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セカイはラブソングでできている。  作者: 光 花貴
ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームズ 
3/7

2


 腸(はらわた)が煮え繰返る、それほどまでに憤っているのはいつ已来だろうか。まるで児童虐待の現場を目睹した気分だ。

 鳩尾の辺りで起こる不規則な震えが、血潮に乗って総身へと伝播していく感覚。それは指尖や頭頂といった末端部にまで迅速に到達し、そこで密度の高い泥のように溜まっていく。硬化の兆候は一切なく、恰も足のない無数の虫が這うみたいだ。原始的本能の押し合い圧し合い。強固なデッドロック、ひたぶる歪(・)み(・)の(・)蓄(・)積(・)。

 その波及の道程において、とりわけ歯茎への影響は顕著だ。サイズの異なる他人のものと挿替えられたように、ごわごわとして気色が悪い。やがてぐらぐらと浮いた歯間から、まさに毒虫のような苦味が溢出る。それは僕の思考に余すことなく作用し、びりびりと止処ない痺れをもたらす。


 そして、総ては唐突に臨界を迎える。



 その僕の有様を見て、粗方の人間はこう口にするのだろう。


 たかが小説じゃないか。


 イ(・)グ(・)ザ(・)ク(・)ト(・)リ(・)ー(・)。たかだか小説の総括に納得ができなかっただけのことだ。

 現実と創作の区別くらいしっかりとつけないと、いつまでも子どもではいられないんだから、その思考は実にクリミナルだよ、と彼(・)ら(・)はシニカルな言葉も添えてくる。こちらからアドバイスを求めている訳でもないのに。


 彼らは我々に対して、一抹の憂慮も持合わせてはいない。そして、天地が反転しても、それを獲得するようなことは有得ない。では、何故そのようにして関わりを図ろうとしてくるのか。ストレスの解消のため、あるいは、犯罪者予備軍の看視のため、いや、実際はそのどちらでもない。

 彼らの真意は、他者を利用した猥雑な自己正当化にある。自身の感受性が道端に落下した果物のように弾力を失い、萎み、無数の穴が穿たれていく過程をうまく感情として処理できないから、それが現代人の正しい道(・)理(・)なのだと、こちらの瞳に映る自分自身を説伏せたいだけなのだ。


 目玉を舐(ねぶ)られるみたいに不愉快な遣口だ。


 自己正当化なぞ文字通り、自己の内のみで完結させて欲しい。とやかくそれらしいことを宣わないでくれ。僕を利用するな。そ(・)も(・)そ(・)も(・)、僕(・)を(・)見(・)つ(・)け(・)る(・)な(・)。それこそ、ここから母のいるところまで、はっきりと聞こえるくらいの声量で、「くそったれぇい!」と吐捨ててやりたい。僕がパンクロックバンドの「Green Day」から学んだスタンスの1つである。


 まぁ、現実にそれを実行する勇気はないのだけれど。


 僕は口腔に溜まっていた唾を飲んだ。液体のはずなのに、まるで砂粒みたいにザラザラとした不快感があった。



 そのた(・)か(・)が(・)小(・)説(・)について、僕はこれから語らなければならない。勿論そうしないことには、何故僕がこれほどまでに狼狽し激昂しているのか、君に精確に伝わらないからだ。

 ただし、それは目的としてはむしろ副次的だ。真意は別にある、彼らと同じように。でも、安心して欲しい。僕は何も、君自身の性質を利用したい訳ではない。正直に述べると、知りたくないのだ。男性だとか女性だとかセクシュアルマイノリティだとか、年齢や出自や宗教すらも。それは君に対する好悪の問題ではない。君の性質に感応して、僕の語口(かたりくち)が何かしらの変容を来してしまうのは、僕の望むところではないからだ。僕が君に求めているのは中立で無性で、匿(・)名(・)的(・)な(・)聞(・)き(・)手(・)であること。それ以上は望まない。それ以上はないのだ。

 しかし、これまでのペシミスティックな言葉の釣瓶(つるべ)打ちに、君は「Radiohead」のドキュメンタリーを観た直後のように辟易していると思う。けして良い気分にはなっていないことは僕にだって分かる。醜怪なこと此上ない。文章を紡ぐというのは、本来は掛値なしに素晴らしいことのはずなのに。自身の尺度のみを持出して、様々な意味づけを為せることの妙。その了解の共有をなおざりにすることは挨拶を省くことに等しい。実に不躾だ。

