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その黄金のような魔術を仲立に、僕は「ハルカ」のキャラクターたちと、ジョン・レノンとオノ・ヨーコみたいに奇妙で親密なリレーションシップを構築した。それは朔の暗黒の内にある1つの街路灯の微かな光に、慰合うように寄添い舞う蛾の番に似ている。一方が不意に離れそうになると、もう一方が速やかに距離を詰める。立体感の塗潰された背景に、奇妙な線や図形を幾重にも描く。暁方までいそいそと、その忙しない繰返しだ。
そうして、僕は「ハルカ」のヒロインに心惹かれていった。僕の好む性質を持つ女性が、「ハルカ」の執念的な文章に彩られたら、恋慕わない訳にはいかなかったのだ。
その稠密なやりとりは凡そ8ヶ月続いた。一度スイッチが入ると、僕の読書速度は頭抜けている。高校生らしく勉学にもそれなりの時間を割いてはいるけれど、文庫本1冊程度なら2、3日で読めてしまう(今後、受験勉強に本腰を据えるとなると、その速度も随分と抑制しなければならないだろう)。
ただ、僕にとって、物語の本当の愉しみ方はここからだ。
僕は1つの作品を幾度も読返すタイプの人間だ。それだけならまま見掛けるタイプではあるけれど、僕の場合は周回する度に読む速度を意図的に変化させる。2周目は1日ですらーっと読み切ってしまう。3周目は1日に30頁と定めて、時間の許す限りリフレインする。4、5周目もそれぞれ異なる条件を設ける。そうやって何度も何度も、自身の内に叩込む。台詞はほぼ精確に暗誦できて、地の文までこちらで組直し口調やテンポを凝らした細やかなナレーションをすることも可能になる。ここまで読込んで、僕ははじめて「読了した」と思える。物語に真摯に向き合えたと考えられる。幼少からこれまでの永い時間を掛けて培った、僕の珍奇なメソードである。
僕はその第1巻から第4巻までを十全に、従来にも増して徹底的に叩込んだ。そして、先日刊行された最終5巻も併せて、人生上5本の指に入るほどの読書体験になるはずだった。表紙イラストと挿絵は何れも美しく、実に気持ちのいいものだった。
しかし、僕はその1周目を読み終えると、総括が気に入らないと床に叩きつけた。人生上はじめての経験だった。我を忘れて、物語へのリスペクトを逸したことなんて。
物語もオーラス、最終5巻の最終盤。主人公とヒロインは数多の試煉を乗越えて、その道中で引入れた仲間たちと共に、遂には魔王を討果たした。ここまではきわめて正統で、心地の良い進行だった。まるでパッヘルベルのカノンのように。
音楽も物語も、常道に沿ってつまらないことはそうそうない。しかし、皆1からのオリジナルを創造したがり、幾つもの長大な壁や大河や山脈を前にして、結局は何も生み出せずに遁走してしまうのだ。そのような未踏への挑戦は、謂わば天才たちに任せていればいい。皆がポール・マッカートニーやフレディ・マーキュリーの独自的姿勢に倣う必然はないのだ。我々は彼らが示したストーリーの骨組に対して、それぞれの肉付を行っていけばいい。まるで手作りのフィギュアを拵えるみたいに。皮膚の質感、筋肉と脂肪の密度、身長(体長)に対する手足の比率、目鼻立ちの調和、身に纏う衣装(毛皮や鱗)。その基盤に人型の骨組を選定するなら、知性や理性の読み取れる造形は必定で、四足獣の形を用いるなら、むしろ本能や衝動の体現化にこそそのウエイトが置かれる。我々の手が届く領分とは、宛ら分類学上の目から下に留まるのだ。霊長目、食肉目、偶蹄目、エトセトラ。ある程度は見呉で識別ができてしまう。それ故に、既に近似の表現物が無数に存在していることに、速やかに思至れるだろう。かててくわえて、わざわざ自分なんかが創作の世界に割って入ることに意義なんてあるのか、と思慮することにもなるだろう。しかし、まさしくそれこそが、1つ目の試煉なのだ。人には皆——たとえささやかな程度でも——個性があって特徴があるのと同じように、劇的ではなくとも真摯な創作活動を継続できていれば、必ずや作品のオリジナリティを承認してくれる受け手が現れるのだ。天才も等しく、そこを通抜けてきた。「ハルカ」の文章からは、そのステップを十全に理解していることが読み取れた。
