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デパートで買ったトマトソースにチーズを載せてトーストした食パンを二枚食べ切った時に、家森からメールが入った。
「警察が全く表立って動かない」
スマホを置いて、持っている中で一番警戒心を抱かれないママさんブランドの半袖カーディガンを羽織って外に出た。最寄りの神田警察署に行くまでに不安げで心配げな顔を作った。
自動ドアをくぐって真摯な丸い目を正面の受付の若い男性警察官に向けた。受付や警察署に入るドアの出入りは活発で、横を通る背筋を伸ばしたミニスカポリスがいやに眩しかった。警察署は、清潔で世間の風が吹き込む、四角い箱だ。役所というのは、華美にもならなければ、殺風景にもならない。さらっとしているのに押しが強い、犯罪者には敵わない集団だ。犯罪者じゃなくても敵わないかもしれない。
「昨日、自分のアパートで男性の身体の一部を発見して通報した者です。ニュースにもなっていないけれど、どうなったんでしょうか? 気になってしまって……」
「どこのアパートですか?」
「この近くの『コーポ大西』です」
「はい。わかりました。昨日の記録、昨日の記録……」
警察官はパソコンで検索をかけた。
「昨日は……、そんな事柄はないですね。付近の警察署の方も聞いてみましょうか?」
「お願いします」
若い警察官は、その時受付に入ってきた私服警官の背の高い女性に声を掛けた。
「あ、横さん。昨日って男性の身体の一部が発見された事件ありました?」
女性は、一樹の方を一瞥してから若い警察官に聞いた。
「一般の方?」
「発見者の方です」
女性私服警官は、一樹の方に寄ってきた。
「すみませんが、一般の方に捜査情報を漏らせませんし、そもそもそんな事件はありませんよ」
「は?」
女性警察官はわざとらしい憐れみの目を向けてきた。
「昨日は、事件とかそんなものはなかったです。あれば、私が知らないはずありません。何かご病気でもお持ちですか」
瞬きした一樹に、若い警察官は、慌てて
「すいません。捜査情報を言えないので、お引き取り下さい。ごめんなさい!」
と言うので、一樹は女性警察官をねめるように睨みつけてから、警察署を後にした。
警察署内で、情報の行き違いでもあるのだろうか? それとも管轄がこの警察署ではないのか? まさか、警視庁? にしても最寄りの警察署がまず事件に関することを一旦回収しているだろう。昨日の禿げおまわり二人は、他の警察署の人間か?
近くの他の警察署にも同じ聞き込みを掛けたが、
「そんな事件はない」
との回答だった。家森からは、また
「警察が全く動いていない」
とメールが入っていた。夜になってから、電話を掛けた。
家森は2コールで出た。
「何か分かったか?」
こっちが聞きたい。
「何も。警察にそんな事件はないって言われました。家森さんの馴染みの刑事さんから何か聞き出してもらえませんか?」
「今、何か教えてほしいと頼み込んで、飲みに誘ったところだ。そろそろ行かなきゃならんから切る」
深夜の一時に家森から連絡があった。
「俺のオトモダチの刑事さんは、俺がお前に騙されてるって言ってたぞ」
「騙してませんよ。その刑事さん、何も知らないんじゃないですか?」
「PCさらって調べてくれたそうだ。近くの警察署にも聞いてくれたらしい。そんな事件はどこにも存在しないと」
そんな馬鹿な。
「じゃあ、家森さん、私が嘘を吐いてると?」
「吐いてないだろうなあ、お前は」
家森は、電話越しに息が吹きかかるようなため息をついた。
「聞き込みはしてるか?」
「してますよ。収穫なしです。誰かが何かおかしなことをやったのなら、夜中じゃないかと思うんですけれど、徘徊とかはしょっちゅうあるらしいし、それ以上の不審人物は見かけられてないそうです」
「穴掘ってたとか」
「だからありませんて。警察が相手でないと、付近の防犯カメラも誰も見せてくれないそうです」
「なんとかしろ」
「なんとかって……」
「ふざけんな! 昨日あたりからお前じゃなくて、俺たちが『噓つき週刊六花』ってネットで叩かれてるんだぞ! 他の雑誌もそういう方向だ!」
「あ……、それはホントに……」
「いいか。一から十までお前の責任だ! 全部さらって、チンポの入ってた穴を舐めてでもいいからあらゆる確認を取りまくれ!」
恐ろしい恫喝と共に電話が切られた。
泣きたくなる前に、腹が減って、とりあえずパスタを茹でて、市販のミートソースをかけて食べた。こうなると、一樹はいくら食べても腹が満たされない。
また太る。誰のせいだ。
いや、今回は私のせいだろう。
そもそもどうして私は、穴の中にあった男性器を撮らなかったのだろう。
中途半端な抜け作のクズ女め。
やって来た二人の警察官の名前も、見せられた手帳で上手く確認できなかった。所属も聞かなかった。
クズクズクズ。
しかし、聞けば丁寧に教えてくれそうな態度でもなかった。意地の悪い不親切な警察官たちだった。
私が悪いのか? 仕事ができない。ジャーナリストのスキルが足りない。
私がもっと汚らしくて、偉そうなオッサンの姿をしていれば、こう馬鹿にされないのだろうか?
