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八時にセットしておいた携帯のアラームが鳴った。空腹を感じながら、シャツとベージュのストレートパンツに着替える。下で顔を洗って、短い髪に軽くくしを入れてから、テレビのある部屋に声を掛けた。

「おはようございます」

 返事があって、戸が開かれたので、朝ご飯を頼んだ。自分の部屋に戻り、録音を聞き返していると、ほとんど聞かないうちにノックの音がして、朝食が盆に載せられて運ばれてきた。

 朝からレバニラが主菜で、他になめこの味噌汁と、大根の漬物、ご飯だった。

 おばさんは、ちゃぶ台に盆を置いたら、

「じゃ」

 とだけ言って、出ていってしまった。

 おばさんが出ていったら、すぐに箸をとり、朝食を平らげ、佐藤からのメールが入っていないかチェックした。

 メールは五件あった。大毛海岸で見つかった変死体は五人だ。全て薬物による自殺で片付けられているということが分かった。佐藤に電話した。

「もしもし?」

「あ、一樹ちゃん。メール確認してくれた? あのね、今度……」

 一樹は、また話を遮った。

「ありがとう。この五人の遺体の引取人を調べてくれない?」

「え、あ……。わかったよ。それで、今度……」

「じゃあね。また電話する」

 一樹は、電話を切った。

 佐藤は、一度一樹に振られている。まるで中学生のように大学の敷地の隅に呼び出して、告白してきた。両手の指をもじもじさせながら、目を上げたり下げたりして、一樹に、

「僕と付き合ってください。僕と付き合ったら、弁護士の奥さんになれます」

 と幼稚なことを、勇気を振り絞ったような真に迫った顔で口にした。考えもせずに一樹は断った。そうすると佐藤は、

「一度だけ。一度だけ、一緒にバーに付き合って下さい」

 大学生の一樹は、バーというものに行ったことがなく、佐藤が人畜無害に見えたので、まあ、いいか、と了承した。その日の授業が終わった後、夜の九時に、キャンパスと通りを挟んだコンビニで待ち合わせをして行くことになった。

 似合わない紫のシャツに高価そうな黒のスラックスを着込んで、春なのに丈が長すぎるキャラメル色のコートを羽織った佐藤がやって来た。

 心の中であざ笑いながら、一樹は、佐藤と並んで歩いた。

 一樹さんは、きれい。一樹さんは優しい。一樹さんは一番きれいで純情……。

 信じられないバカな誉め言葉を懸命に吐きながら、佐藤は一樹を、バー「maple」に案内した。黒を基調とする店内は、贅沢で大人な知らない世界に見えた。カウンターの奥の壁に作り付けの台がしつらえられ、そこに英語表記の瓶が、所狭しと並んでいた。バーテンはグラスを磨く手を時々止めて、客の様子を観察している。間接照明が決してまぶしくないのに、上手く周りが見えるように調整されて、天井で風車のような黒いファンが回っていた。

 カウンターに座ると、佐藤は迷わず、

「マルガリータ二つ」

 とバーテンに向かって、耳の横で妙な手つきをして恰好付けながら注文した。後ろでは、三つあるテーブル席の内、一つだけで、女性が一人頬杖をつきながら、色のついたカクテルをチビチビ飲んでいた。時々一樹が振り返ると、必ず頬杖を突く側をその前と反対にしていた。

 マルガリータがどういうお酒なのかも知らない一樹は、佐藤に任せておいた。

 程なく、表情もないバーテンダーがクールに振るった二つのマルガリータが、一樹と佐藤の前にしなやかに置かれた。

 一口飲むと、甘く、爽やかで、とろりとした喉越しが美味だった。

「おいしい」

 思わずつぶやくと、佐藤は、でしょ? でしょ? と嬉しそうに得意顔になった。

 お前が作ったわけじゃないだろう、と思いながら、グラスを口にしているうちに、頭と体の軸が揺れるような気がした。

 あれ? と思いながら、意識が混濁していった。そういえば、自分はお酒に強くなかった。居酒屋でも、弱いチューハイしか飲まない。

 横で動揺して慌てる佐藤は、

「大丈夫? 大丈夫?」

 と言いながら、一樹の腕を自分の肩に回して、カードでさっと会計して、店を二人で出た。

 自分が歩いているという自覚もはっきりしないまま、佐藤に身を任せていた。気が付いたら、佐藤が横になった一樹のニットを脱がせようとしていた。

「何すんの! 変態!」

 一樹は、佐藤の腹を蹴飛ばした。

 うぐっ、と呻いて、佐藤は、床に仰向けに倒れた。ニットを直して、寝ていたらしいベッドから立ち上がると、佐藤は、びくびくした目で床に膝をついて、一樹を見上げていた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

