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起きてから海岸に放られていた変死体の他の四人の遺族に会いにいった。全員すんなりと会えた。変死体となって見つかった人間は、その時点でもうほとんど全員が行方不明者扱いとなっていて、彼らが「頼所教」に入っていたと思っている遺族はいなかった。実際入信していたかどうかははっきりしない。しかし、遺体に絞殺の跡が付いているのに薬物死と判断されたことは、全ての遺族の証言で一致していた。

 遺族たちは、疑問には思ったが、言葉通り死んだも同然の人間の遺体だったからとか、警察に疑問を口に出すのが憚られたからとか、言ってはみたが再捜査を警察に拒まれたり、またサキ子と似たように親戚中に警察に歯向かうことを止められたりして、疑いを突き詰めることはかなわなかったという。遺族、特に遺体となった人間の親は、親戚の態度についてとても苦々しい思いを口にする。大体の親類の態度が、

「変死の人間を出した上に、まだ人様に歯向かって迷惑をかけるのか」

 みたいな感じらしい。

 一樹のジャーナリストとしての経験上も、結構、親戚親類というのは自己保身的で、まあ、そんなものだ。

 自分が面倒な思いをするなら、一番傷ついている人間が口を閉ざして心をえぐられたままでいてくれた方がいいのだろう。

 まあ、そんなものだ。

 食事をとる余裕もちゃんと持ちながら、夜の七時半には、全ての遺体の引取人を回り終えて、宿に戻っていた。

 最後の遺族に会いに行くときに、雲がたなびく残暑の夕暮れが、何とはなしに懐かしく哀しかった。食用には見えない小さな赤い実のついた生垣や民家に挟まれた道の向こうに目を細めると、赤紫の空の色が瞼に残って、涙の跡を思わせた。

 下のおばさんに食事を頼んで、部屋に戻ろうと階段に足を掛けた時、玄関の戸が開く調和の乱れたサッシが鳴る音がしたので振り向いた。

 案の定、家森が戻ってきたところだった。肩を回しながら、

「どっちの部屋で話をする?」

 と一樹に聞いてきた。

「昨日と同じく私の部屋で」

 一樹はそう言って、階段を上がっていった。すぐに荷物を自室に置いた家森が、一樹の部屋にノックもなしにずかずかと入ってきた。

「家森さんは、ノックの習慣がないんですか?」

「ないんですよ」

 おどけたように悪びれもしない家森は、座布団に座った。

「まずな、ここから近い、自転車で三十分で着くくらいの場所に蒲生まり子の母親が住んでいる。蒲生まり子は、母親のそばで新興宗教を開いたというわけだな。名前は、蒲生佳奈子。一人暮らしらしい。電話したら、蒲生まり子の母親だとすんなり認めた。あんまり期待して蒲生姓を探していたわけじゃないし、お前の元カレに頼る必要も考えていたんだが。蒲生まり子は、かなりの屈折した女らしいな。もしくは、度が外れて察しが悪いか。蒲生佳奈子に明日伺いたいと言ったら、『じゃあ、明日は出かけないようにしておきますね』だとさ。母親のほうもちょっとねじ飛んでるのかもしれない。一日待っていてくれるらしいから、明日色々と聞きにいってこい。住所は、お前のスマホに送っといた」