 ただそれでも、君が「もうちょっと付き合ってやるよ、く(・)そ(・)や(・)ろ(・)う(・)」と酔狂な姿勢を保持してくれているのなら、僕はその真意について開示したい。

 それはつまり、「他者を意識して語ること」の本旨についてだ。


 僕はこれから、血(・)を(・)流(・)さ(・)な(・)く(・)て(・)は(・)な(・)ら(・)な(・)い(・)のだ。赤く温かく、鉄臭く粘度の高い、生命に欠かせない液体を。

 勿論それは実際にではなく、あくまでもメタファーとして。これまで数多の作家——あるいは、経典——が、『血を流さない赦しはない』と記してきたように。

 では、その赦しは誰に乞うものなのか。世界や構造に対してか。否だ。具体的な赦しが現実にないことは分かっている。となると、両親か。否だ。肉親からのさ(・)さ(・)や(・)か(・)な(・)赦(・)し(・)を受け取る資格を僕は有していない。あるいは、君だろうか。もちろん否だ。聞いていてくれるだけでいい。言葉はいらない。

 答(こたえ)は僕だ。僕は僕自身を赦すために、自身の血が必要なのだ。自身の血潮に含まれる熱く滾る負の情念をとり除くために。そうしなければ、また大切な人たちをひどく傷つけてしまうことになるから。

 ただし、それは刹那的で、気休めの対応に過ぎない。喘息の患者が発作の度にメプチンを吸入するように。実のところ、一段と効果的で根本的で、直截的な解決手段がある。それは速やかに土の中で眠りにつき、この肉体と魂を、本物の血液を、この星に返上することだ。生命という便宜的な地上の立位置から、すっぱりと降りてしまえばよいのだ。そこに寓意性や暗喩性も、過去の大政奉還のような厳かさも必要ない。ただ静かに、この地上から去ればいい。扉をそっと閉じるように。マッチの火に息を吹掛けて消すみたいに。孤(・)独(・)の(・)地(・)平(・)線(・)の(・)先(・)へ、冷(・)た(・)い(・)泥(・)に(・)還(・)る(・)のだ。それがまともな筋であり、バ(・)ス(・)ケ(・)ッ(・)ト(・)・ケ(・)ー(・)ス(・)の道理に則った総括なのだ。


 しかし、僕がその手段に帰結を観ることを望まない人たちがいる。大切な人たちは僕に、生きているだけでいい、と言ってくれている。これまで幾度も失望させて、損なわせてきても尚、側から離れないでいてくれる。居場所を与えてくれる。僕に傷つけられるより僕を失う方が辛い、といってくれている。

 少なくとも、ささやかな赦しは既に提示されているのだ。ただ、僕の損なわれた両手ではそれを受止めることが能わず、その悉くが地面へと落下してしまう。そして、踏みつけてしまう。大切な人たちの目の前で。時折ぐりぐりと圧を掛けてしまうことだってある。しかし、それだけが、僕が大切な人たちに見せることのできる「生きている」なのだ。血が滾っていると、それすらもできなくなってしまう。

 だから、僕は語らなければならない。血を流さなくてはならない。僕が呼吸するために、食べるために、ベッドの上で眠るために。生きるために。贖罪のために。




 けして遠くはない未来、時間がその大切な人たちを一縷の例外もなく連れ去ってしまった時、僕は(も)じたばたせずに星に還る選択ができるのだろうか。




 この小説を手にした切っ掛けは、第一に第1巻の表紙イラストに心惹かれたからだ。白い背景に冒険者風の出立ちをした少年と少女が、愉しげにこ(・)ち(・)ら(・)を見ている。アニメ調を基礎としているが、デフォルメーションの控えめな大人しい絵柄だ。こちらから見て左側にいる少年は1歩下がって腰に右手を当てていて(腰の反対側に剣を携えている)、右側にいる少女は歯を見せながら左手を振っている。まるで自分たちの読者がどのような人柄なのか、矢も盾も堪らず見に来てしまったみたいに。そんな素敵な印象を与えてくれるイラストだった。

