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ライショキョウ?
「ちょっと待って。紙と鉛筆持ってくるから」
サキ子は、横の部屋に行こうとした。
「あ、ここにあります」
一樹は、さっと鞄から自分のノートの紙を引きちぎって、シャーペンを渡した。
「ありがとう」
サキ子は、少し落ち着いた様子だ。
炬燵の前に膝をついて、飾りも柄もない、一樹のシャーペンを手に取り、紙に、多少震えているが達筆な文字で「頼所教」と書いた。
「頼所教……」
一樹は思わずつぶやいた。
「『名前を捨てなさい。自己も捨てなさい。性欲も捨てなさい。選択も捨てなさい。そしてこの世の外の世界で見るもの全てを捨てて、神と、巫女に委ねて頼りなさい。それ以外のものを何も見なければ、欲望であなたたちを縛るすべてを見なければ、あなたたちは自由になれる』」
暗い目でサキ子がその宗教の教えのようなものをそらんじた。
「その『教え』の内容は、どこで聞いたのですか?」
「パンフレットがドアポストに入っていたのさ」
「新興宗教みたいなものですかね?」
「そうだろうね。そんな極端な教えで、由緒正しい仏教だとかキリスト教もないだろ? でっかくて箱みたいな、さらさらしたコンクリートの壁にピンクの扉がついた建物を構えているよ」
「頼所教の人間が息子さんを殺したと思いますか? それとも、頼所教の教えのせいで自殺したとお考えですか?」
「何とも言えない」
サキ子は、炬燵の天板に身を乗り出した。
「遺体が帰ってくる三日前、ええと何日だ……?」
脳内を探るような表情で口を丸く開けた。
「二十日でしょうか?」
一樹が聞くと、やんわりと口を閉じて、
「ああ、そうだ」
と呟くように言った。
「二十日の日のお昼近くに、敏彦が珍しく帰ってきた。いつもは、宗教の建物で寝泊まりしているのに」
一樹は、サキ子の目を見つめながら話を聞いた。
「嬉しかったよ。五年前に、『もう会えない。会っちゃいけないんだ』って、いきなり電話で言われて、びっくりしてアパートに押しかけたら退去した後で、それから案外近くにいたもので、三日後に近所を歩いていた時に見つけたから捕まえたら、顔を見ない、目を合わせない、口も利かない。漂白されたみたいなのっぺりした顔になって、何も話さない。その時も、その場で息子の腕を握ったまま私の弟に電話して、力ずくで家に連れて帰ってもらおうとした。入り婿の先の畑を手伝っていた弟は、すぐに駆けつけて協力してくれたよ。弟の雇っている若い者も連れてきてくれた。で、敏彦は二人がかりで連れて帰ったよ。でも、目を離すとすぐにどこかに行ってしまった。それからずっと会ってなかった。噂で、『頼所教』の建物に出入りしていたと聞いた。だから、帰ってきたときは、本当に嬉しかったよ」
「そのまま、お宅に留め置けなかったのですか?」
「風みたいだった」
「ずっと見張っている必要があるのに、私は舞い上がっちゃって、何か食べさせよう、ミックスジュースでも作ってやろう、ってちょっと台所に立って、目を離したすきに消えていた。息子は影が薄くて、色の付いた空気みたいになっていて、笑った顔が幽霊みたいで、それに、とんでもないことを言っていた」
「とんでもないこと?」
今度は、一樹が身を乗り出した。それに合わせて、サキ子が身体を引いて、座り方を正した。
「『ちんちんがなくなった』って」
ここからだ。
「どういう経緯で『なくなった』か、話していましたか?」
「頼所教の巫女でもある教祖に宦官になるように言われて、自分で切ったって」
「止血は?」
「さあ。びっくりして聞かなかった。宦官って、去勢された、昔の中国とかでの後宮の雑用係だろ?」
「はい。私の知っている限りでもそうですね」
「頭がおかしいとしか思えないよ」
一樹は唾を飲んだ。
「切ったものはどうしたと?」
「だから、わたしもびっくりして何も考えられなかったんだ。お化けみたいに憔悴して白い顔した息子を、しかも『ちんちんがなくなった』ばかりの息子を質問攻めにする勇気がなかったよ」
「それもそうですね。すいません。それがどうなったか、私知っているんです」
話しておいてもよさそうだ。
「え?」
サキ子が片眉を上げた。少し怒ったような顔になる。
「私の住むアパートの庭の木の下に、息子さんの切り取った性器が埋められていました」
「誰が埋めたの?」
「はっきりしません。ただ、最近の間に周辺で歩き方の少しおかしい人が深夜に見かけられて、年齢と性別が息子さんに合致しそうだから、陰部を切り取った息子さんがその近辺にそれを埋めにきたと考えてもおかしくはなさそうです。息子さんの歩き方はどうでしたか?」
「おかしかったよ。股の間をかばうみたいな歩き方してた」
沈黙が降りそうになったところで、サキ子が口を開いた。
「大毛海岸で死体が見つかったのは、一度や二度じゃない」
「死因は?」
「覚えていない。自殺の多い場所だなと思っていたけれど。男の人ばっかりだった気がする」
戦慄が一樹の中に走った。思っていたより、とんでもないスクープになるかもしれない。
いや、そんな功名心より、この事実の恐ろしさが一樹に迫った。
人間を死に追いやる宗教。頭の中はブレインウォッシュされていて、抵抗できない。身体がもし抵抗しても、ほかの信者がきっと力ずくで押さえつける。
闇。人を平たい白い顔にさせる白い闇。
「聞くことはまだいくらでもあるんだろ?」
一樹は我に返った。
「はい。もう時間は遅いでしょうかね? 十時半過ぎてますね?」
「ちょっと疲れた。明日また来てくれるかい? 頭の中整理しておくから、その紙に何を聞きたいか書いておいてくれる?」
「はい。またご面倒おかけします」
「面倒じゃないよ」
箇条書きで質問を記した。
・敏彦さんが頼所教に入るまでの経緯は?
