第16話 裂け目の光
本選を明日に控えた日の夕方、わたしは作業場の壁に、下拵えの部品を並べて掛けていた。
刺繍の裏に引いた仕上げの糊は、ひと晩風に当てないと乾かない。
刺繍済みの部品は、全部で九枚ある。
夜の色の絹に星を散らした裾のパネルが三枚。
菫から薔薇色へ移ろう胴の帯が二枚。
夜明けの生成りの肩布が二枚と、袖口の細帯が一枚。
そして、金の糸の要のパネルが一枚。
夜と夜明けの境目に据える、このドレスの心臓だった。
いちばん先に仕上げた要のパネルと、袖口の細帯と、肩布の一枚は、もう糊が乾いて平箱に収めてある。
残りの六枚が、壁一面に朝焼けの順で並んでいた。
明日の朝、これを荷馬車で会場へ運んで、あとは当日の針が決める。
我ながら、悪くない眺めだった。
市場から戻ったピムが、その眺めの前で、開口一番に妙な話をした。
「なあ、メイフィールドのサロンがさ、人足を雇ったんだと。荷運びだって触れ込みで三人」
ピムは声を落として、親指で通りの方を示した。
「だけど八百屋のおやじが言うには、あいつら荷なんか一度も運んでねえって。人相も、堅気のそれじゃねえって」
針子の店が雇うべきは、針子の手のはずだった。
荒事の手を雇う仕立て屋がいるとしたら、その手の使い道は布を縫うことではない。
ここ数日、店じまいのあとの通りに、視線のようなものを感じることが増えていた。
気のせいだと思うことにしていたけれど、気のせいでないなら、狙いはたぶん明日の朝だと思った。
荷を会場へ運び出す、その道中だろう。
だからわたしは、算段をした。
明日の搬送は夜明け前に前倒しして、道順は表通りではなく、人目の多い市場を抜ける。
(マーサさんに荷車の伴走を頼んで、念のためカイウスさまに文を届けようか……)
ペンに手を掛けて、夜更けの鐘を数えて、やめた。
もう夜だった。
大袈裟かもしれない噂ひとつで、夜中に大公家を騒がせるのも気が引けた。
文は明日の朝いちばんに出せばいい。
(読みが、甘かった)
あとから思えば、そういうことだった。
敵はわたしの明日ではなく、今夜を狙っていた。
その夜、わたしは二階でネルの毛布を掛け直してから、明日の段取りを頭の中でさらっていた。
菫の糸の花畑の上で、少女の寝息は静かだった。
生地の荷は、階下の裁ち台に朝を待つばかりに積んである。
角灯を細くして、寝床に入りかけた、そのときだった。
階下で、硝子の割れる音がした。
最初に思ったのは、ネルを起こさないように、ということだった。
次の瞬間には、階段の上に立っていた。
そこで足が、一瞬だけ竦んだ。
下には賊がいる。
上には、動けない子供が眠っている。
わたしが下りて騒げば、賊が上がってくるかもしれない。
でも黙って見ていれば、階下のあれが全部やられてしまう。
息をひとつ呑む間に決めた。
上がらせなければいい。
階段は、わたしの背中の後ろにある。
ここを通る者は、誰であろうと通さない。
わたしは階段を半分駆け下りて、そこで見た。
作業場の窓が破られて、風にあおられた角灯の火が壁で揺れて、その明かりの中で、布を裂く音がしていた。
人影は三つあった。
顔に布を巻いて、手には抜き身の短刀を握っている。
裁ち台の上の絹が、油の壺をぶちまけられて、刃で裂かれていく。
壁の部品も、一枚ずつ引き剥がされては裂かれていった。
手際は、憎らしいほど無駄がなかった。
生地の巻きの芯まで油が染みるように壺を回し、継げないように裂き目を斜めに入れる。
布の殺し方を知っている手だった。
男のひとりが、棚の平箱に手を伸ばした。
「やめろ!」
叫んだのは、わたしではなかった。
店の隅の小部屋から小さな影が飛び出して、平箱に体ごと覆いかぶさる。
ピムだった。
金の要のパネルを仕舞った、あの平箱だ。
どけ、と怒鳴る声。
どくもんか、と噛みつく声。
男の蹴りが小さな体に入って、それでもピムは箱を離さなかった。
棚に叩きつけられて、木箱の角と一緒に床へ転がって、その上に棚の生地の巻きが崩れ落ちる。
わたしは階段脇の棚から裁ち鋏を掴んで、段の上から声の限りに叫んだ。
泥棒、火事、人殺し。
夜の職人街に効く言葉を、知っている順に全部。
声は通りに響いて、向かいで犬が吠え、二軒先の窓に灯りが点き、三軒先の扉が開く音がした。
男たちは目配せひとつで身を翻して、破った窓から夜へ消えた。
最初から、長居をする気はなかったのだと思う。
