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透子から教えてもらった住所は、「徳島県笹の郡ささ野町谷下東一七」であった。遺体を引き取ったのは、山辺敏彦の母親の山辺サキ子だ。家に表札が出ていればいいが。
飛行機の中で民泊に予約を取っておいた。写真で確認したところ、海辺の潮風に強そうなこじんまりとした二階建ての家で、屋根は黒い瓦で葺いてあって、みりんでも干していそうな雰囲気だった。一樹はささ野町内のその場所に荷物を置きにいった。
タクシーから見る風景は、灰色の家と小さな会社の社屋、空の色も薄いような殺風景な田舎町だった。自然豊かというわけでも田園風景があるわけでもなく、日常の回転以上の価値やそんな情緒や享楽に縁の無さそうな、ただ寂れた、もしくは最初から何の特徴もないような地域に見えた。
短い橋を渡った時に見えた川の水量は少なくて、夏なのに凍えそうな冷たさを想像した。
民泊を経営する民家には、名前の表札の上に「民泊 徳や」という、看板というより同じく表札が出ていた。
乾いた松ぼっくりを踏み崩して、チクチクしそうなその松の尖った葉先を避けながら、門から玄関前まで歩いていった。
落ち着いた和テイストの庭の土の色と一本の樹だけが彩っていた。
スチール素材にすりガラスがはまったドア横のインターフォンを鳴らす。三回鳴らしたが、応答がない。取っ手を引くと、開いた。
ほとんど普通の家の狭い玄関に立ち、「ごめんください」と叫ぶ。三回叫んだら、
「あー、はいはいはい」
目の下がたるんだ、パーマがくるくるしたぼさぼさ頭を後ろで引っ詰めたおばさんがやって来た。
「どちら様でしたっけ?」
腹が立つほどではないが、うやうやしさもほぼない態度で聞いてくる。
「藤堂です」
「あー、そうそう。予約してますか?」
「してます」
「ちょっと待ってね」
どこか蟹を思わせる足どりで奥に掛かっている達磨模様の暖簾の向こうに消えていった。
達磨が空しく揺れている内に、戻ってきて、
「あー、あったわ、あった。ネット予約で予約があった。上がって下さい」
スリムな形状だが、歩きやすいコロンビアのシューズを三和土に脱いだ。よく見ると、モルタルタイルが並んだ玄関は、土で汚れていた。建築材の臭いと混ざって、東京のアパートの木の下よりも清潔な臭いがして、何となくすっきりした。板が気持ちよく掃除されてつるつると光る上がり框に出されたスリッパに足を滑り込ませると、スーツケースを手で持ち上げて、案内された二階の一室に入った。階段を上がり切った時に二階の突き当りにトイレがあることを確認した。軽い木製の戸を手前に引くと、部屋は五畳の畳の間で、左手に床の間と押し入れ、奥のガラス窓にはカーテンが右脇にまとめてくくられていた。床の間にはアヤメが一輪活けられている。畳の床はきれいに掃除されて水拭きもされているようなのに、床の間はうっすらと埃がかかっていた。花弁に埃がついたアヤメが、粗末にされていじけているみたいに見えた。折り畳み式のちゃぶ台の円形の台が平和そうな顔をして、その台の上に鏡台代わりの卓上ミラーが置いてあったが、部屋の隅にもスリムな姿見鏡が肩をすぼめるようにしてやや壁の方を向いていた。布団を敷くのは自分でやった方がいいかとおばさんが聞くので「はい」と答えておいた。
「お夕飯食べる?」
もう十九時半を回っている。
「お茶漬け下さい」
「刺身と天ぷらならすぐに作れるわよ。ハモ食べない?」
「急いでいるので」
「そう。じゃ、お茶漬け持ってくるわ」
おばさんは部屋を出て扉を、音を立てないようにしなやかに閉めていった。
