第14話 治る手を待つ
ネルは死ななかった。
ただ、目を覚まさなかった。
わたしは震える手のまま鋏だけは握って、肩掛けを少女の体から切り離した。
呪い本体は肩掛けの側にある。
離してしまえば吸われは止まる。
その読みは当たって、駆けつけた下町の先生は、「脈は落ち着いている、あとは眠りが浅くなるのを待つだけだ」と言った。
でも、三日経ってもネルの瞼は開かなかった。
理由は、わたしには視えていた。
肩掛けは離した。
けれど数ヶ月も肌に添っていた呪いの糸は、先端の根をもう少女の体のほうへ移し始めていた。
あの方の呪いと同じ、初期の根だった。
浅い。
今ならほどける。
ただしそれは、子供の細い体に残ったいちばん細い糸を、髪一本の狂いもない針先で拾える手があれば、の話だった。
今のわたしの手は、糸通しさえ、ピムに頼まなければできなくなっていた。
ネルは店の二階に寝かせて、マーサさんが交代で看てくれることになった。
花売りの少女が倒れたと聞いて、職人街のおかみさんたちが入れ替わり、粥だの果実水だのを届けてくれる。
眠る子の枕元は、橋の下では一生知らなかったはずの温かさで囲まれていて、それがかえってわたしの胸を刺した。
夜ごと、同じ算段を何度もやり直した。
あの夜、一晩置いていたら。
いいえ、置いた朝に震えが引いていた保証はない。
なら三日前に、無理にでもほどく間隔を空けて手を休めていたら。
いいえ、そうしたらあの方の結び目が。
算段はいつも同じ場所をぐるぐる回って、同じ場所に落ちた。
どの道を選び直しても、倒れるネルを受け止められない手だけが、真ん中に残った。
ピムはあの夜から、ほとんど口を利かない。
わたしを責める言葉をひとつも言わないことが、どんな言葉より重かった。
一度だけ夜中に水を替えに上がったら、枕元でこの子が、俺がもっと早く連れてくりゃ、と眠るネルに詫びているのが聞こえた。
慰めてやりたかった。
あなたのせいじゃない、と。
でもその言葉は、じゃあ誰のせいなの、という問いと裏表に縫い合わさっていた。
わたしはそれを口にする資格を、まだ自分に許せなかった。
師匠と弟子で、詫びる相手だけが同じだった。
四日目の朝、わたしは勘定台の後ろの品書きの前に立った。
縫い直し、仕立て、加護の刺繍と並んだその下の、呪いの縫い目の相談、と書き足した一行に、布を掛けた。
この一行を頼って扉を叩く人に、今のわたしが差し出せる手はなかった。
それから机に向かって、大公邸への手紙を書いた。
次の解呪の約束の断りと、それから、契約解除の申し出を。
震える針は帰り道を外す。
外した針は罠を締める。
あの結び目の罠は、宿主のお命を絞る仕掛けだった。
わたしの指はもう、あの方の命の上で踊らせていいものではなくなっていた。
手紙は、三度書き直した。
一度目は言い訳が多すぎて、二度目は詫びが多すぎて、火にくべた。
言い訳に読める行と、憐れみを乞うように読める行を全部削ったら、三行になった。
次の解呪は延期を願うこと。
手の震えが治らないこと。
契約の解除を申し出ること。
職人の手紙は品物と同じで、余計な飾りは入れない。
いつかの夜の、あの方の書きつけと同じ三行だった。
書き終えて封をするまで、一度も涙は出なかった。
泣く代わりに数を数えるのが、わたしの癖のはずだった。
なのに数えようとしたら、数えるものが、何も残っていなかった。
貯金箱はもうない。
品書きの一行も、自分で覆ってしまった。
その夜、店の裏口が叩かれた。
約束の日ではなかった。
開けると、フードも被らない素顔のままの大公さまが立っていて、その後ろでピムが濡れた目のまま息を切らしていた。
この子が邸まで走ったのだと、それだけで分かった。
「手紙は読んだ」
大公さまは店に入って、覆いを掛けた品書きを一瞥した。
それから、勘定台の前の椅子に勝手に腰を下ろした。
「断る。契約の解除には応じない」
「……殿下。理由は手紙に書いたとおりです。この手は」
「震えるのだろう。知っている」
わたしは、立ったまま動けなかった。
「おまえは俺に、白紙にされたら路頭に迷うと言った。職人は仕掛かりを投げないと言った。あれは嘘だったのか?」
