第18話 手の署名
硝子の間は、朝の光と人いきれで満ちていた。
作業台は、二十と三つ並んでいた。
王都中から集まった仕立ての腕自慢が、それぞれの持ち込みの荷を解いていく。
うちの荷を運び込んだのは、徹夜明けの顔ぶれだった。
金の要のパネルの平箱だけは、ピムが利く方の腕で抱えて、誰にも触らせなかった。
弟子は箱をわたしに引き渡すとき、行ってこい、とだけ言った。
(師匠に向かって、行ってこいって……ふふっ)
生意気の仕上がりも、まずまずだった。
観覧席には貴族と職人がひしめいて、最前列にはソランジュ侯爵夫人が、約束どおりの装いで扇を揺らしていた。
職人席にはマーサさんとおかみさんたちが、夜なべの目のまま陣取っている。
審査席は五つあった。
その中央に、漆黒のドレスのオディールさまが座っている。
そして観覧席の貴賓の並びに、今日はフードのない素顔の大公殿下がいた。
三年、公の場に出なかった方の臨席に、広間は朝からずっとざわめいている。
当の本人は素知らぬ顔で、開始の鐘と同時に、わたしの台だけを見た。
わたしは荷を解いて、仮組みのドレスをトルソーに立てた。
刻限は、夕方の鐘までだ。
段取りは、下見のとおりに組んである。
午前の東からの強い光のうちに、細かい刺繍の縫い直しと、要の周りの飾りを済ませる。
光が天井からの拡散に変わる午後は、躾糸を抜きながらの本縫いと組み立てに回す。
袖を付け、裾を納め、最後に金の要のパネルを胸元に据える。
やることは山ほどあって、だから最初の三十分は、隣の列の歓声に気づくのが遅れた。
義姉の台の上に、ドレスが組み上がりつつあった。
濃い紫の絹に、流星の刺繍を肩から裾へ流した夜会装だった。
助手をふたり付けて、義姉は指示だけを出している。
観覧席がため息をつくのも無理はない、堂々たる意匠だった。
堂々たる、はずだった。
わたしの指が、勝手に冷えた。
(あれは……わたしの、十八の年の図案)
屋根裏の図案帳の、確か四十二枚目に描いたものだ。
いつか腕が追いついたら縫おうと決めて、描いたまま置いてきた一枚だった。
(覚えているわ)
あれを引いたのは、義姉の夜会服を三着続けて仕上げた冬だった。
指がささくれて、それでも眠る前に、自分のための図案を一枚だけ引くのが、あの頃のわたしの灯りだった。
星の流れの角度も、裾の引きの長さも、寸分違わずあのままだった。
いつか、のための一枚だった。
置いてきた在庫を、義姉は競技会の勝負服に仕立ててきたのだった。
揺れたのは、一瞬だった。
義姉の台の上のあれは、確かにわたしの図案で、そして、もうわたしの勝負服ではない。
わたしの今日の一着は、昨夜、職人街と縫った。
十八のわたしには引けなかった図案だった。
盗まれたのは過去の頁で、今日の頁は誰の手にも渡っていない。
わたしは自分の台に目を戻した。
昼の鐘のあと、審査員の巡回が始まった。
オディールさまが各台を回って、義姉の台の前で足を止め、それから何も言わずに次へ進む。
わたしの台の前でも、止まって、接ぎの色の並びを一瞥して、何も言わなかった。
扇だけが、ゆっくりと動いていた。
仕掛けてきたのは、日が傾き始めた頃だった。
「審査員のみなさまに、申し上げたいことがございますの」
義姉の声が、広間によく通った。
仕上げを助手に任せて、義姉はわたしの台を扇で示した。
「その方の刺繍、みなさまどこかでご覧になった気がしませんこと? 色の運び、光の含ませ方……メイフィールドの作風ですわ」
広間のざわめきが、義姉の扇の先へ吸い寄せられていく。
義姉は悲しげに睫毛を伏せて、声を一段、湿らせた。
「当家で下働きをしていた妹が、見様見真似で家の意匠を持ち出したのだとしたら、わたくし、悲しくて。競技会の名誉のためにも、模造の疑いは検めていただきたいの」
広間がざわりと揺れた。
来た、と思った。
逃げれば模造品と言い触らす。
あの日の宣言を、義姉は一番効く舞台で実行に移したのだった。
観覧席の視線が針の筵になる。
審査席が顔を見合わせる。
貴賓席のあの方だけは、さっきと同じ顔で、わたしの台を見ていた。