 ありがとうございます、と言いながら、一樹は家森からのメールをチェックして、住所の添付を確認した。

 今夜はカツ丼だって、おばさん言ってたな。

 頭の片隅でそんなことを考えていた。やはり、取材をするのに仲間がいるということは、こんな男でも気を楽にしてくれる。

 強張っていたものがいつの間にか溶けていたのを感じた。

「それと、けいさ……」

 家森が言いかけているところで、ノックの音が響いた。

「開けていいかい?」

 おばさんの声が聞こえて、「どうぞ」と答えた。

 一人前のカツ丼とたくあんがやって来て、ちゃぶ台に置かれた。じっとそれを見た家森が、

「俺にも。この部屋に」

 としごく簡潔な言葉で食事を頼んだ。

「先に頼んでおけばよかったのに」

 一樹がカツの入った口で言うと、

「打ち合わせの後に頼んでゆっくり食べようと思ったんだがな」

 と恨めしさの入った呆れた目で一樹を見た。

「食べながらできますよ」

「ああ。分かった」

 家森が、一樹のカツ丼のカツを、一つ勝手につまんでひょいと口にほおってうまそうに食べた。

「ア」

 と一樹が発するのを無視して、家森は食べながら話の続きをした。

「徳島県警察本部で、聞いてきた。大体の警察官の奴ら、自殺だ、自殺だって捜査資料の通りに話すんだけれど、首にひも状の痕があるのは何故かと聞くと、そんな事実はないってその若い奴らが言い張る。だから、刑事課の上の人間呼べって言ったんだ。で、そいつも――験の悪い達磨みたいな奴――を、どう追及してやっても、遺体がないのにそんな証拠もないでしょうって言うんだが、『大毛海岸で見つかった全ての変死体に策条痕があるらしいってご遺族から聞いたんですけれどね』ってかましたら、顔色が変わった。頬引きつらせて、『お前のやっていることは違法捜査だ。逮捕されたくなければ、帰れ』って。俺警察官じゃないのに、めちゃくちゃなこと言ってきやがる。で、そういう時は、女に当たるんだ。若い女は出世のために良心を誤魔化さないからな。特にお巡りさんのお姉さんは正義感でいっぱいだ。こっちをチラチラ見ながらお茶を持ってきてくれた女性警察官の……『竹井さん』にそっっっと、自動販売機のある休憩所の方を指さして来てもらった。で、その子の同僚の『吉田さん』が大毛海岸で見つかった遺体に対する刑事課の応じ方がおかしいって言ってたっていうことを聞かせてもらった。で、その『吉田さん』を呼んできてもらって、珈琲おごって、話してもらった。山辺敏彦の遺体は見つかったら、現場保存もせずに、ビニールに入れられ車で運搬されていき、検視に回された様子もなく、すぐに遺体安置所に持っていかれ、次の日の午前中には遺族に返されたらしい。首にははっきりした策条痕があるのを吉田さんははっきり見たし、たった一枚の捜査資料には『薬物による自殺』と記載されたのを不審に思っていたらしい。さらに大毛海岸で遺体が見つかった他の何件かにも吉田さんは現場に行かされて、同じような処理の仕方をされていたのを見たそうだ。『遺体はおかしかった。こういうことが何件かあった』って誠実に話してくれたよ」

 一樹はほとんど平らげたカツ丼の丼茶碗の残りをかきこんだ。

「分かりました。警察組織が悪そうですね。ところで、家森さんは、吉田さんを褒めてるんですか? けなしてるんですか?」

「別にどっちとも言わん。早くカツ丼来ないかな?」

 一樹が自分のためにお茶を淹れている間に、家森のカツ丼は運ばれてきた。おばさんは、何も言わずに出ていった。

 アツッと言いながらがっついて食べる家森は、一樹に

「お前は明日、教祖の母親のところに。俺は、警察を大毛海岸周辺の派出所あたりも含めてもっと叩いてくる」

 と指示した。

「了解」

 と言いながら、一樹は自分のカツ丼が載っていた盆を持って立ち上がった。

「どこ行くんだ?」

「お盆返してきます」

「俺が食い終わってから、俺の分も一緒に持っていってくれ」

「嫌です」

 大体の話は済んだ。明日の予定も決まった。家森がカツ丼を貪る姿を無言で静かに見ていても仕方がないので、一樹は、盆を返して、涼みながら、玄関の外でレコーダーを聞き返していた。

 足立の声は、家森のそれより、沈んでいて水の底から発しているように物悲しい。

 雲の奥から月の淡い光だけが覗いて、輪郭を隠したままぼんやりと月自身が「ここにいるよ」と言っているように痛々しく健気に、自分の存在に気付いてほしそうな態度を取っていた。