男でも女でも中年の品位の一端はこういうところに表れ出るような気がする。一端が良ければ、全部が上品とは限らないけれど。
星は見えないが、民家のアンテナがところどころに空を刺しかかっているのは見える日の落ちた暗闇の景色が、冷え冷えと窓枠に切り取られていた。質素でこざっぱりとした麻のカーテンの横をすり抜ける景色は空しくもあり、ささやかさにも光っていた。
お茶漬けは三分でやって来た。さっきのおばさんがお盆に載せて、丼用の大き目の椀にたっぷりとご飯を入れてきた。梅とシャケのほぐしたものに、香りからして飯を浸すお茶は昆布茶だ。ちゃぶ台に置いてくれると、カタリと台が鳴った。一樹の腹の虫も鳴った。
「部屋の鍵はお椀の横に置いておくね。玄関は開けっ放しにしてるから、勝手に行って勝手に帰ってきてくれればいいですからね」
「どうも。ありがとうございます」
どこかいそいそした様子で、おばさんは部屋を出ていった。
一樹は、ちゃぶ台の前にぺたんと座って、お茶漬けのお茶を啜った。すぐに箸を手にして、まさに腹の底の食欲が口を通して吸収するように、一気にかき込んだ。
羽田空港の売店で買った、三個パックの酒饅頭は、既に一樹の頭と身体のエネルギーとして消費してしまっていたようだ。
急須のお茶を空になった丼に注いで、飲み干すと、一樹は口を手の甲で拭った。
A4用紙の入る合皮の四角い臙脂色の鞄を肩に引っ掛けて、部屋の鍵を持って立ち上がった。廊下に出てきちんと部屋を施錠する。
満腹感からくる幸福な頭のぼけ具合を、首を右左と横に折り曲げて振り払ってから、階段を下りた。
玄関ドアの取っ手をガチャンと下すと、テレビの音が聞こえてくる横の部屋から「いってらっしゃい」という声が耳に届いた。
「行ってきます」
とは言わずに外に出た。
いつの間にか、雨が降り始めていた。
傘を差すと、視界の上端が傘の色の濃い布で切り取られる。一樹がこれから事実を切り取りに行くように。
道路に出て左に折れると、右手にスダチの果樹園が道路脇に長く続いていた。夜の暗い中で、わずかに青みを残して目に映る。もぎ取って口に入れたら、爽やかに酸っぱいだろう。柑橘の自然のソーダ水が弾けるような匂いが道いっぱいに広がっている。胸いっぱいに吸い込みたいが、そんな爽やかな気持ちになったら、今回のこの仕事は上手くやれないだろう。
橋を渡って十分ほど歩くと、もう目的地に着いたと、道案内をしてくれていたスマホの画面が教えてくれた。
不安になるほど便利な世の中だ。すぐそばの草っ原になった土手に一軒の家が危なっかし気に建っていた。古い、二階建てではあるが土地面積はかなり狭そうな、つまり全体的に狭苦しい印象のトタン屋根の一軒家の玄関前に近づいて、かすれた表札の文字を読んだ。よく見えないので、スマホのライトを当ててやった。
うっすらと、「山辺」とあった。
ここだ。ここが、事実に突っ込んでいく穴の入り口だ。
インターフォンを押す。ピンポンという音は、自分のいるところには聞こえない。再び押そうとして、息を吸い込んで、落ち着いてからもう少し待つ。やはりまた押そうというところで、
「はい」
とインターフォンからやや暗い感じの女性の声が聞こえた。
「お忙しいところ失礼します。私フリージャーナリストの藤堂と申します。お話をお伺いしたくて参りました。今日だめなら明日、明日だめなら明後日、明後日だめならその次の日にでも伺いたいと思っているのですが……」
「息子のことですか?」
一樹は息をのんで、
「そうです。真実を追求するために来ました」
「今開けます」
はじめの扉は容易く開けられた。
