14
一樹は、目を逸らすように背中を向けて、玄関から出た。
清潔なのにどこかむせ返るような苦しい家だった。傘を差して門を開けると、雨音が耳に響いて、水の気配が大気に満ちていた。
毒花の香りを流してくれているようでほっとした。胸の中のガスを吐き出すように深呼吸した。
歩いて宿に戻りながら様々考えようとした。でも、なんだかあてられたように頭がぼんやりして、そのぼんやりさせられることに、何か腹が立つ。
佳奈子に悪意はなかった。心の底から素直に、娘のまり子は「可愛いお人形」であるべきと思っているのだ。
吐き気がするように苛立つ感情が湧いた。その悪意のなさ、当然の態度を取っているとしか思っていない了見でいるらしい、その母の顔を張り倒したかったと思った。
来た道を戻り、宿に返った。一樹が玄関扉を開ける音を聞きつけて、おばさんがテレビの部屋から出てきた。濡れた傘を木筒のような傘立てに差し入れた。
「おかえり」
「どうも」
濡れた手をエプロンのポケット部分で拭いながら、おばさんは、
「いっしょにいた男の人は帰っちゃったけれど」
「そうですか。ありがとうございます。私も今日帰ります。お昼ご飯を頂いてからのチェックアウトでお願いします」
「あっ、そう? 何食べたい?」
一樹は一瞬間、顎に指をあてて思案して、
「ハモの天ぷら食べたいです」
と、リクエストして部屋に上がった。メールを確認すると、家森から一件入っていた。
――交番の巡査から、通報を受けて見に行った死体には首に締まった痕があったと証言を得た。その他の証言や供述はなし。先に東京に帰る。
携帯をしまって、畳を指先で撫でた。清潔で細かな指触り。立ち上がって窓に鼻先を押し付けながら、どこか名残惜しさを慰撫した。
乗客もまばらな飛行機から降りて、音を立てながらスーツケースのタイヤを無理な方角に曲げて軋らせた。羽田空港のロビーをベンチまで走って横切って、そこにどかっと座った。周りが行儀の悪い女だと白い眼を向けるのも気にせず、スマホを開き、息をいくらか切らせながら警察庁長官について調べた。Wikipediaに情報があった。集団になった男性の群れや、一人で行動する男女や、年配の女性たちがつるつるした床を鳴らして歩いたり売店を渡ったりする中で、誰かがわざと目の前を嫌がらせみたいに横切った気がした。どうぞ。ご勝手に。私も勝手に。
蒲生良。平成二十八年に任命され、その後異例の任期の長さで現在も警察庁長官を務めている。東京大学法学部卒業。長野県警察本部本部長、警察庁次長、その他数々の華々しい地位を経て、今現在に至っている。
ここ三十年間の歴代長官に、蒲生姓はこの人だけだった。
顔写真を探した。如何にも役人風情とした顔立ちで、額が広く、頭頂部の髪の毛は浮き上がって薄く、小魚のような目がつまらなそうにこっちを見ていた。黄土色の唇は閉じて両端が厳めしく下がり、鼻が大きく、てかっていた。全身写真もあった。肩ひじ張った小男だった。
「鼻が大きい男は、世間体を気にする上に威張りや」とどこかで聞いたことがあるが、一樹はその何の根拠もない話を信じるわけではないが、「鼻が高い」のではなく「鼻が大きい」顔は個人的に嫌いだ。
なんとなく顔立ちの大して良くない顔の人、特に男は権力を得られているように見えるのは気のせいだろうか? 顔に自信のある――例えば家森のような――男は、自分自身だけで充足できるし、自由である分後ろ指差された時にも案外強くいられる気がする。
因みに、家森のいる有名出版社のにちゃんねるを覗くと、男女両方の社員からの家森へのバッシングと脅迫に近い罵倒が溢れている。でも、本人は気にしたこともなさそうだ。むしろ少し屈曲したナルシストなので、自分がそれだけ人の気持ちに入っていっていることについて、おかしな(変態じみた)満足を得ているかもしれない。
――権威と権力は最強の付加価値だもんな。見目で勝負できない奴にとって。なんて、見た目ばかりで判断するのも極端か。
しかし、この蒲生良が蒲生まり子の犯罪をもみ消していると見て、おそらく間違いない。
新宿線の地下鉄の車内が混んでいて、スーツケースを持つ一樹は、周りにいたサラリーマンに露骨に迷惑そうな顔をされた。満員電車で、女子高生らしき足にスーツケースを蹴られた。わざとか? そんなこともあったし、乗り換えもしたし、今日の仕事で十分疲れているはずの一樹だが、力がみなぎったように階段を意気込んで片手でスーツケースを持ち上げて上がり、アパートの部屋に帰り着いた。気持ちの悪いものが埋まっていた樹木には目もくれなかった。PCで家森にメールを打ってから、どこかの社長に売ったというこの辺にある蒲生まり子家族が住んでいた家を探した。ネットの地図と写真を印刷して、仕事着にサンダルで外に出てどの家か確認したら、あの唯一ある立派な豪邸だった。