 八月三十日。朝からひどい土砂降りだった。宿の庭の土は泥と化し、水溜りを避けて道路に出た。家森は先に出ていた。

 宿の外に自転車が壁に立てかけてあったので、天気が良ければそれを借りられないかと思っていたのだが、この生憎の雨模様じゃそれはできそうにもない。

 バスの便も調べたが、本数が少なく、午前中に一本もないので、歩くしかなさそうだった。

 一樹は傘を差して行った。叩きつけるようなひどい雨は、雨の匂いをかえって消す。どちらかと言えば、滝の匂いだ。霧雨なら柑橘の匂いも混じったことだろう。

 家森は傘を持参していただろうか? なければ宿に借りただろう。

 一樹は、こういう篠をつく雨が、肩が凝りそうに重たい感じがして嫌いだが、家森が土砂降りの中で、何か目的に向けて大きな傘を差してのっそりと歩いている感じは、想像してみてもお似合いだなと思った。

 そもそも人物像が嵐のようだ。

 宿を出てしばらくまっすぐ歩き続けると、大通りに出た。そこを左に曲がって、コンビニまで歩く。コンビニで折れて少し歩くと、目的地の周辺なのだが、その辺の家を外から調べても表札の出ていない大きな家が三軒並んでいて、どれか分からない。一番右の家の門柱のインターフォンを鳴らす。

「どちら様でしょう?」

 女性が応答した。

「蒲生様のお宅はこちらでしょうか?」

「違いますよ」

「あっ。失礼しました」

 インターフォンは切れた。次に真ん中の家の垣根を抜けて、玄関のインターフォンを鳴らすと、思ったより大きなピンポンという音が響いて、少しびくりと驚いてしまった。横に構えられている大きく立派に彫られた頑丈そうな扉を見つめてしまう。

「はい」

 老人の男性のような声で応答があった。

「こちらは蒲生さんのお宅でしょうか?」

「違う。さいなら」

 ぷつりとインターフォンが切れた。

 最後の家に向かうと、よく見たら庭もないし、植え込みもない。ヨーロッパの家のようなお菓子の家のような可愛らしい住居だが、大きさはさほどでもなかった。

 ピンポン

 パタパタと走るような音が聞こえてきて、玄関の戸が中から開けられた。

「えっと……何さんでしたっけ?」

「藤堂です。蒲生さんのお宅でよろしいですか?」

「はい」

蒲生佳奈子はふわっと白い顔をほころばせて、花のように笑った。

蒲生佳奈子の手を放された玄関の戸がゆっくりと閉まって、少し甘い芳香剤のバニラと花が混ざったような香りがした。右手に一人暮らしにしては十分すぎるであろうサイズの靴箱があった。白いペンキが塗られて、わざと素朴に造ってあり、風を通すために扉に横にいくつも切れ目が入れられ、そこから皮の匂いが放たれていた。靴箱の上には洒落た曲線のデザインの白い陶器の花瓶に、花のサイズが小さいピンクのバラと山ほどのカスミソウがふわりと広がるように華やかに活けられ、一樹は首を曲げてカスミソウの枝を避けた。その奥の窓辺に美しい水彩の風景画が飾られてある。ヨーロッパの街角を描いたようなありふれた絵だった。絵の中の「Cafe」の前を、フランスパンを抱えた男性が横切っている。絵の右下に「Kanako」と半端な筆記体のサインがあった。

部屋を二つ通り過ぎてリビングに通された。皮張りの濃紺のソファに勧められるままに座った。蒲生佳奈子は、点けていたらしいサイズの大きなテレビを慌ててリモコンで消した。

 ソファはL字型で、その背中側にはカウンターとキッチンがあった。カウンターの奥のキッチンを覗きやると、収納が十分にあるのか、コップ一つ見えなかった。壁のあちこちに繊細なレースが飾られており、カウンターの上部の壁からカウンターに落ちかかるように凹型のレースが飾り罫線のように連なっていた。

