第15話 懐かしい色
翌朝から、わたしは太い針と麻布に戻った。
仕立てでも繕いでもない、ただの運針だった。
等間隔に、真っ直ぐに、粗い布へ縫い目を並べていく。
十歳の頃、お母さまに最初に教わったのと同じ稽古だ。
震える手に細い針を持たせても、針が怯えるだけだった。
だからいちばん太い針といちばん素直な布から、手と、やり直すことにした。
約束どおり、軍医の先生が店に来た。
岩みたいな体つきの無口な方で、わたしの右手を検分するのに十五分かけて、口を利いたのは三度だけだった。
「握れ」
「開け」
「……ふん」
それから湯と冷水を交互に使う手の湯治と、油を使った揉みほぐしの手順を紙に書いて、最後にこう言った。
「俺の見立てでは、腱も骨も無事だ。参っているのは手ではなく、手に命じる側だ」
先生は紙をわたしに押しつけて、道具袋を担ぎ直した。
「焦って命じれば手は逆らう。仕事で治せ。ただし──勝てる仕事だけをやれ」
(勝てる仕事だけを、やれ……ね)
剣を握れなくなった兵を何人も戦列に戻したという人の処方は、薬ではなくて順番だった。
太い針は、そのための最初の一段なのだと、あとから腑に落ちた。
「糸、通すぜ」
朝いちばんに、ピムが針箱ごとわたしの前に座る。
哀れまれているのだったら断っていたと思う。
でもこの子は、弟子の仕事だろ、と言った。
糸通しは弟子が、縫うのは師匠が受け持つ。
そういう分担にしてくれたから、わたしはありがたく、通された針を受け取った。
解呪を止めて三日目には、震えの波の間隔が伸びた。
五日目には、朝の顔を洗う手から、水がこぼれなくなった。
浴び続けた毒の疲れというお医者さまの見立ては正しくて、浴びるのをやめれば、煤は少しずつ薄れていくものらしかった。
大公さまは約束どおり、解呪の予定を組まなかった。
その代わり、二日に一度は夕暮れに店へ寄って、手の具合を訊いては、茶を一杯だけ飲んで帰っていった。
ボタンを切ってくる口実は、もう使わなかった。
運針の縫い目が真っ直ぐに揃い始めた日、わたしは麻布をやめて、柔らかい羊毛の布を裁った。
ネルの毛布を縫うことにしたのだった。
あの子の体には触れられなくても、掛けるものになら針を入れられる。
呪いに吸われた熱の分だけ、朝までじんわりと温める加護を縫い込む。
意匠は菫にした。
あの日、籠の底で律儀に整列していた売れ残りの菫を、羊毛の野原いっぱいに、今度は萎れない糸の花で咲かせ直す。
目を覚ましたこの子が最初に見るものが、自分の商売物の花畑だったら、少しは笑ってくれるかもしれなかった。
焦らず、ひと針ずつ縫った。
稽古と、看病と、それから祈りをひとまとめにしたような針仕事だった。
仕上げの糸留めの朝、わたしは糸切り鋏より先に新しい糸を針に通そうとして、それが一度ですっと通ったことに、あとから気がついた。
ピムが目を丸くして、それから大声でマーサさんを呼びに走った。
大袈裟よ、と笑いながら、わたしは通った糸をしばらくのあいだ見ていた。
戻ってきた。
全部ではない。
細工物の細かさは、まだ怖い。
ネルの体の根に挑める細かさには、まるで足りない。
そして、根は待ってはくれない。
検分のたび、髪一本分ずつ、あの子の深くへ潜っていく。
わたしの手の戻りと、根の深さの、静かな競争だった。
それでも、手は帰り道を覚えていてくれた。
毛布を掛けられたネルは、心なしか頬の色が戻って見えた。
(待っていてね。あなたの根をほどける手を、わたしは必ず取り戻す。取り戻して、あなたの肩にあんな糸を届けた流れごと堰き止めてみせるから)
そのための席が、競技会の先にある。
勝つ理由が、またひとつ増えた。
名前と、防波堤と、この子の眠りと。
本選を三日後に控えて、参加者に会場の下見が許された。
会場は王宮の東翼、硝子の間と呼ばれる大広間だった。
天井から壁まで一面の硝子張りで、庭園の緑ごしに光が降ってくる。
床は蜜色の寄木で、これから並ぶ二十三の作業台が、白い布を掛けられて式典の祭壇みたいに待っていた。
下見に来た参加者は思い思いに散って、天井を見上げる人、床を踏み鳴らして具合を確かめる人、早くも青い顔で祈っている人と、さまざまだった。
表通りの大工房の親方たちが、揃いの前掛けの職人を引き連れて歩いている。