疑う顔ではなかった。
わたしは針を置いて、頭を下げた。
「検めていただくのは、望むところです。ただ、図案の似姿は、目で見ても水掛け論にしかなりません」
顔を上げて、審査席をまっすぐに見る。
「ですから──縫い目を、検めていただけませんか」
「縫い目を、とは」
審査員のひとりが身を乗り出す。
わたしは息をひとつ整えた。
ここからは、義姉が店に宣戦布告に来た日から、ソランジュ夫人と仕込んであった、わたしの返し縫いだった。
「型は写せます。図案は盗めます。でも針の癖だけは、その人の手にしか宿りません。玉留めの形、返しの重ね、裏の始末。筆跡と同じです」
わたしは最前列へ目を向けた。
「……夫人、お願いできますか」
最前列で、ソランジュ夫人が待ってましたとばかりに立ち上がった。
纏っているのは今日のための新調ではなく、五年前の社交界で伝説になった、メイフィールドのサロンの最高傑作と呼ばれる濡羽色のドレスだった。
「五年前、わたくしが誂えたメイフィールドの品ですわ。当時の社交界で、これを知らぬ者はおりませんでしたでしょう」
夫人は濡羽色の裾を、扇の先でひらりと返してみせた。
「……さあ、裏をどうぞ。針の癖とやら、存分にお検めになって」
審査員たちが、夫人のドレスの裏の始末を検分する。
次に、義姉の台の紫のドレスの縫い目を検分し、最後にわたしの台の、夜明けのドレスの縫い目を検分した。
拡大鏡が三つ、裏地の上を這っていく。
玉留めの渦がどちらに巻くか。
返しを何目で重ねるか。
糸の始末を布のどちら側に逃がすか。
針を持つ者なら誰でも持っていて、誰ひとり自分では選べない、手の署名だった。
専門家の検分に、時間はかからなかった。
年かさの審査員が、困惑を隠さない声で言った。
「……五年前のこの名品と、今日のメイフィールド嬢の作の縫い目は、まるで別人の手だ。玉留めも、返しの癖も、何ひとつ一致せん」
審査員は拡大鏡を置いて、広間を見回した。
「そして……五年前のこの針の癖は、そこの、夜明けの接ぎのドレスと同じ手だ。年の分だけ癖は太っているが、根は寸分違わん」
広間が、今日いちばん大きくどよめいた。
わたしは何も付け足さなかった。
あのドレスを縫ったのはわたしです、と言う必要は、もうなかった。
五年前の濡羽色も、王女殿下の朝露も、サロンの栄光も、誰の手が縫ったのか。
針は嘘をつかない。
言い立てる代わりに、わたしは義姉に向かって、店の勘定台でするのと同じお辞儀をひとつした。
義姉の顔から、完璧な微笑みが初めて剥がれ落ちていた。
血の気の引いた白い顔で、義姉は夫人のドレスとわたしとを見比べて、唇だけが、『お前、最初から』と動いた。
(ええ、お義姉さま。そうよ。逃げるなと仰ったのは、あなたですもの)
「静粛に。……刻限まで、あと三十分。各自、仕上げに戻りなさい」
オディールさまの声が、ざわめきを一枚の布みたいに畳んだ。
最後の三十分で、わたしは金の要のパネルを胸元に縫い付けた。
広間はまだざわめきの余熱の中にあったけれど、針を持てば、いつもの静けさが指先から広がった。
夜と夜明けの境目に、心臓を据える。
職人街の十巻きの夜明けに、最後のひと針で魔力を通す。
この一針には、昨夜のみんなの針も、あの方が夜明けまで握ったアイロンの湯気も、麦の粥も、行ってこいの声も、全部通っている。
躾糸の最後の一本を抜き、糸切り鋏を鳴らして、わたしはトルソーごと審査席の前へドレスを進めた。
広間が、一拍だけ、静まった。
硝子の天井から、夕暮れ前の光が落ちた。
その光を受けて、胸元から裾へ、金の糸が一斉に灯った。
刺繍のひと筋ひと筋が朝日の色に発光して、接ぎの藍を、菫を、薔薇色を、内側から夜明けに変えていく。
裾に走らせた銀の亀裂が、その金を映して、夜を裂く朝の筋になった。
広間の歓声が音の壁になって、拍手が鳴り止まなくなって、その真ん中で、審査席の中央の人が立ち上がった。
オディールさまは、拍手をしていなかった。
扇も持っていなかった。
ただ立ち上がったまま、金色に灯るドレスを、遠い日の何かを見る目で、身じろぎもせずに見つめていた。