「お茶淹れますんで。最中食べられますか?」

「いや、お構いなく」

「ご遠慮なさらないで」

 佳奈子は、いそいそとカウンターの横の戸棚から茶葉の袋と急須を取り出して、煎茶の入った湯呑と小さな黒い皿に載った最中を用意して、一樹の前のテーブルにそっと置いた。上品で尖ったところのない仕草だった。

 自分の分もテーブルに置いて、佳奈子は向かいに腰かけて、煎茶をすすった。一樹はその一口が終わるタイミングで話を切り出した。

「蒲生まり子さんのお母様でよろしいですよね?」

「はい。蒲生まり子はわたくしの娘です」

「娘さんが今どういったことをしているかご存知でしょうか」

「あの子ね、出版社に勤めたがったの」

 ほうと息をついて、佳奈子はあらぬ方を向く。

「え?」

「でもね、それってなんか可愛くないじゃない。何というか、女の子が就くには鼻の高すぎる職業というか。あ、ごめんなさい。あなたも出版社の方?」

「いえ、フリーライターですので、出版社には今は勤めていません」

「自分の意見とか考えとか書いたりするの?」

「ええ。まあ」

「へえ」

 佳奈子は目を丸くしてやや身を引くようにした。

「あなたは立派ですごいと思うんですけれど、まり子には向かないと思うし、まり子には『可愛いまり子』でいる決まりがあるの。ううん。あったの」

「それは、お母様とまり子さんの取り決めですか?」

「そんなはっきり交わした約束じゃないけれど、なんとなく」

「それで、結局どんなお仕事に就かれたのですか?」

「父親が保険会社の事務の仕事を見つけてきてあてがってくれたわ。旦那に地位があると、やっぱり助かるわね」

「お嬢さんはご自分では就職は難しかったのですか?」

「ううん。わたくしが勧めた『秘書』とかフランス語の『通訳』の仕事にちゃんと内定もらってたの。でも、お父さんの言うことを聞いておく方が無難だから。秘書の仕事とか、人様の補助になって助けになって可愛いと思ったのに。ちょっとだけ残念だった」

「ちなみにお父様はどういった方ですか?」

 一樹はにこにこしながら如何にも無害そうにやんわり聞いた。

「警察庁長官よ」

 佳奈子は福福とした顔をして誇らしそうに答えた。


 死ね。死ね。死ね。


 まり子ちゃんどうしてそんなこと言うの?

 どうしてお母さんを叩くの? まり子ちゃんのせいでこんな田舎に追いやられたのよ。お金だけはたっぷりもらえるけれど、それだけよ。仕事も辞めて、そんな態度じゃお嫁の先探してもらえないわ。

 大体、まり子ちゃんが……。


 一樹は蒲生佳奈子を暫し見据えた。ほんの少し下膨れの愛らしいような顔立ちをしている。上瞼はまっすぐ引かれているが少し気だるげな深い二重で、下瞼が深い弧を描いて、つまり目の形状の下部分の弧が深かった。黒目が大きく丸く、何も映していないみたいに反射が鈍そうに見えた。唇は薄いが横にやや大きく、形に愛嬌があって女らしかった。身体つきはややふっくらとしていて、背丈は女性にしても低く、見下ろされがちだなと思われる。

