第17話 一枚の夜明け
夜半の鐘が鳴る前に、店の表がまた騒がしくなった。
今度の物音は、硝子の割れる音ではなかった。
荷車の車輪と、いくつもの足音と、それからマーサさんの遠慮のかけらもない声だった。
「エルシー! 開けとくれ! 生地を持ってきたよ!」
扉を開けると、通りに人が立っていた。
荷車いっぱいの生地の巻きを引いたマーサさんに、道具箱を担いだ靴屋のご主人、針箱を抱えた家具職人の奥さん、大きなアイロンを二つぶら下げた洗濯屋のおかみさんまでいる。
夜着の上にガウンを引っかけただけの人たちが、寝癖のまま店の前にずらりと並んでいた。
「あの、みなさん? こんな夜中に──」
「職人街の恥なんだよ」
マーサさんが荷車から生地を下ろしながら言った。
「うちの街に来た職人の店が荒らされて、明日の勝負を諦めさせられて、それを黙って見てたとあっちゃあね。布なら倉にあるだけ持ってきた。足りない手も連れてきた」
生地の巻きをひと抱え、わたしの腕に押しつけて、マーサさんはにっと笑った。
「……本物の針子が来たって言い触らしたのはあたしなんだから、最後まで責任は取らせてもらうよ」
喉の奥が熱くなるのを、奥歯で噛んで止めた。
泣いている時間も、今夜はない。
わたしは頭を下げて、それから作業場に生地を広げてもらって、すぐに困りごとに突き当たった。
マーサさんの倉の絹は上物だけれど、ひと巻きずつ色も質感も違う。
夜会装一式を仕立て切れる長さの布は、どのひと巻きにもなかった。
(一色では、足りない。……一色で、なくていいなら?)
頭の中で、裂かれた図案が音を立てて組み変わった。
「マーサさん。この絹を全部使います。濃い藍から、菫、薔薇色、金茶、生成りまで……色の順に、並べてください」
「並べて、どうするんだい?」
「接ぎます。夜明けの空は、一色じゃありませんから」
深い夜の色を裾に置いて、裾から胸へ昇るほど空が白んでいく、接ぎ合わせのドレスにする。
ひと巻きの絹では誰にも作れない、けれど十巻きの端があるなら作れる衣装だった。
生地商のマーサさんの目が、みるみる本気になる。
色の格付けなら生地屋の独壇場だよ、と生地の海に腕まくりで踏み込んでいった。
格付けは見事なものだった。
マーサさんは隣の工房から借りてきた長机を二台つないで、その上に絹を次々と広げていった。
藍と藍のあいだに紫紺を差し、菫の隣に、ひと巻きだけ灰味の勝った紫を置く。
「これが雲だよ」
皺だらけの指が、その巻きを軽く叩いた。
「夜明けの空には雲がいる。晴れ渡った夜明けより、雲を染めて明ける空のほうが、ずっと豪華なんだ」
五十年、生地を見てきた人の言うことだった。
長机いっぱいに、布の夜明けが横たわっていく。
わたしは裁ち鋏を握って、その空をドレスの形に切り出す係だった。
途中、トムじいさんが教えてくれた、あの安宿のおかみさんまで大鍋を抱えて現れた。
「トムの知り合いの嬢ちゃんだろ、噂は聞いてるよ」と言って、湯気の立つ麦の粥を人数分よそってくれた。
夜なべ仕事は腹が減っては戦にならない、というのが宿のおかみさんの持論で、その粥のおかげで、みんなの針は夜半を越えても鈍らなかった。
段取りは、頭より先に口が組んでいた。
裁ちは、わたしが受け持つ。
直線の縫いは、家具職人の奥さんと針自慢のおかみさんたちに頼んだ。
靴は靴屋のご主人が、手持ちの型から夜明け色に染めた革で作ってくれる。
ピムは寝ていなさいと言ったのに、利く方の右手で針山を抱えて、糸通しなら片手でできる、と譲らなかった。
額に軟膏を光らせた弟子が一本通すたび、誰かの針が止まらずに済む。
夜更けに、裏口が控えめに叩かれた。
騒ぎのあと、わたしが一行だけ書いて走らせた文を受けて、カイウスさまが駆けつけたのだった。
カイウスさまは着くなり、護衛の配置に飛び回った。
その後ろから、フードの似合わない背の高い方が作業場を見回して、一言、俺にできることは、と仰った。
カイウスさまは配置を終えて戻ると、片眼鏡を光らせて、わたしに一礼だけした。
「今夜より、この通りに人を置きます。二度と、断らせません」
「……お客さまが来づらくなります、と申し上げたら」
「兵服は着せません」
片眼鏡の奥の目が、一瞬だけ、拗ねた子供みたいになった。
「それと、これは殿下のご命令ではなく、わたしの独断です。文句は縫い上がってから伺います」
四角四面の人の、精一杯の啖呵だった。
文句は言わないことにした。
職人街の人たちは、上等な外套のフードのお人が誰なのか、たぶん半分察して、誰も詮索しなかった。