どの人も、わたしは名前だけ知っていた。
あの人たちの仕事を、下縫いの九年でさんざん研究させてもらった。
今度は台を並べて戦う番だった。
針仕事は光がすべてだから、下見で確かめることは決まっていた。
自分の作業台の位置と、当日の刻限ごとの光の向きだ。
割り当てられた台は広間の東寄りで、午前は真横から強い光、午後は天井からの拡散光に変わる。
細かい刺繍は午前のうちに、組み立ては午後に回す。
頭の中の段取りが、光に合わせて組み変わっていく。
「熱心なこと」
声は背中から降ってきた。
振り向いて、息が半拍遅れた。
漆黒のドレスの老婦人が、供も連れずに立っていた。
審査の日、最奥の席で扇を止めた方だった。
白髪は今日も一分の隙なく結い上げられて、襟元で塔と針の徽章が光っている。
「王室縫製室で室長を務めます、オディールと申します」
老婦人は扇を胸の前で、音もなく畳んだ。
「競技会では審査の席に着きますので、以後お見知りおきを」
「……エルシー・メイフィールドと申します」
「存じていますとも」
存じています、の言い方が、名簿で読んだという意味ではない気がして、背中が冷えた。
オディールさまは、わたしの作業台に歩み寄ると、手袋を外した指先で台の木目を撫でた。
老いてなお美しい、針を持つ人の指だった。
「組合の審査を拝見しました。共糸のかけつぎは見事。呪いのない外套を、ないと言い切ったのも良い」
薄い灰色の目が、わたしの手もとに落ちた。
「針子は目と、それから正直さですからね。……ひとつ、伺っても?」
断る空気は、最初から用意されていなかった。
オディールさまは袖口から小さな布切れを取り出して、わたしの台に置いた。
掌ほどの古い絹で、隅に色の抜けかけた刺繍がひと模様、残っている。
「これを、どう視ます」
「……蔦紋の加護です。旅の無事を祈る、とても古い型です」
わたしは布切れに顔を近づけた。
「ただ、この糸の運びは今の教本と逆で……左から右へ、返しを先に置く癖があります。相当な、昔の手だと思います」
「五十年前の手ですよ。よく視えること」
扇が、ゆっくりと開かれた。
「では、あなたの糸を見せてくださいな。あの日の金を、もう一度」
命令の形はしていないのに、断り方の存在しない声だった。
わたしは針箱から針を出して、木綿糸を通して、胸の内でいつもの断りをひとつ入れた。
魔力を通した糸が、硝子ごしの光の中で金色に灯る。
扇が止まった。
あの日と同じだった。
オディールさまは驚かない。
ただ薄い灰色の目が、糸の一筋を飽きずに眺めている。
長い沈黙のあとで、その口元がほんのわずかに動いた。
「……懐かしい色」
聞き間違いかと思うほど、小さな声だった。
「あの、今、何と?」
「その糸、独学ではないでしょう。手ほどきは、どなたに?」
「……母に、習いました」
「そう」
オディールさまは扇を畳んで、初めて、糸ではなくわたしの顔を見た。
採寸の目ではなかった。
もっと古いものを、遠くから確かめる目だった。
「お母様は、良い針子だったのでしょうね。糸を見れば、分かります」
漆黒の裾が、音もなく翻る。
「良い糸は、良い手から。良い手は……良い血から出るものですよ」
それでは本選で、と言い残して、漆黒のドレスは硝子の間を去っていった。
わたしは針を持ったまま、しばらく動けなかった。
指先が冷えていた。
震えではない。
療治の甲斐あって、手はもう揺れていない。
これは手ではなくて、手に命じる側の冷えだった。
オディールさまと話していたあいだ、わたしはずっと、正しい答えを差し出し続けていた。
試問に正しく答える生徒のように。
断る道が最初から縫い潰されていて、気づけば言われるままに、この色を灯していた。
あの人の前では、わたしの強がりも、店の勘定台の作法も、寸法の合わない服みたいにまるで役に立たなかった。
懐かしい、と、オディールさまは言った。
金の糸を初めて見る人は、驚くか、疑うか、欲しがるかする。
懐かしがった人は、後にも先にもひとりもいなかった。
この色を知っているのは、家の外で出すなと言ったお母さまと、わたしだけのはずだった。
(あの人は……お母さまを、知っている?)
硝子の天井から降る光の中で、金の糸だけがまだ小さく灯っていた。