・彼が、頼所教に入ろうと思った原因に心当たりは?
・敏彦さんは、どういう子供で、どういう育ち方をされたのか?
・知りうる限るで、頼所教ではどういうことが行われているのか? 実態は? 資金源は?
・パンフレットがあったら、見せて下さい。
・敏彦さんのご遺体は、どこの警察署から引き渡されました? できればその際に対応した警察官の名前を……。死体検案書はありますか?
・頼所教の施設がこの近辺なら案内していただけませんか?
「面倒じゃないよ」
サキ子がもう一度言った。
「蒸し返してくれるなら大歓迎さ。何回でも来てくれればいい」
サキ子は、一樹の瞳をその目線で貫きながら、猫のように勝気な目を光らせた。
一樹はその目を受けながら、質問を記した紙の向きを、天板の上でサキ子の方に向けた。
少し、怖い。
と思ったが、そのサキ子が放射する怖さは、妥当で正当なものなのだ。
子供を産んだことも育てたこともない一樹だが、警察に身近な人間の変死の原因をごまかされるのが、許せない理不尽だということは、ただの理屈だけで考えても十分わかる。
理屈や真っ当な論理をごまかしているのは、そんな勝手な感情と都合で動いているのは、おそらく警察のほうであるはずである。
一樹は体を強張らせながら、立ち上がった。
ICレコーダーは動かしてある。頭を下げて、
「ありがとうございました。また明日伺います」
と挨拶し、玄関へと向かった。玄関のところで、サキ子と、明日の午前十時頃に話を聞きに来るということを決めた。
扉口で振り返った時見たサキ子の肩は広く強そうに張っていた。
柑橘の香りが夜に散る中を歩きながら、一樹は、ここ十年間分だけでも、大毛海岸に変死体が見つかったという記事を調べるべきだと考えていた。ネットでは限界がある。できれば、明日の午前十時までに特急で調べたい。
一樹は、宿の手前まで来て、スマホを取り出した。
連絡先は、「佐藤 一」という男だ。大学の同級生で、父親から継いだ弁護士事務所を経営している。もちろん本人も弁護士資格を有して、七五三のような似合わないスーツに、バッジのひまわりを嬉しそうに光らせて、指でちょくちょく直す仕草をする。
この男は、一樹の便利屋だ。ほとんど小間使いだ。頼めばいつでも引き受けるし、長時間労働も厭わない。頼んだことと関係のある仕事が終わった後に、報告だけでもしておいてやろうと、佐藤の事務所の下に入っている喫茶店で彼と共に珈琲を飲めば、それで清算完了だ。
「もしもし。どうしたの。久しぶりだね。元気にしてる? 一樹ちゃんは、まだ記者の仕事してるの? 今度僕、見たい映画があっていっしょに……」
一樹は、佐藤の話を遮った。
「頼みがあるの。ここ十年間で徳島県の大毛海岸で見つかった変死体をさらってほしい。死体ごとに別々のメールで詳細を教えて」
「うん。いいよ」
「明日の午前九時までに」
「一樹ちゃんの頼みなら」
佐藤は、かけらの疑問も差し挟まなかった。
「じゃあ、よろしく」
非情なくらいにあっさりと一樹は通話を切った。
宿に帰ると、またおばさんが出てきて、風呂上がりみたいな、丈の長い男物のTシャツとゴムのチェックの短パンという格好で、首にタオルを引っ掛けて、
「お腹空いた?」
と出し抜けに聞いてきたので、一樹は素直に、
「はい」
と答えた。
十五分後に、ハモの天ぷらと刺身が白いご飯と共に、二階の一樹の部屋に運ばれてきた。
食べたら、追い焚きした風呂に入って、さて寝ようと思った時に、はっと思い立って一階に下りた。零時を過ぎてもテレビの音が聞こえる部屋をノックした。
「なーにー? アイス食べる?」
間延びした声が返ってきた。一樹は、曇りガラスの引き戸をガラガラと音を立てて開けた。
「聞きたいことがあるんですけれど、ちょっといいですか?」
「何?」
古い型のマッサージマシンを肩にあてながら、おばさんはソファでくつろいでいる。
「この辺に『頼所教』っていう宗教団体はありますか?」
「ライショキョウ?」
「はい。知りませんか?」
やはりこのおばさんは、知らないか。
「知ってるよ」
「え?」