 2人は物語の主人公とヒロインだ。構図は月並みで目新しさは皆無だけれど、描込みが丁寧でナチュラルな人間の美しさを表現できている。ヒ(・)ロ(・)イ(・)ン(・)の(・)性(・)的(・)な(・)誇(・)張(・)も(・)あ(・)ま(・)り(・)感(・)じ(・)ず(・)、観(・)て(・)い(・)て(・)至(・)極(・)安(・)心(・)で(・)き(・)る(・)。まるでモネの「ラ・ジャポネーズ」みたいだ。いや、総体的な描画のスタイルとしても、モネの影響を色濃く受けていると断言していいかもしれない。挿絵で数多表現してきた背景の描法に、それが如実に表れている。水と植物の処理の仕方が特別印象的だった。


 勿論、そ(・)う(・)い(・)っ(・)た(・)表(・)現(・)もこの世界には不可欠だ。僕自身に興味や嗜好がまるでないともいわない。豊満な乳房や臀部、またはその反対、扇情的な仕草に衣装、ボディラインやポージングやシチュエーション。それらを思いのままに創作し、また鑑賞することをとり上げる権利なんて誰も持合わせていない。民主主義社会の健全な運営において、それらの自由はサ(・)ン(・)ク(・)チ(・)ュ(・)ア(・)リ(・)として機能させなければならないからだ(実際の民主主義が健全にとり行われているかは別として)。

 僕は学問としてそれを理解しているし、国賓の如く推重もしている。それらの自由表現が禁制された世界。それは往年のデ(・)ィ(・)ス(・)ト(・)ピ(・)ア(・)作品も斯くありき、という情勢に相違ない。

 創作と鑑賞の自由だけに飽足らない。法(・)律(・)の名の下に数多の自由が芋蔓式に制約を受けて、終いには基本的人権までも仮借(かしゃく)なしに鏖殺される。憲(・)法(・)からもいつとはなしに、その文言が削除されている徹底ぶりだ(恐らくは改憲当初の為政者は、当然だから省略しました、なんて屁理屈を捏ねるのだろう)。社会の富と性を一部の人間が壟断し、我々はその基盤を維持するための機構としてのみ生存を許される。そして、白と黒と灰色と、ガス室のように冷え冷えとして角張った造形の内に押込められる。その窮屈でべ(・)こ(・)べ(・)こ(・)とした立方体の内においては、様々な平等が実現されるのだろう。しかし、それにどれほどの意義があるというのか? まるで働蟻にも劣る存在だ。夢を見ることも、物語に想いを馳せることも許されない。

 『1984』や『未来世紀ブラジル』、『時計じかけのオレンジ』を、ただのSFだと一笑に附すなんて言語道断なのだ。ゴ(・)ッ(・)ド(・)・セ(・)イ(・)ヴ(・)・ザ(・)・ク(・)イ(・)ー(・)ン(・)。


 現実は、創作よりも遥かに脆くできている。そして、法律はけっして、弱(・)者(・)の(・)味(・)方(・)で(・)は(・)な(・)い(・)。

 何かを思いのままに創り出す自由、『表現の自由』。それは豊かな社会と生を皆が謳歌するために、除いてはならない肝腎な理念の1つなのだ。


 それでも、言葉で説明することができても尚、僕はそういった表現を目の当たりにするのを嫌っている。生理的に、忌避している。それは苦手だとか不得手だとか、そんな生易しい感情ではない。もはや憎悪といって過言なしの苛烈な感情だ。大小無数の金属片を巻上げる竜巻の如く、全方位に振翳(かざ)す攻撃性。憎しみ、怒り、仇(・)。

 勿論、僕が忌嫌っているのは、その畏敬すべき権利と理念そのものに対してではない。理不尽な当てつけではないのだ。それ自体に、令状を突きつけられる訳がないのだから。

 僕が真に憎んでいるのは、その権利と力を妄用し自身より弱い立場にいる人間を踏躙る無頼の輩のことだ。慾望を実際に無配慮に、相手に向けて放つことを正当化する屑たちのことだ。存(・)在(・)を(・)呑(・)込(・)む(・)虚(・)無(・)のことだ。それはまるで生身の相手を物(・)として扱うみたいに、資(・)本(・)主(・)義(・)的(・)手(・)段(・)を持寄ってくる。不完全性の、一方的な搾取。僕はその怪(・)物(・)た(・)ち(・)が放つ負のエネルギーの余波を諸に食らってしまった。夢だとか目標だとか、そういったポジティブな気持ちを根刮ぎ引裂かれてしまったのだ。そして、僕の内奥にも、そ(・)の(・)怪(・)物(・)が(・)根(・)を(・)張(・)っ(・)て(・)息(・)づ(・)い(・)て(・)い(・)る(・)こ(・)と(・)を(・)暴(・)出(・)し(・)た(・)。目を覆い、鼻を摘み、耳を塞ぎたくなるほどの異形。こ(・)れ(・)が(・)僕(・)の(・)本(・)質(・)だ(・)、なんて受入れたくない。僕はその諸々の怨恨を、そういった表現から聯想せずにはいられないのだ。どうにもならないことなのだ。