詮索しないのが、この街の作法だった。
「では、アイロンをお願いします。縫い代を割って、平らに。力と根気だけの、いちばん大事な仕事です」
王国の大公殿下が、その夜は夜明けまでアイロンを握った。
外套を脱ぎ、詰襟の袖を几帳面に折り返して、火の加減を確かめてから布に当てる。
三年、人前で手首ひとつ見せたことのない方が、黒手袋の上まで袖を折り返しているのを、わたしは裁ちの合間に一度だけ盗み見た。
洗濯屋のおかみさんに筋がいいと褒められて、生真面目に頷いていらした。
夜が深まるほど、作業場は静かに熱くなった。
裁ち鋏の音と、十本の針の音と、アイロンの湯気と、ピムの糸通しが、部屋を満たしていた。
誰も無駄口を叩かないのに、部屋中が会話をしているみたいだった。
縫い上がった帯が、わたしの台に回ってくる。
検分して、次の部品を回す。
三十分ごとに、ドレスは目に見えて空に近づいていった。
わたしは要の金のパネルを胸元に据えて、裂かれた六枚分の刺繍を、縮めた図案で縫い直していく。
九枚の意匠をそのまま追えば、夜が三つあっても足りない。
だから減らした。
星は数を三分の一にして、その分、一粒を大きく明るくする。
刺繍は減らして、接ぎの色に語らせる。
そして裾の藍の接ぎ目には、細い銀の糸で、斜めに走る光の筋を縫い込んだ。
昨夜、裂かれた絹の縁に見た、あの裂け目の光だった。
星を散らした綺麗な夜ではなく、裂かれても明けるのをやめない夜を、わたしは裾に縫った。
足し算の贅沢ができないなら、引き算の贅沢をすればいい。
手は震えなかった。
震える暇を、この夜は許してくれなかった。
夜明けの少し前、縫いの手がいったん途切れて、おかみさんたちが壁際で舟を漕ぎ始めた。
マーサさんは色合わせの最終確認に倉へ戻り、カイウスさまは護衛の見回りに出た。
ピムは針山を抱いたまま、小部屋で眠ってしまっている。
作業場には、アイロンを置いたあの方と、ボタン付けの残りをするわたしだけになった。
「……妙な夜だ」
あの方は作業場の隅の椅子で、先日納めたばかりの外套の襟元に手をやった。
「三年、どんな服を着ても、肌が焼けるようだった。呪いの根は、他人の手の魔力の残りに障る。仕立てのいい服ほど、作り手の念が濃くて、痛んだ」
黒手袋の指が、襟の合わせを確かめるようにひと撫でした。
「だから詰襟と手袋で、痛みごと塞いで生きてきたが──」
薄青の目が外套の袖を、それからわたしを見た。
「おまえの縫った服だけは、痛くないんだ」
針が止まった。
「初めて袖を通した夜、眠れたよ。服を着たまま眠れたのは、三年ぶりだった。……礼を言うのが遅れた。あの雨の路地の礼も、まだ半分しか言えていない気がする」
「お代は頂きましたので」
「そういう話ではないと分かっていて言うのだろう、おまえは」
あの方は立ち上がって、わたしの作業台の、いつもの距離まで来た。
触れない、指一本分の距離だった。
夜通しのアイロンがけで、黒手袋にうっすらと湯気の匂いが染みていた。
「呪いがほどけたら──」
言いかけて、あの方は言葉を仕舞った。
仕舞って、代わりに、窓の外の白み始めた空を顎で示した。
「勝って来い。度胸の据わった、王都一の針子が俺の針子だと、王都中に教えてやれ」
俺の針子、という言い方を、聞き流せるほど器用な耳をわたしは持っていなかった。
返事の代わりに最後のボタンの糸を留めて、糸切り鋏を鳴らす。
胸の奥で、勝つ理由がまたひとつ静かに増えていた。
名前と、防波堤と、ネルの眠りと、それから──。
(この人の三年に、痛くない朝を返すためにも)
東の窓から、最初の光が入った。
仮組みを終えたばかりのドレスが、トルソーの上で夜明けを浴びた。
本縫いの仕上げは、規定どおり会場で行う。
それでも躾糸で形になったドレスは、もう充分にドレスだった。
裾の藍は夜の名残りのまま、斜めに走る銀の亀裂から光を漏らしている。
胸へ昇るほど、菫が薔薇に、薔薇が金茶に変わっていく。
金茶が生成りの光に解けて、胸元の金の刺繍が、本物の朝日と同じ色で灯る。
十巻きの端切れは、もうどこにも見えなかった。
そこにあるのは、職人街の夜がまるごと縫い込まれた、一枚の夜明けだった。
起き出したおかみさんたちが歓声を上げ、ピムが口笛を吹きそこねて肋を押さえ、マーサさんが倉から戻って、腰に手を当てて笑った。
そのとき、朝の空気を渡って、王宮の方角から鐘が響いた。
本選の朝を告げる、最初の鐘だった。
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