「最初の質問に戻りますが、娘さんが今どういったことをして暮らしているか、ご存じありませんか?」

 佳奈子は、湯呑を両手で包みながら、ぷいとそっぽを向いた。

「知らないわ。あの子はもう、私の可愛いお人形じゃなくなったんだもの」

「では、お教えします。まり子さんは今、新興宗教の教祖として、大勢の男性の命を奪いました」

 佳奈子の両手の中の湯呑が振れた。目を真っ直ぐ上げて、一樹から見て横の方を見つめている。瞬きが無くなった。

「新興宗教の何が悪いのよ。素晴らしい導きで間違いのない人生になるように助けてくれるのよ」

 佳奈子は声を荒げた。湯呑をテーブルに置く。ガラステーブルが硬い音を立てる。

「あの子の人生に傷が入ったのは、あの子が就職して二年後」

「何があったのですか?」

「あの子、妊娠したのよ」

「それは、いけないことですか?」

「誰の子か分からないの。聞いてもよく分からないのよ」

「で、産んだのですか?」

「産んだわよ。産ませたわよ。中絶は殺人だ。モラルに反するってシスターたちも言っていたし」

「シスター?」

「私の入信しているところの巫女様方よ。とっても優しくて正しい清らかな素晴らしい方たちよ」

「教祖は?」

「教祖は男性の方よ。紳士で頭のいい気さくな方なの。何度もお話ししてくれたわ」

 佳奈子はうきうきと両手を組み合わせて自分の入っている――おそらく新興宗教――について話した。

 一概にそれらが悪い宗教だとは言えないが、まり子の中絶の選択はそれによって阻まれたのかもしれない。

「産んだ子供、お孫さんは今どちらに?」

「お父さんが、里子に出してくれたわ。良かったわ。まり子に子育てはできないもの」

 一樹は呆れた気持ちを隠すために目線を下に向けた。

「どうしてできないと思ったのですか?」

 佳奈子はふわーっと目線を横に流していった。

「さあ。わからないけれど。私も嫌だったわ、元の家で育てられるの」

「じゃあ、ついでに聞きますけれど、元の家はどこですか?」

「東京の千代田区よ。霞が関の一丁目。お父さんは今もそこに住んでるわ」

「まり子さんが生まれてから、何回引っ越しをされましたか?」

「最初は、千代田区の他の場所、ちょっと寂れた通りに住んでいて。その後が霞が関。それから、お父さんにまり子と私は二人でここに追いやられたの。まり子がいい子にしていないから追い出されて」

「住所分かります?」

「ちょっと待って」

 佳奈子は、廊下に出ていって、リビングの戸を丁寧に閉じ、暫くしてから書き付けたメモ用紙を持って戻ってきた。

「これが最初のところ。これが二番目、霞が関。これが情けないけれど今のところ」

 一樹は驚いた。最初に蒲生まり子が住んでいたところは、一樹が住んでいる男性器を発見したアパートのすぐそばだった。

「ここ、今誰か住んでます?」

「ああ……、どこかの社長さんに売ったんじゃなかったかしら? 今どうだかよくしらないけれど」

「そうですか。売却されたのは何年か分かりますか?」

「そんなこと分からないわ。売ったお金はちゃんと入ったらしいし」

「まり子さんが何歳くらいの時ですか?」

「ああ……」

 佳奈子はクリームののったマフィンを見つめるような顔で思案して、

「十八だわ。高校を卒業した時」

 一樹は、最中を齧って飲み込み、気分を落ち着かせた。その様子を佳奈子がじっと見ていた。

「まり子さんは、今おいくつで?」

「ええ? んーと……。ちょっと待ってて。忙しいなあ」

 再び佳奈子は廊下に出ていった。さっきと同じような所作で戸を閉じて。

 十五分ほど経ってから、卒業アルバムを持って帰ってきた。テーブルの上に置いたその表紙を見て、

「一月生まれで、中学を卒業したのが、二〇〇三年だから……」

 佳奈子は、上を向いて、両手の指を折り曲げながら計算し始めた。

「三十二歳ですね。わざわざありがとうございます」

 一樹は、無理ににっこりと笑った。

「卒業アルバムをお借りできませんか?」

「いいわよ。小学校のと、高校のも持っていく?」

「ええ。是非。本当に助かります」

 佳奈子は再び立ち上がって、いそいそと卒業アルバムを持ってきて、一樹に渡した。一樹は、自分の鞄にそれらを詰めた。平たいものだからチャックは何とか閉められそうだ。

「お話はこれだけ?」

「いえ。お母様とまり子さんはどうして家を追い出されたのですか?」

「子供を里子に出してから、まり子がおかしくなって。大学も学部も就職先も全部お父さんが決めてくれたのに、恩知らずよね。お父さんに向かって『お前のせいで何もかも台無しだ!』とか『私の人生に責任取れ!』とか言って怒鳴ったり。こんなに責任取ってあげてる親いないわよね? お父さんの熱帯魚をトイレに流したり、観葉植物に火を点けたり、暴れまわって家中の家電をひっくり返して壊したり。とにかく凄かったんだから。私ほど苦労している母親はいないわ。分かってくれるわよね?」