ところがだ、「ハルカ」は理解しているはずの常道を、最後の最後にかなぐり捨てた。それは緻密に配置されてきた伏線の回収という訳でもなく、実験的表現のための熱量が感じ取れるものでもなかった。引千切られた腕の断面みたいに、冷酷で倒錯。文字通り物語を、自身の生み出したキャラクターたちを夢半ばに抛棄した、としかいい表せられない有様だったのだ。
最終決戦、それはまさしく死闘だった。戦闘の火蓋は、魔王城の玉座の間において切られた。その轟音は国境をも意に介さず響渡って雲を割り、衝撃は絶間ない地震となって幾つもの山岳を崩した。その破壊的エネルギーは、魔王城すらも埒外とはしなかった。その烏木的で鬼気森然とした佇まいは、たちまち千年の廃墟のように変化した。当然、主戦の玉座の間はひとしおだった。驕奢を煎詰めた調度・装飾の悉くが灰燼に帰して、壁・天井も損傷著しく倒壊しないのが摩訶不思議なくらいだった。現代兵器の爆撃を受けた重要文化財の如き様相だ。そう、テレビニュースでよく見るあれだ。大国が大義名分を捏上げて小国を侵攻する、正義と犠牲の恣意性を誇張的に可視化させたあの光景だ。我々の悲哀なんて世界の尺度では実に些末なのだと忸怩させられる、まさしくインフェルノだ(しかし、その事実が僕の心を癒してくれる訳じゃない)。「ハルカ」はそういった情景描写に秀でていた。流れ出たばかりの血のように明徴で、半端に読者の想像には委ねなかった。解釈に任せるべき範囲の線引き、ないし、距離感が、いつも精確でフェアだった(それがある種、「ハルカ」の一貫した姿勢だった)。「ハルカ」と較べれば、テレビ番組の自称専門家の解説なんて、塵紙の上の走書に等しいものだ。
そのような破壊は主人公一行も然ることながら、魔王自身も積極的に、というよりはお構いなしに行っていた。零から即時幾らでも再建できる、それこそが権力だ、といわんばかりに。断乎として、徹底的で、顧みない。
そして、魔王は倒れる。主人公の死力の一振りを真正面から受けて、これまでその手に掛けてきた夥しい命の迸りみたいな閃光と共に、世界中の総ての猛獣を合成処理しても表現できないような悍ましい叫声を響かせて絶命した。一行は魔王の確実な死を認めると、身を打震わせて勝鬨をあげた。誰1人として欠けることなく、魔王を討滅ぼしたのだ。一行は乾杯でもするように抱合って喜びを分かち合った。感動的なハッピーエンドだと、誰しもが思ったはずだ。物語の内でも、外でも。
それは掛値なしに、災害のように突然だった。一頻り皆で互いを褒称えて、その締括りに、映画のラストシーンのように主人公とヒロインが熱い抱擁を交わした時だった。
2人は、スイッチを切られたみたいに卒倒した。
ガラス同士が衝突して粉々に砕散るみたいに、2人はその場に倒込んだ。抱擁も解かれて、膝をつくとそれぞれが反対の方向に上体を落とした。陰陽の太陰太極図のような情態になる。
仲間が直ちに駆寄り声を掛けながら身体を揺さぶるも、反応は露聊もない。呼吸も鼓動も途絶えて、まさに生死の境にいた。魔王が死際に咒いでも飛ばしたのか、配下の魔物が附近に潜伏し狙撃してきたのか、理由はさっぱり分からない。2人から咒いの魔力は一切感知されなかったし、矢や銃弾といった物理武器の痕跡も音もなかった。追撃もない。本当に何の前触れも——それこそ咒殺を示唆するような台詞や伏線も——なく、2人は倒れたのだ。仲間は2人を担いで城から大至急撤退した。速やかに近隣の街の病院に駆込まなければならない。こともあろうに、倒れたヒロインにしか、治癒の魔法は扱えないのだから。
しかし、仲間の迅速な行動も、神は応えてくれなかった。ヒロインはきれいな顔と身体のまま、魂だけを丁重に抜き取られたようにして死んだ。死者蘇生の魔法なんて、この物語のどこにも存在しないのだ。主人公は死にはしなかったものの、精神が崩潰し廃人となった。まるでロボトミー手術の被害者みたいに、『カッコーの巣の上で』のランドル・P・マクマーフィーみたいに。彼を英雄と礼賛する民衆の声は、彼自身にはこれっぽちも届かない。いやに澄んで後頭まで透けてしまいそうな瞳を開け放したまま、無気力に車椅子に座っている。その描写で、この物語の幕は閉じられたのだ。