壊すだけなら、時間はかからない。
「ピム! しっかりして、ピム!」
抱き起こした体は、油と埃にまみれていた。
額が切れて、左腕を庇うように抱え込んで、それでも両手は、平箱をしっかりと胸に抱いたままだった。
「はこ……守った、ぜ。金のやつ、無事、だろ」
「馬鹿ね、あなたの体のほうが大事に決まってるでしょう……!」
「へへ。だって、おれ……弟子だし」
通りは、あっという間に人でいっぱいになった。
夜着の上に外套を引っかけたマーサさんが医者を呼びに走り、靴屋のご主人が金槌を提げたまま通りの端まで検分に行き、家具職人の奥さんが二階のネルの無事を確かめてくれた。
職人街の夜は蜂の巣をつついたようになって、けれど誰ひとり、明日は本選だろうに、とわたしを憐れむ顔をしなかった。
それが、ありがたかった。
お医者さまの見立てでは、額の傷は浅く、左腕は折れてはいないが酷い打撲で、肋にもひびが入っているという。
命に関わるものはない、と聞いて、膝から力が抜けた。
ピムは店の小部屋の寝床で、痛み止めの薬湯を飲まされながら、悔しい悔しいと泣いた。
「あいつら、布ばっか狙いやがった。おれのことなんか、蹴飛ばして終わりだ」
濡れた声が、毛布の下でくぐもった。
「布のほうが、おれより値打ちがあるって顔してた」
「布の値打ちの分かる悪党だったのよ。……あなたの値打ちの分からない、大馬鹿の」
泣きながら、ピムは箱だけは枕元から離さなかった。
夜半、静かになった作業場で、わたしは被害を数えた。
護衛を置くという話は、実のところ、前からあった。
競技会の一件が動き出した頃、カイウスさまが二度、遠回しに申し出てくださって、二度ともわたしが断った。
大公家の兵が出入りする店に、下町のお客さまは来づらくなる。
それに、自分の店は自分で守るものだと思っていた。
その考えは今も間違いだと思わない。
思わないけれど、小部屋で眠る弟子の額の軟膏を思うと、正しさというものの値段について、考えずにはいられなかった。
守るものが増えた店の主には、意地の張り方にも、仕立て直しが要るのかもしれない。
夜の色の絹、全滅。
夜明けの色の絹、全滅。
裏地も芯地も油を吸って、使いものにならない。
壁の部品は六枚とも、裂かれるか油に沈むかした。
無事なのは、ピムが守った平箱の三枚だけだった。
金の要のパネルと、袖口の細帯と、生成りの肩布が一枚。
わたしは裂かれた星のパネルを一枚拾い上げて、油の染みた裂け目を、指でそっと合わせてみた。
(合わない)
斜めの裂き目は、かけつぎも利かない。
ごめんね、と布に詫びてから畳みかけたところで、手が止まった。
角灯の細い火が、裂け目の縁を照らしていた。
油を吸った絹は深く沈んで、裂け目の際だけが、光を返して鈍く輝いている。
深い闇に、亀裂の光が走っていた。
(……夜だわ)
わたしが半月かけて縫った夜より、ずっと、本物の夜がそこにあった。
星を散らした綺麗な夜ではない。
裂かれて、それでも明けるのをやめない夜だった。
(雨の夜に家を追われた針子が、それでも朝を迎えた話。……そうよ。あの夜は、こんなに綺麗じゃなかった)
職人が布に詫びる夜なんて、一生に何度もあるものではない。
でも詫びたその布が、答えを返してくる夜は、もっとない。
証拠は何もなかった。
顔は見ていない。
名乗る泥棒はいない。
人足の噂と、狙いすました夜と、布だけを狙った刃の的確さ。
それだけだった。
訴え出たところで、紙の上ではまた、何者かの仕業、で終わる。
(諦めさせたいのね、お義姉さま。刃物と油で、わたしの明日を裂けると思ったのね)
怒りは、不思議と静かだった。
頭の芯が冷えて、冴えていくのが分かった。
わたしは散らばった生地の残骸をまたいで、作業台の前に立った。
泣くのは、この前あの方の前で済ませてある。
今夜やることは、泣くことではなかった。
(数えるのよ。失くしたものじゃなく、残っているものを)
無事な刺繍部品、三枚。
針箱と、お母さまの銀の鋏。
裂かれた夜の絹の、あの裂け目の光。
図案は全部、頭の中にある。
わたしの手は、戻ってきている。
ピムは生きていて、ネルは眠っていて、毛布は温かい。
それから、この職人街には、今夜の物音に灯りを点けてくれた窓がいくつもあった。
柱の時計を見上げる。
本選の開幕は、明日の朝、九の鐘だ。
硝子の間の光は、午前は東から射す。
残された時間は、一晩だった。