そんなことを考えつつも、一樹は、懐中電灯と、ピンセットと親指くらいの丈のジッパー付きビニール袋を持って、ビニール軍手をはめて外に出て階段を下りた。ビニール袋はほとんどもう使うことのない古いSDカードを入れてあったものだ。SDカードはハンコ類をしまってある小さな引き出しの中に出してきた。
自分の外にある、するべき仕事へと意識が向かっていって、腹も脳も満たされていく瞬間。
懐中電灯を古い樹木へ向けた。夜の不気味さと狂気を詰め込んだお化けみたいだ。ぼこぼこと沸騰したように節くれだった醜い枝をうわっとばかりに広げて。
一樹はそれを見上げながら微笑んだ。天使とも悪魔とも取れる「受容」の微笑みで。
樹木の下に跪いた。被せられた柔らかい土だけを取り除くと、一昨日と全く同じ穴の様相になった。穴そのものだけは。懐中電灯でその中をくまなく照らしていくと、半透明や茶色の皮膚片らしきものが、結構たくさん見つかった。
まあ確かに性器が丸ごと発見されたのなら、警察もチマチマした皮膚片をわざわざ回収する必要はないか。
小指の先ほどもないその皮膚片を十つくらい、ビニール袋の中にピンセットでつまんで入れた。
部屋に引き返して、使ったビニール軍手をコンビニのレジ袋に突っ込んで口を念入りに縛って、ゴミ箱に放り、ピンセットをハンドソープで入念に洗った。性器を掴んだ時より、おぞましさは大分少なかった。
「ジャーナリズムは鮮度が命」
スマホを手にして呟いて、高校からの友人に電話した。
「もしもし」
「『もしもし』じゃないわよ。何時だと思っているの?」
大学の理系の学部を出て、警視庁で鑑識の仕事をしている友人の透子は、口調に抑制を利かせながらも怒りを口にした。
「ごめん。でもさ、『ジャーナリズムは鮮度が命』だから」
「何の話? また電話されるよりは、今聞いた方が早いから聞くけれど」
「こっそりDNA鑑定してほしいものがあって」
「父子判定? そういうことしてくれる機関があるでしょ。公務員がそんなこと勝手にできると思ってるの?」
「ううん。警察のデータベースと照合してほしい」
「いやよ。鑑識は組織の命令で動くの。その設備は警察の捜査のためにあるの。あんたの指示で勝手に使えない」
「真面目なこと言わないで」
「真面目だから。私」
「一昨日……」
「ん?」
透子が聞き返した。彼女は真面目な割には好奇心が強いのが玉に瑕だ。
「アパートの庭掘ったら、男性器が出てきた」
ふーと息を吐くのが聞こえた。
「嘘吐かないで。どうせ芸能人の息子が犯罪者かも知れないとか、そんなネタを追っているだけでしょ。それで確証を得るために私を私用の鑑識として利用しようと……」
「ホント。でも、通報してから警察署の方を探ったら、そんな出来事は抹消されてた。警察は何か隠そうとしてる」
「メディアは?」
「私は記事を書いて編集部に送ったけれど、他の雑誌とかネットからは『噓吐き』ってことになってる」
「記事は匿名で書いたの?」
「名前は書いといたけれど、編集長が消して載せたかも」
「雑誌名は?」
「週刊六花」
「見ておく」
「八月二十五日発売の今週号」
「分かった」
「DNAは?」
「サンプル、私のマンションのポストに入れといて。もう寝るね。おやすみ」
通話が切れた。
物事を後回しにするのが嫌いな透子は、朝にポストを確認してくれるだろう。透子のマンションに、ポストに皮膚片の入ったビニール袋を入れるためだけに行った。チャイムも鳴らさずに、集合ポストのところにだけ寄って、すぐに夜道を歩いて帰った。
なるべく、飲食店が営業していたり、車の往来があったりする明るい道を選んで帰ったが、自宅アパートの付近には、夜には人が全くいなくなっているみたいな、家族全員が寝静まっているらしい健康的で道徳的な民家が並ぶ、暗い道しか選べなかった。
徘徊も不審人物も見つけられなかった。
セブンイレブンで、缶ビールとさきイカを購入して、アパートの鍵を開ける時、何となく背後を振り返った。外廊下の手すりに手を置いて、自分が掘ったままの樹の根元を見下ろす。夜明けにはまだ時間は早くて、暗い木の下の影に穴があるのかどうか、ここからは分からなかった。