「死ね!」

 捨て台詞を吐いて、一樹は、ラブホテルの部屋らしい、深紅が基調の品の悪い部屋から出ていって、受付の前を横切り、外に出た。

 スマホで現在地を確認すると、さっきのバーからそう遠くない。

「あー、気持ち悪。変態」

 と呟いて、酔いも一気に冷めた一樹は、アパートまでの家路を急いだ。一応、後ろを振り返って、電車に乗る時も周囲を確認したが、佐藤の姿はなかった。

 休み明けに大学に行くと、講堂に入った途端、佐藤が待ち構えていたように座っていた席から出入り口のほうを振り返って、一樹と目を合わせた。一樹は、さっと目をそらしたが、佐藤は席から立ち上がって、小走りで階段を上がって近づいてきた。

「昨日はごめんなさい。あの、あの……、ぼ……」

「もう話しかけないで。訴えても構わないんだけれど」

 一樹は、思い切り冷ややかな不愉快そうな顔をしてみせた。

「ごめんなさい。これ、受け取ってください」

 佐藤は何か差し出して大きな声で叫んだので、講堂に居て、談笑している生徒たちが皆こちらを振り返った。一樹は、口を歪めて、迷惑さを伝えた。

「気持ち悪いから。もうどいて」

「違います。違います。ラブレターとかじゃないです。舞台のチケットです。一樹さんの好きな人と行って下さい」

「昨日から思ってたんだけれど、下の名前で呼ばないでくれる⁉」

 一樹は声を荒げた。

「でも、山科さんとかは『一樹』『一樹』って」

「透子だけでしょう? なんであんたが私を下の名前で呼ぶの? 馬鹿じゃないの」

「ごめんなさい。一樹さん。これとにかくもらってほしいです。お詫びの気持ちです」

 一体何を渡すのかと、受け取って、白い紙の袋の中身を確認すると、一樹が昨日バーで見たいと言っていた舞台のチケットが二枚入っていた。返そうと思うと、佐藤は講堂からいなくなっていて、見渡しても姿がなかった。

 そのチケットの公演は、一か月半後に、透子と見に行って愉しめた。それは、いいのだが、それから佐藤の一樹への貢物攻撃が始まった。

 一樹が好きな作家の初版本。ホテルのラウンジに併設されたショップで買ったらしい高価なブローチ。断っても、勝手に一樹の参考書の間に入れられていたり、鞄の上にちょこんと載せられていたりするので、

 もう貰っておけばいいや。お詫びをされる理由はちゃんとあるんだし。

 と開き直ることにした。そのうち、本当に弁護士になったので、いろいろと便利使いしている。

 東京での聞き込みのやり取りなども、大体レコーダーに録音してある。それらを聞き返しながら、九時半になったら、宿を出た。

 カンカン照りの日光が一樹の髪を焼いた。

 サキ子の家に着くと、インターフォンを鳴らす前に中から戸が開けられた。

「待ってたよ」

 らんらんと、餌を前にした虎のような目で一樹の顔を見上げる。

「お待たせしました……」

 正当な権利の行使が復讐心と結ばれた、獰猛なのに哀れな、どこか美しい顔だった。昨日より肌つやまでいいように見える。

 炬燵の部屋に入ると、

「まずね、パンフレットあったよ」

 と、頼所教のパンフレットを見せてくれた。

「すみません。それはこちらで入手できたので、山辺さんの方で保管しておいて下さい」

「そうかい」

 サキ子は、先に座った一樹の向かいに座った。

 唇を開くのを、一樹が一瞬躊躇しているうちに、サキ子が話し始めた。目の前には、昨日質問をメモした紙が置かれたままだ。

 よく考えたら、酷なことをしているかもしれない。このメモを見ながら、サキ子は何を思っていたのだろう。らんらんと貪婪に光っているように見える目は、ただの寝不足が原因かもしれない。

「まず、敏彦が頼所教に入るまでの経緯だね。これは分からない。どこであんな宗教に誘われたのか、出会ったのか……。昨日話した通りだよ。それと、入信しようと思った原因だね。これは……」

 サキ子は、一息ついた。

「敏彦は、事故で妻子を亡くしているんだ。それから一か月ちょっと後に、『もう会えない』って電話がかかってきている」

「どのような事故だったのか、お聞きしても?」

「敏彦の妻の不注意だ。カーブを曲がり切れずに、崖下に落ちたんだ。ちょっと遠くのショッピングモールに行った帰りにね。子供は十七だった。私の孫だ。親は二人とも大人しい性格なのに、それを補うみたいに、頑固でわがままで、でも優しい少年だった」

 サキ子は口の端をキュッと引き結んで、感傷から自分を引き戻した。

「敏彦は、基本的に優しくて気が弱くて、少し自我がなさすぎるんじゃないかっていうくらい、中身が空っぽな器みたいなところがあった。妻と子がいて、やっと心を満たしてもらえていたのが、全部なくなったんだ。だから、ふらふらと何かに頼りたかったんだろ。頼所教に。自分を全部、自分以外のものに決めてもらえる場所に逃げたんだ。他に逃げ場はなかったのかと思うと、情けないよ」