 また、話を戻す。


 僕は直観的な画商のように書店に平積みされていたそれを手にとり、ためつすがめつ眺めた。そして、著者とイラストレーターが同一人物であることを知った。これが第二である。

 名は「ハルカ」。



 僕は購入を決意した。



 タイトルは短く前時代的で、昨今のトレンドとはまるで対極だった。有体にいって、イラストがなければ埋もれていたと思う。

 しかし、その中身、つまり文章には、焼きつくほどに生々しい、情熱を越えた執念があった。文字1つ1つが小さな生物に象を変えて、僕に拾上げて欲しいと総身を畝(うね)らせていた。密やかな呻きまで聞こえてくるようだ。それは声というよりも、無数の昆虫が羽を擦合わせているようなパリパリとした音だ(内的な不可視にしろ外的な可視にしろ、僕は人の心を矮小な生命活動として捉えがちだ。ある種そういう性(・)癖(・)なのだ)。

 もしそのメタファーを他者と共有できるとして、粗方の人間にはそら畏ろしい光景に映ることだろう。深海の熱水噴出孔に群がる奇々怪々な生物たちのような薄気味悪さ。ゾッとして、総身が粟立つ。しかし、表現の本質とはまさにそ(・)れ(・)なのである。


 僕はその生物の訴えに任せて頁を繰っていった。1頁1頁を稠密に、まるで味も失せた氷菓の棒を歯形がつくまで舐るみたいに。

 文章が精妙という訳ではない。僕が元来好む鼻につくほどの装飾や見(・)栄(・)といったものは皆目なしだ。青臭く、愚直な文体。比喩も直截的過ぎて遊びや含みがない。土方歳三みたいだ、といってみて、どれだけの人が分かってくれるだろうか。

 ただし、先ほども述べた執念は圧倒的だった。逃(・)げ(・)の(・)表(・)現(・)に一切頼ることなく、総てに責任を持っている。キャラクターや描写をなんとなく配置したり、ただ役割だけを与えたりするような澆薄なこともしていない。総てに確かな人格とストーリーを附与してあるのだ。有機物にも無機物にも。山を削って人工島を造るように、表現を着実に積重ねていて止処がない。そして、満身の力を込めて僕に、読者にぶつかってくる。その衝撃は、「Oasis」のアルバムをはじめて聴いた時にとてもよく似ている。

 表面的で安直なスキルやレンジではなく、奥底から滲み出る『ロックンロール』で人の心を捉えるのだ。


 そのような文章——そして、音楽——は、僕には到底紡ぐことができない。


 剣と魔法の世界で主人公の勇者とその仲間たちが魔王の討伐を目指す王道のストーリー、読者に親切な設定と用語、ファンタジーをより耀かせるリアリティ、味方でも敵(かたき)でも魅力に溢れるキャラクター、そして、物語の華(・)となる美しいヒロイン。

 とりわけヒロインに対して、僕はある種の好意を抱いている。異端なまでに烈しく心惹かれている。彼女のことを想うだけで、頬が紅潮し総身の関節に油でも差してもらったような高揚感に震えてしまう。脳みそが——今度は——ぴりぴりと痺れて、呼吸も浅く苦しくなってしまうのだ。拍動が僕の無意識裡から飛出して、すぐ耳許まで上ってくる。それはバスドラムのように重く耳に響く。その響きは際限なく増幅し、遂には僕の後方の地面まで崩潰させてしまう。

 僕のその生理的反応について、気色が悪いと思って頂いて構わない。ただ、弁解ではないけれど、これまで創作のキャラクターに対して、これほど生々しい好意を抱いたことはなかったのだ。