穴を埋め直しに行く気にもならず、むしろそのままにしておいてやれ、という気がして、放っておいて、ガチャンと鍵を回して、部屋に帰った。
さきイカを噛み千切りながら、缶ビールを一本飲んで、苛立ちに似た興奮が溶けてきたところで、浴室に入りシャワーを浴びた。
ぬるめのシャワーが肌を打って、慰撫してくれるに任せていると、下腹部にころんとしたものを感じ、下を見ると、生理が来ていた。足の間から出血して、お湯が滑る床を彼岸花のおしべのような赤い筋が排水口へと、その筋を伸ばしながら流れていった。
睡眠を摂ってから、支度をした。今日は八月二十六日。陰部発見から二日後だ。透子のマンションにサンプルを届けに行ってから日付は変わっていない。
今日と次の日の午前中、範囲を広げた周辺民家と通行人への聞き込みに費やした。ただ一つ気になった話は、一樹のアパートを挟んで、透子の家からの帰り道にビールを買ったのとは逆方向のセブンイレブン前で捕まえた二十代の男性から聞けたことである。
「一週間ぐらい前かな? 夜中にコンビニを出たら向こうの歩道を中年のおじさんが歩いていたんだけど、黒っぽい服を着て目立たないようにしてるのか、肩を狭くして少し斜め下を見てて……。それはさ、夜中に遊んで帰る感じのおっさんによく見る感じだから普通なんだけれど、歩き方がびっこを引くのとも違うし、足を怪我しているのか、何だか分からないけれど、腰を上げているような下げているような……、下げているのかな? 歩幅は狭いし、コンビニの明かりが届かないところに歩いていくまで、俺はコーヒー飲みながら見てたんだけどね。重そうなちょっと湿っている感じのものが入ったレジ袋ぶら下げてたね。まあ、ちょっと気持ち悪かったかな。表情も暗くて土気色だったし」
「何曜日か、分かります?」
「えー、いや、ちょっと、火曜日だったかな? いや、金曜日の休日前のような気もするし。あれ、土曜日だったかな?」
「分かりました。時刻はいつ頃か記憶していますか?」
「うーん……」
彼は首を捻った。
そんな変な歩き方をする中年の男性がいたら、他にも目撃者がいないかと一樹は考えた。目撃した頃と同じ時間帯の深夜に、そのセブンイレブン前で聞き込みをしようと思っていた矢先、お昼過ぎに透子から携帯に連絡が入った。
「二十二日に徳島県の海岸で発見された山辺敏彦、五十代男性の遺体とDNAが一致した。おかしいよ、これ。ろくに調べもせずに、すぐに自殺と断定されて、次の日に遺族に引き渡されてる。死因は薬物中毒になっているけれど」
「発見された場所は?」
「鳴門市の大毛海岸」
「遺族の住所分かる?」
「分かるよ」
「教えて」
一樹は、机の上のメモパッドに、ボールペンで教えられた住所を書き留めた。
「ありがとう」
「一樹」
「ん?」
「気を付けて」
分かったとだけ言い、電話を切った。
家森に電話したが、何度掛けても通話中だった。
昨日からニュースは、渋い男前の六十代の人気俳優が、マッサージ店で施術中にたまたま店内に若い女性マッサージ師と二人きりになったところ、いきなり彼女を押し倒して強姦したという話題がひっきりなしに取り沙汰されている。
家森も、一日の号は、それをセンセーショナルに取り上げるつもりだろう。おそらく、それに関する様々な事実確認や、俳優のテレビに出ていない時の顔についてなど、あちこちに連絡を繋いで、走り回って、ライターや編集者を急き立てては仕事をさせているに違いない。
もう一度電話したら、通話中にはならなかったが、受話しないで切られた。
週刊誌の評判を落としたクズ女の電話に出る余裕はないそうだ。
外から雨の音が聞こえて、開けていた窓を閉めた。湿気に犯される前に、スマホで飛行機の時間とチケットの空席を確認した。冷凍庫まで突進して、一口チョコを口に放って噛み砕きながら、十四時五十四分の高松行き、普通席を押さえた。
噛み砕いたチョコレートの余韻の味を唾で飲み込み、小さめのスーツケースに下着だとかなんだとかを鷲掴みで突っ込んで、引っ越してからアイロンをかけた白のジャケットに手を通して、骨のしっかりした黒い傘を差して、メトロへと足早に駆けるように向かった。