「そうですか……」

 一樹が、本気で同情したような顔をしたのを見ると、サキ子は、唾を飲んで気持ちを改めた。

「次は、どんな子供だったのか、どういう育ち方をしたのかって質問だね」

「はい」

 一樹は、サキ子の努力に応えるように力強く頷いた。

「さっきも言った通り、空っぽな子だよ。赤ん坊の頃は、信じられないくらい大声で、昼も夜も泣きわめいていたけれど、言葉をきちんと使えるようになる年ごろから、ひどく大人しくなってね。『サンタさんに何をお願いしようか?』って聞いても、『サンタさんの好きなものでいいよ』って。家の手伝いも率先してやってくれた。でも、自分がしたいことは何もないみたいで、せっかく買ってあげたおもちゃも学校の友達が遊びに来たら、いつも『欲しい』って言われるのを先回りして『あげるよ』ってあげちゃうんだよ。やって来た女の子が、そこにある人形を指さすだけで、敏彦は何も言わないでそれを拾い上げて渡すんだ。誰かが手を出すだけでティッシュペーパーを自分のポケットから出してあげるし。いじめられてるんじゃないかと問い詰めたこともあったけれど、『そんなことないよ』って言うし。いつも微笑んでるか、無表情かのどっちかだったね。結婚してから本当に幸せそうに笑うようになったけれど。誰かが、望みや頼みや指図をする前に、それを察してやってくれるような子供だった。周りの子は、『ありがとう』すら言わなかった。当然みたいに。信じられないくらいいい子で、心配になったから『いやなこととか、欲しいものは、自分でそう言わなくちゃ誰も分かってくれないよ。敏彦の人生は敏彦のものでしょ? 誰かが何とかしてくれるのを待つのは一番いけないことだよ』って説教したら、『誰もそんなこと望んでないよ』って六歳の子が言うんだよ。父親がいないせいかってちょっと悩んだよ、私。でもきっと……」

「はい?」

「父親の有無じゃないね。あの子はそういう風に出来てたとしか思えないよ」

 昨日からのサキ子の強い様子からは少しずれた感じの発言に、一樹は、何だかカチンときた。しかし、サキ子は冷静にものを言っているようだ。

「それは、生まれつきのDNA的な……?」

「どういったらいいか、わからないよ。少し、喉乾いたね。お茶とジュースどっちがいい?」

「あ、じゃあ、ジュースを……」

 サキ子は「よっこらしょ」と立ち上がって、冷蔵庫からパックのオレンジジュースを出して、台所で二つのグラスに注いだ。

 橙色の液体が小さな滝を作ってグラスに落ちていくのが、どこか奇妙だった。

 両手にジュースを持ってサキ子は一樹の前に戻ってきた。二人で黙ってジュースを飲み干して、続きを話し出した。

「頼所教で何が行われているのか……? 知ったことじゃない。あんたが調べて教えてくれ。それと、遺体を引き取りに行ったのは、徳島県警察本部だよ。対応した警察官の名前は、堺だったと思うんだけれど、はっきりしない。死体検案書はこれ」

 サキ子は、質問を書いた紙をめくって、その下から死体検案書を見せた。

「コピーだけれど」

「はい。そうですよね。原本は役所に提出してますもんね」

 一樹は、死体検案書をよく見たが、透子から聞いたこと以外には、何も情報がないようだった。死亡推定時刻もはっきり書かれていないし、使用したとされている薬物の名称も、さらには遺体の生年月日も書かれていない。雑なのにもほどがある。検案年月日は検案書発行年月日と同じで二〇二〇年の八月二二日だった。作成者の医師の名前の欄は空白だった。

 これで役場に通るのか。

「敏彦さんの思春期時代の様子はいかがでした?」

「味もそっけもない、よくできたいい子だったよ」

「反抗期とかは?」

「なかった。いつかキレるんじゃないかって思ったりもしたけれど、頼所教に入ること以外に、私を困らせることはなかったよ」

「成績は?」

「真ん中より少し下くらい。他人の癇に障るくらいなら、自分を下げてるほうがいいっていう感じも少しした。親の欲目かもしれないけれど、あの子は察しが良かったから、本当は地頭も悪くないんじゃないかって思ってたりしたんだけれど。言っちゃなんだけれど、私自身も勉強は結構できたほうだったし」

 成程。被害者の人物像が浮き上がってきた。

「大学も専門学校も行かなかった。近所の印刷工場に勤めて、結婚して家を出て……」

 天井に向かってサキ子は、ため息をついた。そして、一瞬哀れを誘う顔をしそうになって何か言いかけたが、すぐに表情を戻して、正面を向いた。

 何故かじっと一樹の顔を見つめるサキ子に、一樹は、

「頼所教の建物まで案内してもらうことはできますか?」


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