 しかし、僕は生来のフ(・)ィ(・)ク(・)ト(・)セ(・)ク(・)シ(・)ュ(・)ア(・)ル(・)ではない。

 僕の初恋の芽生えは、現実の歳上の——それも一回り以上も上の——女性に対するものだった。春先の日向を聯想させる恋慕だった。先に述べた烈火のような想いではなく、どこまでも優しく安穏とした気持ちだった。前後左右どころか上下の隔てもなく、好きなところへ歩出せそうな解放感。現在とはまるで対極だ、旧居と新居の差違と同じくらいに。それは彼女たちの個性や次(・)元(・)の差違というより、むしろ僕自身の経年や体験に依る総体的な変質の所為なのだと思う。

 しかし、何も伝えることが能わずに、季節は梅雨に移った。黒(・)い(・)梅(・)雨(・)だ。生温く不快な湿度、それとは対照的な雨粒の骨身に染入る冷ややかさ。い(・)ま(・)も(・)そ(・)の(・)只(・)中(・)だ(・)。そして、そのギャップは弥が上にも広がっていくばかりだ。総てにおいて、苦々しい片(・)想(・)い(・)だった。



 そのようにして僕の心を惑わせる力は、優れた小説家の発揮する魔術にほかならない。優れた小説家は創作と現実、その2つの溶合った「中庸の空間」を創り出し、そこに我々を請(まねき)入れてくる。寓話的な猫のようにくいくいと。

 その空間では文字上の情報だけでなく、物語の肝腎なフ(・)ァ(・)ク(・)タ(・)ー(・)が本当に目に見え、耳に聞こえ、心に感じられるのだ。映画『ハリー・ポッターと秘密の部屋』にて表現された、ハリーがトム・リドルの日記から彼の記憶を覗見たシーンを想像してもらえると、より俗耳に入りやすいと思う。文章を読むに当たってあるポイントに到達すると、まるで気絶する直前のように眼前に文字が迫ってきて、気がつくとある場所に立っている。それは現在読み進めている物語の世界だ。

 勿論、それは厳密に物語世界そのものではない。いうなれば、それは物語世界の『虚像』だ。実体ではなく、触れようとするとまるで死んだばかりのサム・ウィートのように総てが擦抜けてしまう。


 死んだばかりのサム・ウィートのように。うん、悪くない表現だ。音韻も申分ない。しかし、もう一息、不足だと感じる部分がある。彼が、つまりは『ゴースト ニューヨークの幻』の主人公が触れようとしたのは実存であり、自身こそが虚(・)像(・)的(・)存(・)在(・)になっていた。そこまで聞くと、こちらとはまるで対極に思えるかもしれない。しかし、そうではない。僕自身も——ゴーストとは違うけれど——ある種の虚像的状態にあるのだから。精神乖離? 思念? 何と表現すれば的確だろうか? まぁ、いいや。


 乃ち中庸の空間とは、優れた小説家が読者と物語、けして交わることのないそれぞれから抜出した虚像を、ピタリと重ね合わせる奇跡の御業のことなのだ。そこでは情報伝達の齟齬や限界が、実質的に消滅する。表現の領分を精確に量れるもののみが到達できる無限の境地。まさにエデンのような場所だ。

 そこでは互いに干渉することができない。先述したように触れられないし、声を相手に届けることもできない。しかし、それこそが良いのだ。何ものにも、僕自身にも阻害されることなく、物語の進行を愉しむことができる。僕はただ「無力の三人称」になって、物語に吹く風を、陽光を、熱を、雨を、砂塵を、せせらぎを、声を、足音を、息遣いを、戦闘を、群像を、すぐ間近で見届ける。強烈な光が現れると実に眩しいし、紫煙の充満する閉め切った部屋にいると本当に胸が苦しくなる。声や音は立体的にその発生源から聞こえてくるし、温度・湿度は確実に僕の体温調節機能にリーチする。それでも直截的に、互(・)い(・)が(・)互(・)い(・)を(・)傷(・)つ(・)け(・)る(・)こ(・)と(・)は(・)な(・)い(・)。


 僕はそこにはいない。でも、僕は彼らを具に観ることができる。


 僕はそれらのファクターから頂いた感動を、惜しみなく解放し表現する。普段ならできない満面の笑みを浮かべたり、高笑いをしたり飛跳ねたり。気を遣うべき他者なんて、中庸の空間のどこにも存在しないから。

 ような、ではない。まさしく、それこそがエデンなのだ。


 しかし、それもまた夢幻(むげん)の、刹那的な情景に過ぎないのだ。

次話は本日夜に投稿します

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