――すぐに分かった。というより、そうだろうと思っていた。
晴れた明るい夕日の下で、誰もいない、掃いたような道路に立ってそのことを確認しているとき携帯が鳴った。家森だった。
「帰ったか?」
「はい」
「蒲生親子が住んでいた家がどれか確認できたか?」
一樹はその屋敷に向かって首肯した。
「はい。この通りで一番立派な、防犯カメラが玄関に取り付けてある家です」
うんと家森は唸った。
「その売却した家の現在の持ち主には俺が話を聞きにいく。お前は、何もしなくていい。手柄はちゃんとやる。お前の名前も載せるし、ギャラも弾む。だから取り敢えず待機だ」
「えっ……? なんで、嫌ですよ。絶対、手柄横取りするでしょ?」
「横取りしたら、俺の年収を半分やる。念書書こうか?」
「いやいやいや」
「じゃあ、お前これ以上何ができる?」
「だから、前に蒲生まり子が住んでいた家に今住んでいる人に話を……」
一樹は当惑しながら抗議したが、携帯から耳にため息が吹き込まれて、少し身を固くした。そして腹が立って、喚こうかと思ったときに、家森が懇願し始めた。
「頼む。その家に監視カメラがあったんなら、なおさら、俺が話を上手く運びたい。一人のほうがいいし……、それに、俺、またお前の救出劇したら今度こそ捕まるよ」
一樹は赤面した。確かに家森に対しては、この場合無理を通せる立場にはない。
「分かりました」
電話を切った。夕焼けに群青色が流され、夜の準備をする空の下で、一樹は思い通りにならない現実に、
空腹を覚えていた。
八月末日。一樹は、透子を誘って新宿のとんかつ屋に来ていた。落ち着いた淡い色の羽目板の壁に囲まれた店内で、一樹はロースかつを貪っていた。朝の七時に透子に
「今日、非番?」
と電話したら「そうだけれど」と返事があったので、
「今からとんかつ食べにいこう」
と、モーニングの誘いをかけると、
「どこの世界に朝からとんかつ食べる奴があるの? 胃もたれするよ。大体、こんな早くからとんかつ屋やってないわよ。ランチにして」
と、一喝されたので十二時に新宿駅南口で待ち合わせて、休日は何枚か持っているひらひらと風にはためくワンピースのうちの一枚に、丈が胸までしかないエメラルドグリーンのシャツを合わせると決めている透子がやってきたのを見て、手を振った。
「早く行こう。腹減って仕方ない」
一樹は透子を促して、足早にとんかつ屋「一舟」にたどり着いた。
注文をしてからは、特にどうでもいいことをしゃべり通しで、ロースかつ定食が目の前に運ばれてきてからは、怪獣みたいにかぶりつく一樹に、透子はしばらく何も言わなかった。
「ねえ」
やっと透子が話しかけると、深皿の中の網の上に乗ったサクサクのきつね色の衣に口の中を涎でいっぱいにさせる肉の味を閉じ込められたとんかつをほとんど食べ終わって、法悦したような表情の一樹が、
「ん?」
と、熱いお茶を啜りながらやっと透子の顔を見た。
「どうなの? 不審遺体の件。海岸の」
「んー。記事にできるだけの材料は十分集めたよ。きっとニュースにも取り上げられる」
「また手柄取られたの?」
「ううん。家森はそこまでの非常識じゃない」
「あっ。家森さんとこの雑誌か。『週刊六花』って」
「そうそう」
「あんた家森さんと仕事するといっつも太ってない?」
「いやあ。もっと太る相手いるよ。前の出版社では、誰かとコンビ組まされる度に太って、記事をまとめる日に痩せていってた」
「なんで?」
「だってストレスあると太るし、仕事が形になっていくのを見ていると食べなくてもお腹一杯になるし」
透子は、労わるような呆れるような目をした。
「そんな繊細な神経の持ち主なら、もっと可愛げのあるもん食べてたらいいのに」
「オーガニックとか?」
一樹がそう言うと、二人して、
「オーガニックきらーい」
と声を合わせて叫んでケラケラ笑った。
「外食で身体にいいものばっかり食べたくないって。大体美味しくないし。生野菜つまむのウサギみたいだし。値段高い上に食べた気がしない。身体にいいらしいのに胸やけがする」
「そうそう。ミックスジュースも嫌い」
「スムージーだって」
一樹が突っ込むと、透子は、最後のヒレカツの一切れを箸で取って、むしゃりと口の中に入れた。
「美味しいよねー」
二人で笑った。オーガニックを食べる努力をしないからこその今の自分の体たらくなのだろうが、結構だ。自分はそうとして、透子はスムージーを飲まなくても異性にもてる。何となく透子がもてる理由は一樹にも分かる。