「ええ。分かりますよ」

 一樹は薄いひんやりとした笑みを向けて、母親への取材を終えた。この母親の話を聞いて顔を見ていると、「まり子さんはどんなお子さんでしたか?」という質問が腹の中でぐるぐる回りながら、喉でつっかえて出てこなくなる。嘔吐するのをとどめようとするみたいに。

 玄関口で踵の低いパンプスを履きながら、佳奈子に最後の質問をした。広い三和土には、ブランド物の靴が並んでいる。

「こちらでの暮らしにおいて、収入はあるのですか?」

 一樹がそろそろ出ていってくれるということに安心しているのか、佳奈子の頬はふっくらと赤みがさしていた。女子学生のまま大人になったみたいだ。

「お父さんが振り込んでくれるわ。毎月」

「失礼ですが、お幾らぐらい?」

「五十……六十万くらい? お父さん、資産家の息子なんだから百万くらいくれてもいいのにね。わたくしがまり子の面倒も見ていたんだし」

 ふっくらした頬が、ご機嫌なのか、ふくれっ面なのか分からなく、

「では、ありがとうございました。失礼します」

 そう言ってその家を辞去した。


 ねえ。お父さん。私の警察庁の長官の夫じゃなくて、国会議員の私のお父さん。私、子供の頃、とっても幸せだった。お母さんもみんな、私のこと見てくれて、色んなことしてくれて、苦労がないように考えてくれた。教えてくれた。私何にも思い煩う必要なかったもの。だってみんなが全部私のために用意してくれたから。ご飯も美味しいもの作ってくれたし、お洋服もみんな似合うって褒めてくれたし。今でも美味しいご飯自分で作ったり、食べにいったり、きれいな服着てるわ。きっとお父さんも可愛いね、似合うねって思ってくれるような服。一人の時間が増えたのが寂しいけれど……。でもお父さんが決めてくれた幼稚園から大学までエスカレーター式の学校は楽だったし、楽しかったわ。考えなくていいの。ふわふわした綿あめの甘い空気を食べながら歩いていけばそれでいいの。お仕事もお父さんの秘書の仕事しながら、お菓子食べたり電話回したりするだけだったし。私はきっと苦労しなくていいっていう星の元? に生まれたのね。結婚もできたし。お父さんのおかげで。

 でも、まり子を生んでしばらく経つと、まり子が私と違う道を行こうとするのに気づいたの。私必死で軌道修正してやったわ。だって、不満で気持ち悪くて仕方ないんだもの。正しいことのはずよ。それは。だって、お父さんが教えてくれた通りにしてあげただけだもの。そうしなくちゃいけないんだもの。まり子は男の子じゃないんだし……。自覚が足らなかったのね。まり子には。でも、まり子が一瞬でも見せた変な生き方が、私の胸の底にまだ見えるの。自分がいる世界の綿あめの甘い空気が、足元に落ちて固まって、こんぺいとうが敷き詰められた道に変わって、甘いけれど痛いの。歩くと。空気には何の色もなくて、どこまでいってもこんぺいとうの道が続くの。終わらないの。でも歩き続ける羽目になるの。おかしいわよね。こんぺいとうの道なんて。綿あめの空気よりおかしい。

 でも、私はこんぺいとうしか、こんぺいとうの道しか選べなかったのかなって。どこまでいっても、ただただ足の裏がチクチクして、傷つかないけれど、ぼんやりとあまーくチクチクするだけ……。それしか考えることがないみたいに……。

 


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