「嘘ではありません。でも、あのときとは違います。わたしの針はもう、あなたを治す針ではなくて、殺しかねない針に──」
「なら、治る手を待つ。それだけのことだ」
あんまり静かに言うものだから、意味が届くまでに少しかかった。
「ほどくのは当面止める。俺の結び目は三年保った。あとひと月やふた月、増えたところで今さらだ」
大公さまは、わたしの右手から目を離さなかった。
「だがおまえの手は、休ませれば戻る見込みがある。医者に聞いたが、それは病ではなく浴び続けた毒の疲れだと。……順番の問題だ、針子どの。先におまえが治り、それから俺を治す。契約の中身は、何も変わらん」
「戻らなかったら?」
声が勝手に零れた。
四日間、ひとりで抱えて蓋をしてきた言葉だった。
「戻らなかったら、どうするんですか? ネルはわたしの目の前で倒れました」
下ろした右手が、また震え始めていた。
「腕は盗めないって、それだけを頼りに生きてきたのに……その手があっても、届かなかった。手が動かないなら、わたしには、もう何も……」
気づけば、卓の向かいの椅子に崩れるように座り込んでいた。
黒手袋の手が、卓の上のわたしの右手の横に、静かに置かれた。
触れてはいない。
指一本分の距離を空けて、ただ隣に大きな手が並んでいる。
三年間、誰にも触れられなかった人の、触れられないままの労り方だった。
「三年前、俺は剣を握れなくなった」
低い声が、角灯の火と同じ高さで揺れた。
「呪いで腕が上がらなくなって、軍人が剣を失えば何も残らんと思った。死に方だけを考えたのはあの頃だ。……だがな、剣を握れん死にかけの男を、雨の路地で投げずに拾った針子がいた。腕は指先だけの話ではないと、俺はあのとき教わったが──」
薄青の目が、まっすぐにわたしを見た。
「教えた本人が忘れてどうする」
堪えていたものが、そこで切れた。
わたしは卓に突っ伏して、みっともない声を上げて泣いた。
十歳のときからずっと、泣く暇があったら数を数えて、算段をして針を持ってきた。
その全部ができなくなった夜に、この人は算段の代わりの言葉ひとつと、触れない手のひらひとつを置いて、わたしが泣き止むまでただ隣にいた。
泣き止んだあと、わたしは湯を沸かして、不格好に腫れた目のままお茶を淹れた。
大公さまは何も見なかった顔で、まずくはない、と失礼な感想を仰った。
それから、帰り際にひとつだけ、と指を立てた。
「医者を寄越す。手の療治に詳しい軍医だ。剣を握れなくなった兵を、何人も戦列に戻した男だからな」
指がもう一本、立った。
「……療治の間、解呪の予定は組むな。これは客からの注文だ。針子は客の注文を断らんのだろう」
「……ずるい注文の出し方を覚えていらっしゃいますね」
「良い店で習った」
ピムはいつの間にか、ネルの枕元で眠り込んでいた。
ひとりになってから、わたしは箱に納めた肩掛けを作業台に出した。
針は持てなくても、目はまだわたしの目だった。
検分だけならできる。
四つの結び目の糸の運びと、返しの重ねと、締めの向きを、角灯を近づけて帳面の図とひとつひとつ突き合わせていく。
マーサさんのドレスの図。
リディア嬢のドレスの図。
侯爵夫人の呪いの図。
そして、あの方の図。
(……同じ。やっぱり、同じ癖)
分かっていたことの答え合わせのはずなのに、指先が冷えた。
あの系譜の手は、貴族の夜会だけを狩場にしているのではなかった。
施しの古着に紛れて、橋の下で眠る子供の肩にまで、この癖の糸は届いていた。
誰かが縫って、用が済むか失敗するかして、捨てた。
捨てられた呪いは、それでも誰かを喰う。
(貴族の衣装には検印という関所がある。節穴の関所でも、関所は関所。でも下町には……関所そのものが、ないんだわ)
布を掛けた品書きが、視界の隅にあった。
競技会で欲しかったのは、検印の内側の席だった。
でも、あの検印は貴族しか守らない。
守られない者のための関所は、王都のどこにもない。
(なら、それを作る側に、わたしが行く)
わたしは肩掛けを箱に戻して、蓋を音を立てずに閉めた。
(手が戻ったら。いいえ、戻すのよ。戻して、それから)
その先を言葉にするには、今夜はまだ少しだけ早かった。