カウンターの隣の席で質素な身なりの老夫婦が、静かにゆっくりと、でも愉し気にエビフライとメンチカツを口に運びながらにこにこと頷き合っていた。静かに、でも確かに自分の歴史を胸の海に沈めた後の余生が、優しく賢い顔に表れていて、塗り重ねた油絵のような美しさがあった。
今日の透子のワンピースは、腰にギャザーが入っていて、白地に黒の×模様が全体に散ったシンプルだが可愛いデザインの、足首まである服だった。襟は横にまっすぐカットされている。
透子は自分より強くてしなやかに生きている。割り切れない思いを消化できずに、いつも腹を空かせている一樹にとって、透子は賢くて優しい心強い存在だ。
納得できないことを「しょうがない」と言えない一樹を、透子は決して馬鹿にしない。
大学時代から始まった友情は、肌に馴染み、気の置けない間柄となった二人だから、一樹が仕事やそれ以外のことで透子に甘えてしまう時、透子は呆れて腹を立てても、二人の関係にひびが入ることはない。
DNA鑑定の件では世話になった。だからここの支払いは、今日は暗黙に一樹がすることになっている。
「ごちそうさま」
と、透子は一樹に手を合わせた。
「いいえ」
透子がお茶を飲み終えて、湯飲みを壁と同じような材質のカウンターの上に置くと、いっぱいになったお腹をさすっていた一樹は、
「さて」
と会計をしに立ち上がった。
「三千円です」
「あっ。値引き券使います」
一樹は財布から百円値引き券を出して、千円札三枚とともにお金を入れるトレーに載せた。
「ありがとうございました」
会計は、白い調理用の帽子を被った、真っ直ぐこちらの顔を見る、若い男性の店員がしてくれた。彼の挨拶に見送られて透子が明けたドアから外に出ながら、お釣りの百円を財布にしまった。
「どっか寄る?」
店の前で一樹は透子に一応聞いたが、
「ううん。一人で本屋寄って帰る」
と大抵のパターンと同じ返事がきたので、一樹も
「そうしよう」
と答えて、二人は別れた。一樹は駅のほうへ戻って、アルタの側に出た。混雑を避けながら歩いて、果物屋で串刺しのパイナップルを買おうと思って、止めて串刺しのメロンにした。
メロンにかぶりつきながら、何の用事もない通りをそぞろ歩く。シューズショップに、不動産屋、電子タバコの専門店など、灰色に薄汚れた店が白い壁に仕切られながら並んでいる。ビニール布の赤い庇も黒ずんでいる。それでも用事のある人には便利なはずだ。大体この街にあって、外壁を汚さないように気を付けるのは高級店のみで十分だろう。汚れやしみのついたカラフルさが、この街の持ち味でもある。
既に満腹だったせいか、それそのものが美味しくないのか、まるで白い色水から浮き上がったような緑色をしたメロンを
不味っ。
と思った。それでも全部食べ終えてから、近くにあった自動販売機横の空き缶用のゴミ箱に串を捨てた。行儀がいいとは言えないが、路上のあちこちにハンバーガーの屑や栄養ドリンクの瓶、何冊ものボロボロになった漫画雑誌が風に転がされているのを見ると、どうにもそこまでの罪悪感も抱けない。
でも、余計なもの食べちゃったかな。
冷たくなったお腹の辺りを押さえると、ここにいるのが現実なのかと思う。昨日までの徳島での取材の日々が現実なのかと訝しむ。
記事にするほどの特筆すべき出来事を扱う仕事をしていると、時々こんな風に足元が雲になったような感覚を覚える。
男物のお気に入りの黒シャツの上から腹をポンと叩いた。
やっぱりメロンは食べるんじゃなかった。
夏の湿気を曇り空が冷やす空気が、一瞬二の腕を冷やっとさせた。
家の最寄りの駅に帰って、近所の本屋で漫画でも買って帰ろう。サイコキラー系かダークヒーロー系の青年誌の漫画がいい。
あっ。ジョジョ。ジョジョもいいな。
なんて考えながら、新宿駅へと後戻りして一樹は駆けていった。電車内はひどく空いていた。冷房が冷蔵庫の中みたいに効きすぎていて、車内にいる若者は一樹と同じように腕をさすり、老年の人は肉が削げた張りのない皮膚を、何も感じないというか諦めたみたいにして、そのままにしたまま目を瞑ってシートに座っていた。
ジョジョ、ジョジョと繰り返す頭の隅で、
「いつかあんな境地にもなるのかな」
と一樹は、何にでも疑問を感じて、そしてその疑問をすぐには閉じてしまわない子供のように不思議に思い続けていた。
線路のわずかな傷や凹みに合わせて揺れる電車の中の空間が広くて寒かった。お腹の中がふわふわっとしてきそうな感じを一樹は抑えた。