そして、その描写に中庸の空間は表れなかった。文章がまるで人が変わったみたいに杜撰で脈絡がなく、それまであった温かみの悉くが失われていた。
ヒロインが死んだ。それだけで僕は、癇癪を起こした3歳児のように拗ねている訳ではない。ヒロインの死が物語に必要不可欠なファクターであり、それまでの進行と破綻のない繋がりと覚悟を作者が持合わせているのなら、僕は落着きのある大人のように納得するだろう。ヒロインが登場してから死ぬまでの間を振返り、彼女の生はいまこの時のためにあったのだ、と思わせられるほどの説得力とリアリティ。僕はそれを欲しているのだ。たとえ心惹かれる女性に対してでも。それこそが自身の生み出したキャラクターへの責任と救済なのだと、僕は信仰している。
しかし、このヒロインの死は、何にもどこにも導かれないものだった。その死は主人公サイドの成長や激情にも、魔王の兇猛さや強大さの演出にも、フランツ・カフカ作品にあるようなある種のユーモアにも結びつかなかった。残されたのは重く冷ややかな鉄球みたいな徹底した拒絶だけだった。そして、それは僕の足許にどすんと落下して、前方に向けてどこまでも転がって行ってしまった。——まるっきりの無駄死にだ。神風特攻隊の如く。命なき、物としての扱い。救いなんてどこにもない。具体的にも、刹那的にも。
この物語は、死んでしまったのだ。
これほどまでに惨たらしい幕切が、果たして許されるのだろうか? 程度の差こそあれ、憤慨している読者はほかにもいるはずだ。僕は寝転んだまま後頭で組んでいた手を解いて、枕許に置いてあったスマートフォンを手に取った。Googleの検索機能を利用するために。しかし、止めた。スマートフォンを元あった場所に戻して、また手を組直す。ずずっと。
他人の感想に慰めを求めるな。
随分昔に、あるお世話になった人から貰った言葉だ。その人は先述の初恋の女性ではなく、さらに歳上の長身の男性だ。
それはぐうの音もでないほどに、それこそ人を殺してはいけないくらいに正しい所見だと思う。僕は数々の偉大な音楽や物語と同じくらいに、その人の言葉に少なからぬ影響を受けてきた。その多くが客観的にみて正しかったし、何よりも精悍だった。たくさんの人に愛され、尊敬されていた。憧れの人だった。その人のように強く、華麗に歳を重ねたいと思った。歳を取る、ではなく、重ねる。その表現をまさしく体現している人に思えた。
それも、いまとなっては昔の話である。
僕は下唇を、血が滲むほどに噛んだ。そして、実際そうなる直前に、咬合を解いた。本物の血液は、いまは必要ではない。
なぁ「ハルカ」、これが本当に君の希んだ物語なのかい? 総ては悪逆無道な計略だったとでもいうのかい? 我々受け手の心を弄ぶように、まるで学校でしばしば見掛ける告白罰ゲームみたいに。表現そのものを足蹴にしたある種の余興、あるいは、生体実験。
いや、違うはずだ。「ハルカ」の優しさと誠実さは本物だ。文章を読めば分かる。作者の思想はそこに必ず表れる。それは絵画やメロディ、如何なる表現様式でも変わらない。けっしてまやかすことはできない。
きっと、ひどく心を損ねることがあったに違いない。最後の十数頁をまともに書き進められなくなるようなことがあったに違いない。幸せや希望を描けなくなるようなことがあったに違いない。それくらいは、僕にだって分かる。
その憎しむべき素因とは、いったい何なのだろう? 「ハルカ」、いや、彼女を、そこまで虚脱させた事態とは。
しかし、想像ができない。同じ人間でも異性の、その思想を成すより深淵の領域なんて、生まれた星が違うくらいに分からない。文法の構成が正反対の言語みたいに成り立ちが異なっているのだ。そして、翻訳的蓄積もない。現実に女性と交際したこともなければ、母親にだって聞けない。
聞く資格すらない。
女性キャラクターの内面描写だって——この物語のヒロインも含めて——、作品として読み心地の良いように調整されているはずだ。包隠さずいえば、それは優しい嘘だ。生ものの気持ちなんて知れるものじゃない。全くの手詰まりだ。