「友達の息子がそこに入って、出てこなくなったって。泊まり込みで宗教やんなくったってねえ? パンフ持ってるよ。あげようか?」
「はい。是非」
おばさんは、マッサージマシンのスイッチを入れたまま肩から外して、ソファの上に置いて、立ち上がった。ソファの皮に振動音がブブブブと響く。テレビの横の壁に吊るされている、五段のウォールポケットのポケットの一番上から一番下まで、パンパンになった中身をごそっと全部取っては、チラシや様々な案内、パンフ、明細書などを一枚一枚調べていった。
マッサージマシンの音とおばさんが紙をガサガサ言わせる音の中で、最後のポケットから目当ての物をおばさんは探し出した。
「あった」
と嬉しそうに叫んで、おばさんは、戸口に立つ一樹の所に駆け寄った。
「はい。どうぞ」
一樹はそれをありがたく受け取った。
「ありがとうございます。ご飯、美味しかったです」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」
一樹は、おばさんのいる部屋を出て、パンフレットを手にして二階に駆け上がった。
パンフレットは、長方形の三つ折りで、つるつるした紙にプリントしてあった。
部屋に入って、扉を閉めもせずに表紙をよく見た。「頼所教」という楷書の下に、薄青い空が張り付いて、その中に真昼の月がBB弾くらいの大きさで映っている。裏には、住所と
「一切を捨てるべし。さすれば平らかになる」
と仰々しい文字が書かれていた。
パンフレットをめくる前に、背後の扉を開けたままだということに気づいて、丁寧に閉めてから、床にあぐらを掻いて、ゆっくりとめくった。
左のページの上部に施設の写真。きれいに清潔な風に撮られている。サキ子が言っていた通り、コンクリートの灰色の壁に、ピンクのドアの直方体の建物だった。見ようによっては、幼稚園のようにも見える。しかし、敷地いっぱいに建物が場所をとっており、庭のようなスペースはありそうにない。行ってみれば、規模もよくわかるだろう。
その下の説明。
「頼所教は、一切の自己を放棄し、あの世に生きる神の純粋な入れ物となることで、嵐も稲妻からも遠ざかった幸福を身の内に宿す宗教法人です」
説明の横に、人型が自分のハートの形をした心を、両手の中に包み、ひざまずいて上の方で白く光る太陽だか神だかに捧げている図式が描かれていた。
真ん中のページ。サキ子が言っていた教えの文章が、ヨーロッパの王族か貴族様が使うみたいな金の華麗なデザイン枠の中に納められて、尊ばれている。
右のページ。三枚の写真が上から並んでいる。一番上は、透けたレースが重ねられたロングの白のスカートに、珈琲色のブラウス。薄ピンクのカーディガンを羽織った、小柄な女性の写真だ。下に小さく、「教祖である巫女」と記されている。黒髪は胸までおろされ、その顔は、白く塗られた、手作りらしきマスクですべて覆われていた。僅かな凹凸やぶつぶつが見つかるマスクは、木でできているようだ。
真ん中は、その教祖に小さめの体育館みたいな広間で信者たちが手をついて頭を下げている写真。写真に写っているのは、十五人ほどの男性の信者に見える。写真からはみ出たところに信者はまだまだいそうだ。きちんと並んで頭を下げる信者の頭頂部の側に向かって、椅子に座った教祖が手を軽く上げて掌を信者たちに向けていた。教祖の顔はよく見えない。
ぼんやりとしか映らない顔は、なんだか華のない顔立ちを思わせるが、実際のところはよくわからない。
教祖の後ろには壇がある。そこで高いところから信者たちに話をすることもあるのだろう。
一番下の写真は、信者の男性らが、もやしの収穫をしているところだった。
「ふうん」
顎に手を添えて、パンフをちゃぶ台に置いた。宗教法人の登録も佐藤に確認させておこう。
布団に入ろうとしたが、その前にちゃぶ台に手を伸ばして、パンフを鞄の中に大切にしまった。
眠りに落ちる前に、布団に入ってから、一樹は、布団の中で胎児のように膝を抱えた。
ごはん、美味しかったな。
そのうち、意識が水のように揺れて透明になっていき、いつの間にか眠りに入った。




