手のひらひとつの距離が、今夜は海より遠かった。


 ネルが不安そうにわたしを見ている。


 ピムが何か言っている。


 聞こえているのに、遠かった。


(動いて)


 九年、どんな夜なべにも音を上げなかった手だった。

 義姉の締め切りにも、王女殿下のドレスにも。


 あの方の結び目にも挑んでいる、わたしのたったひとつの財産だった。


(お願いだから、動いて。動きなさい、わたしの手。今この子を救えなくて、何のための腕なの)


 祈りながら針を構え直した、そのときだった。


 目の前で、ネルの小さな体が、蝋燭の火を吹き消したみたいに椅子から傾いだ。


「ネル!」


 ピムの悲鳴が店に響いた。


 床に崩れる細い体を、わたしの手は針を握りしめたまま、受け止めることさえできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。