いや、そこを明晰にできればと発想することが既に誤りなのだ。「ハルカ」とは、あくまでも他人でしかないのだから。謎は謎のままにして通抜けないといけないことが、この世界には数多ある。地上の諍いの大半は、それを見誤った時にこそ起こってしまうのだ。人々はそういうものに限って熱心に探り暴きたがり、気がつくと猛獣の尻尾を踏んでしまっている。ふわふわとしたものを、ふわふわとしたまま抱き続ける忍耐と度胸がないのだ。
それにしてもだ、誰か待ったを掛けてくれる人はいなかったのか? とりわけ担当編集者、彼もしくは彼女は、いったい何をしていたのか? これで「ハルカ」の小説家としてのキャリアは、致命的に損なわれてしまったではないか。
この作品は打ち切りになった訳ではないし、無茶な引延ばしに苦心させられた訳でもない。現実と物語、それぞれに円満に締括る機会が与えられていたはずだ。誰もがそのようにさせてもらえる訳ではない。「ハルカ」には最後まで手を緩めずに、作品を書き切る責任がある。出版社と利益の最大化のために並走する義務がある。機会を与えられた人間がそれを無下にして、次の仕事次の作品がある訳がない。そうならないためにもサポートし、尻を叩くのが編集者の責務なのだ。「ハルカ」の精神状態が万全じゃないにしても、発売日を延期したり編集の主導でラストを構築したりすることくらいできたはずだ。その方が、よっぽど良かったはずだ。
何故だ、……何故なんだ。意味が分からない。理解不能だ。
叶うことなら直截に問詰めて、首根っこを掴んででも物語を修正してやりたい。永い目で見れば、その方が絶対に正しいはずだ。作品にとっても、そして、作家の「ハルカ」にとっても。しかし、それは能うことだとしても、けっしてやってはいけない。「ハルカ」の内面にズカズカと、思想警察のように立入ることなど許されないのだ。表現の自由と、その小さな世界を壊さないために。それこそが我々受け手の礼儀であり、矜持であり、不文の憲法なのだ。
僕はベッドから起上がり、床の上に放りっぱなしにしていた文庫本をとり上げた。そして、表紙カバーを元通りにし、表表紙を上にしてそこを2、3度撫でた。カバーはつるつるとしていて、幼い鯨類の皮膚みたいに思えた。……さっきは悪かったよ。
まるで虐待した後にこそ優しくする屑親のような対応だな、僕はまた歯軋りをしながら思った。
僕は改めて、はじめてこの小説を手にした日のことを思起す。卑怯な罪滅ぼしみたいに。今度はより詳密に視点を広げてみる。上空を飛行する鳥のように。無力の三人称になることを意識する。まさに記憶を跳躍するハリー・ポッターみたいに。
あれは凛冽極まる仲冬の日だった。指尖に留まらず、手首足首に肘や膝や椎間といった主要関節にまで侵蝕をもたらす根源的な低温。風が肉食獣から遁走するレイヨウの群のように吹きすさび、衝突しあるいは通抜ける事物に依って様々な音色を奏でていた。しかし、その悉くがネガティブで不協和で、まさに草食獣の恐慌の咆哮としか僕には聞こえなかった。空はあおがね色のぶ厚い雲に覆われていた。雲は一律低い位置に垂籠めていて、ほんの些末な切っ掛けで地面に向かって墜落してきそうな剣呑さをたたえていた。吹流されているのか、留まっているのかもよく分からない。うんざりするような天候だが、雨や雪が降っていないだけ幾分ましだった(雨はともかく、僕の住む地域は雪がほとんど降らない)。
道行く人々の吐く白い息が、風に拐われ消えていく。宙の塵を核と定めて、自身の内にあった湿りに寸陰の客体化を施す。それは僕に、忘却を許された遠い記憶を聯想させた。そして、自己を成すのに手放してはならない肝腎の記憶だけを、人々はコートやマフラーや手袋の下に抱え込んでいる。
それは僕も同様だった。寒がりな僕はそのうえに、不織布マスクと耳当てとウエストウォーマーも身につけていた。
暮方で、湿ついた倉庫のように薄暗かった。僕は下校中で、寒さに負けて帰路にあるショッピングモールに入った。ホットのキャラメル・マキアートが飲みたくなったので、スターバックスコーヒーに寄ることにしたのだ。