薄茶色の壁に囲まれた居間の中心には季節外れの炬燵があった。コンセントは入っていない。横壁の箪笥は真ん中の引き出しが消えていて空洞が開いていた。上の方の閉じかかった引き出しに衣類の布が挟まっていて、部屋を這うようにテレビがほとんど聞こえない音量で流れていた。居間との間に摺りガラスの引き戸を挟んで、台所があった。台所の横手、玄関から奥の方に部屋が一部屋あり、その扉はぴっちりと閉じられていた。
「お座りください」
山辺サキ子は厳しそうな猫みたいな目をした老婆だった。ほうれい線が深く、その割に頬がこけている。髪はきちんと黒に染めてあって、後ろで茶色のゴムで一つに束ねてある。背筋を伸ばしては、段々と曲がっていき、曲がっては気が付いたように伸ばしていた。
一樹は床に腰を下ろして、仕方なく足を冷たい炬燵に入れた。
山辺サキ子が、台所から両手に麦茶の入ったグラスを一つずつ持ってやってきて、グラスを自分と一樹の前に置いて、自分も腰を下ろして炬燵に足を入れた。
「ハァー」
山辺サキ子はグラスのお茶を半分ほど飲んで、大きく息をついた。
「その箪笥ね」
サキ子が、目線で一樹の注目を箪笥の方へと促す。
「はい」
「真ん中は息子の服が入ってたの。まだ息子の部屋には残っているんだけれど、こっちに入っていたやつは、引き出しごと捨てちゃった」
「どこに捨ててんですか?」
「山ん中。不法投棄だね」
この老人が、幅一メートルより少し足りないくらいの箪笥の木製の引き出しを抱えて、山まで歩いていったのだろうか?
「歩いて?」
「そう。歩いて。真っすぐ歩けば、山にぶつかる土地だから。山でなければ海にぶつかるから。ただ家の前の道を真っすぐ歩いていっただけ」
サキ子が玄関のほうを指し示した。
「息子さんが自殺と判断されたということに疑問はありませんか?」
「新聞にね」
サキ子が首を傾けて、その首の後ろの横のほうを右手で掻く。猫のような目にうっすらと涙の膜が張ったように見える。
「『薬物による自殺』って書いてあったんだ。でもね、帰って来た息子の死体には首に紐が巻き付いたような跡があったんだよ。何か、言いたかったよ。警察に。それなのに警察は、『自分たちの判断に疑義を挟むようなら公務執行妨害で逮捕することも厭いません』だってさ。逮捕されても『なんとか妨害』でもどうでもいいから、警察署まで文句言いにいったら、弟に連絡されて、連れて返されちゃった。『死んだ人間のことは諦めろ』って、弟に帰りの車の中できつい説教食らっちゃって。『有罪になったら、罰金払う金あんのか? 俺らや俺の子や、ほかの親戚連中に迷惑かけるのはわからないのか』って。過ぎたことを過ぎたことで済ますなら、そのお巡りさんたちは、それこそ税金ドロボーなだけだよね? どうやって海辺で首を吊るのさ? 誰かが敏彦の首を絞めたか、どこかで首を吊って自殺した敏彦を海岸に運んだんだろ?」
サキ子の口調はどんどん早くなっていき、最後は哀れを乞うようにまくし立てた。
「もう……、ご遺体は燃やされてしまいましたか?」
「燃やしたよ。親戚連中、さっさと燃やしちまえってな感じで、どうしようもなかった。大体、田舎者は権威に弱いんだ」
サキ子は、空になったグラスを持って、流しに駆け寄った。水道の水が勢いよく出される音がした。円筒のグラスの底に叩きつけるように水が注がれる。サキ子は、水を出しっぱなしで、三杯続けて飲んだ。
潤ったはずなのに、サキ子は上を向いて、水が引っ掛かったようにガラガラ喉を鳴らして大きく息を吸った。
一樹の肩が、裂けそうな空気に触れて僅かに震えた。一樹は、質問を畳みかけず、サキ子が話を続けるのを待った。彼女には、まだ言いたいことがありそうだった。
「息子が……、敏彦が死んだのは、頼所教のせいだ」