スタバはそれなりに盛況だった。店内に用意された席(約30席)も9割方が埋っていて、レジにも8人が並んでいた。その粗方は学生らしかった。学生服が3名、大学生らしいファッションが3名。皆カスタムに凝っているのか、入店して商品を受け取るまでに5分以上も要した。その合間に暖房で身体も温まって、シロップをキャラメルに変更し甘味が増したそれを啜りながら、施設の通路を出口に向けて歩き出した。
しかし、すぐに立止まった。スタバの二軒隣にはTSUTAYAがある。この店舗は一般的なDVDとCDのレンタル・販売だけでなく、書籍やゲームや文具の販売もしている。品揃えもそれなりに良く、注文からの受けとりもスムーズで非常に重宝しているのだ。何より清潔に保たれていて気持ちがいい。
その日は特に用事もなかった。繰返しになるけれど、僕はとにかく量を欲するタイプの読書家ではない。故に聯日のように訪れている訳ではない。歩きながら考事をしたくて、買う気もないのに立寄ることもあるけれど、店員に目をつけられたくないので時偶にしかしない。新品の本の匂いが好きなのだ、思索が捗る。その日はそのまま素通りするつもりだった。ところがだ、店舗の入口附近にある新刊コーナーに掲げてあったキャッチコピーが目に入って、その淀みない足を止めてしまったのだ。
新進気鋭の女性作家特集。
女性作家、僕はその響きを反芻した。部首に留まらず、筆画まで細やかに分解するイメージを伴って。とめ、はね、はらい。
それまで、僕の本棚に女性の作品は1つとしてなかった。昔——致命的な心的損傷の已後に——、母から宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』を勧められ、借りたことがあるくらいだ(母は宮部みゆきの作品を大変気に入っている)。
男性の作品ばかりを嗜んできたのは、当初は単純な巡合わせに依るものだった。ただ直近に限っていえば、断乎として徹底的に避けてきたのだ。畏れを抱いているのだ。女性の未知に対する恐怖だ。『ブレイブ・ストーリー』が読めたのだって、それ自体は男の子が主人公のファンタジーであったからだ(実をいうと、『ハリー・ポッター』シリーズの原作は読んだことがない)。
ただの気紛れか、変化に対するささやかな夢想の表れか、いまでもよく分からない。ともかく、僕はTSUTAYAに入店して、新刊コーナーの前に立った。ジャンルはミステリにラブロマンスにヒューマンドラマ、エッセイに新書に自己啓発と多岐に亘っていた。書籍の平積みをベースに、ブックスタンドや飾附け、手書きポップも駆使して華やかに魅せている。作者には名前を耳にしたことのある人も、まるで知らない人もいた。タイトルを見下ろしているだけで鱈腹になってしまいそうだ。そう思っていた中で、見つけたのだ。この物語を。
『ブレイブ・ストーリー』と同じファンタジージャンルであるところが、僕の心理的ハードルを下げてくれた。そして、著者とイラストレーターが同一であること、さらにくわえて、表紙カバーの袖には彼女が僕と同じ高校生であることも説明されていた。これがデビュー作であることも。
同世代の女の子が創りあげる初々しいファンタジー、それに対する興味が心の中ではっきりと像を結んだ。痛みや傷や、恐怖を越えて。
僕は文庫本を手にしたまま、本棚の前に蹲踞した。
本棚は高さ135センチメートル、横幅60センチメートルのものが2つ並べてある。チョコレートブラウンのシンプルなデザインだ。6段構造になっていて、上部5段は単行本や文庫本を収めるのに適した棚板の高さに均等に調整してある。最下の1段はB4判サイズの雑誌もゆうに収められるスペースを確保してある。その最下部には、古生物の博覧会に訪れた際に決まって購入する最新研究の平易な解説書が、ある程度のゆとりを以って収められている(フィギュアを収集しなくなっただけで、古生物学はいまでも僕の知的好奇心を刺激してくれる。人類が進化の頂上に立つ生物の霊長ではないことを、直截的・学問的に教示してくれるからだ)。そして、上部5段には小説と新書がぎっしりと詰込まれている。新書は歴史系統のみが15冊ほど。小説の粗方は文庫本で、単行本は3冊だけだ。海外文学と日本文学で、比率は6対4といったところ。ジャンルも作者も——「ハルカ」以外は男性しかいないけれど——多岐に亘っている(しかし、作品は発表年代の古いものに偏重している。それは、僕が長期的な批評のストレスに晒されていないものを、基本的には信用できないからである。その点で見ても、「ハルカ」の物語は特別だった)。これまで読んできた作品のほとんどが収められていて、一部は先述した物置部屋に段ボール箱に入れて保存してある。時折引張り出して読返すこともある。これからも新たな作品との邂逅を求めていくのなら、また整理整頓をしないといけないだろう。しかし、いまはその気持ちがまるで湧いてこない。
僕は手にしている「ハルカ」の物語、その最終巻の表紙をじっと見詰める。主人公とヒロインだけじゃない、旅の仲間たちが集合しこちらに微笑み掛けている。少年と少女がもう1人ずつ、計4人。皆本当に愉しそうで、何より爽やかだ。やはり、こちらも素晴らしいイラストだ。
いったい、「ハルカ」はその彼らをどのような想いで描いたのだろう? 少なくとも、その作業自体がラストを書けなくなる已前に行われたのは間違いない。間断のない微弱な耳鳴りみたいな不吉の予感は、そこに露聊も認められない。当時はきっと、正しく幸せな気持ちになれるラストだけを、色鮮やかに構想していたに違いないのだ。彼らのそれからを、「ハルカ」はどのように考えてあげていたのだろう。
僕は彼らの表情を一頻り眺めてから、タイトルを右手人差し指でなぞる。
『レオン』
この物語は玉響ではあったけれど、僕を救ってくれていた。暫く立寄ることのできなかった書店の漫画・ライト文芸のコーナーに、僕を向かわせてくれた。その時と頁を繰っている間、僕は色彩と柔軟性をとり戻せていたのだ。これまで数多の名作を読んできたけれど、ここまで救われた気持ちになれたのは、はじめてだったんだ。それなのに……、あんまりだよ、こんなの。
しかし、ずっと文句もいってはいられない。どこかで踏ん切りをつけないといけないのだ。どれだけ述懐を重ねても、物語はもう確定してしまったのだから。これ以上はただ只管に虚しいだけだ。生まれ持った肌の色を変えることはできない。他者の創作を受け取るとは、そういうことでもあるのだから。
しかし、我々はあくまでも個人の範囲内において、自身の想像力のみに依って、補完や差換えを行うことは許されている。創作の土壌というのは、そういった部分からも育まれていくからだ。
そうだ。「ハルカ」には悪いけれど、ラスト十数頁を白紙で覆隠してしまい、そこに自身で考えたシナリオを書出して差込むのもいいかもしれない。それを誰にも見せず、僕だけが開いて愉しむのだ。誰も傷つかないし、「ハルカ」もきっと、それを望むだろう。
『怒りにいつまでも囚われていてはいけない』。
しかし、それを行うにしても一旦時間を置こう。傷心の直後に開始してもうまく像を結ばないだろうし、もっと良い方法も思浮かぶかもしれない。
僕は1つ息を吐いてから、『レオン』を本棚に戻そうとする。
これで僕は、血を流し切ることができたのだ。
その時だった。
「……くん。奏くん」
突如、僕を呼ぶ声が聞こえた。若い女性の声だ。音高が高くて、春の朝に囁く鳥のような声だ。
僕は部屋中をキョロキョロと見渡した。勿論、僕の周りには誰もいなかった。窓も閉まっているし、テレビも点けていない。そもそも両親以外に、僕を下の名前で呼んでくれる人なんていないのだ。
「奏くん」
僕は手許を見下ろす。彼女らと僕の視線が、一直線に重なった。
僕は遂に気が触れてしまったのだろうか。
「私たちを、助けて!」
刹那、室内が目映い閃光に包まれた。目を瞑り、動揺しているのも束の間、足許が崩落したような浮遊感に襲われた。そして、圧倒的な意識の消失がやって来た。まるでブラックホールに近づき過ぎたみたいに、僕の心は引延ばされてぶつ切りにされて、目映さとはまさに対極の、完全な暗黒の中へと吸込まれていった。
次話は明日の午前中に投稿します




