12
「お母様は、今どうされているのですか?」
「亡くなりましたよ。脳出血で」
やっぱり。亡くなったから今ここにいるのだろうなと思った。
「あなたご自身は、お母様の事を好きだったと思いますか?」
足立は、ふっと笑って不敵な目を宙に向けた。
あ、やっぱ、男前。と一樹は下らないことを思った。
「教祖の方が好きですね」
一瞬、部屋に花の香りがした気がした。
「お母様の死に目には会われましたか?」
「何の意味がある質問ですか?」
足立の目が子供のように濡れて、大人らしい非難を向けて一樹を睨んだ。
「ごめんなさい。ただの意地悪です」
一瞬間を置いた。正午を過ぎて、部屋の湿度が高くなってきて蒸し暑い。空腹も覚え始めた。鯛の刺身が頭に浮かんで、口の中に涎があふれた。
「教祖様にお会いすることは叶いませんか?」
足立は丁寧に断った。
「すみませんが、それは承服できかねます」
「なぜ?」
「仮にも巫女様が無暗に無関係の俗人に姿をさらして話をするのは、良くないでしょう」
「神様みたいですね」
足立は斜に構えたように、肩を片方わずかに落として、
「ええ」
と皮肉な笑い方をした。一樹は、トンと自分の膝の上を左手の人差し指で軽く叩く仕草をして、考えるように斜め上を一瞬だけ見てから、立ち上がった。
「ありがとうございました。色々聞かせていただいて良かったです。これで失礼したいと思います」
一樹は部屋に背中を向けて、入ってきた扉を開けようとした。
突然、両手首を背後から後ろ手になるように掴まれた。足を捻って尻もちをつき、引き摺られて壁に顔を押さえつけられた。
「何をするんですか!」
「誰も来ませんよ」
硬質な足立の声が囁いた。
「こっちの扉にはちゃんと鍵が掛かります。トイレがなくて不便かもしれませんね」
一樹をさっきと逆の壁側の部屋に投げ入れて、戸口に立ちはだかった。
「夜にあなたを殺しましょう。死体を運びに行くのは夜がいいでしょうから。今殺してあなたの身体が腐ったら、蝋みたいな冷たい死人の臭いが嫌ですし。運び辛いし。一度、殺してすぐに捨てにいかなかったとき、ちょっと嫌だったのですよ。それに教祖にも、死んだ遺体をあまり長くこの施設に置いておかないように躾けられているのでね。鞄、貰いますよ。何かいるものありますか? 携帯以外で」
「ナプキンとティッシュ、ハンカチとカロリーメイト」
足立は一樹の鞄を探って、律儀に全てを戸口の内側に並べた。
「それでは」
扉は勢い良く閉められ、空気が扉の縁から吐き出される音がした後、丁寧な施錠のカチリという音が響いた。
扉の方を向いて、尻を部屋の灰色のビニル床につけたまま、背中の後ろで手をついた状態で、一樹は消えていく足立の姿を見ていた。
凍り付いた綿みたいな、脳の血管を塞ぐような緊張を頭の中に巡らし、電灯のスイッチがないか、扉の周りを手探った。突き当たったスイッチを入れると、部屋の壁が眩しいくらいに白く光って反射した。部屋を見渡すとそこには何もなかった。ベッドを搬入する前の病室みたいだ。しかしながら、当然窓もない。カロリーメイト チーズ味の箱を開けた。少し手が震えていたが、自分一人で冷静さをまといながら、小袋の封を大きく破って、中身の二本のクッキーバーみたいな非常食を一気に食べた。口内の水分を奪われたが、飲み物がないので、唾液を粘膜から出して口の中に行き渡らせた。ゆっくり食べれば良かった。慌てても意味ないのに。
おそらく、建物の外壁に面しているであろう部屋の一方の壁を叩いて、
「助けてください! 監禁されています!」
と叫んだ。
パーにした手で叩き、グーにした手で殴り、壁に口を近づけて喉が嗄れるほどさけび続けた末に、声でもって助けを呼ぶのは諦めた。
ふっと、股間に当てるナプキンをそろそろ替えた方がいいことに気が付いた。インタビューも思ったより長引いていた。
トイレがないので、その場でパンツと下着を足首まで下ろしてから、股にティッシュを挟み、下着から経血が溢れそうなくらい染みたナプキンをはがし、新しいものを下着に張り付けた。下着を尻まで引き上げて、ティッシュで包んだ使用済みのナプキンを、嫌がらせに部屋のその辺に投げ捨てていこうかと一瞬考えたが、いくらなんでも下品すぎる、と残りのクッキーバーの袋を出して空にしたカロリーメイトの箱にしまった。
ムカつく。なんでこんな下品な真似をするはめになる。
壁を靴先で蹴り飛ばして、拳を、力加減を全くせずに壁に当てようとして、指の関節を怪我して痛い目にあうことを危惧して寸止めにした。
「あー!ムカつく!」
と力いっぱい身体を折り曲げながらさけぶと、恐怖が飛んだので、カメラをもらい忘れたことに気付いた。
「あーもう! 私、間抜け!」
気持ちのエネルギーの火が消えないように、この状況において利用価値のない、なんの足しにも力にもならない不安は感じないようにしていたが、助かる道も方策も見えていなかった……。
どれだけ時間が経ったか、分からない。どうしようもないので寝ていたところ、扉が台風みたいな風音を立てて開かれて、目を覚まして見上げると、戸口のそこに家森が立っていた。
ネクタイなしのグレーのスーツの家森は、
「大丈夫ですか⁉ 保護しますので署まで来てお話を伺います。お怪我は?」
張り切って喋りながら、一樹を乱暴に引き起こした。
「はあ……。大丈夫です」
驚いて覚醒したばかりの一樹は、取り敢えず何も考えずに、家森の動向に合わせた。家森は一樹を連れて部屋から出て、
「彼女の荷物は?」
しかりつけるように足立に尋ねた。
「これですよ」
不承不承といった風に、足立は一樹の鞄を両手でもって家森に差し出した。
家森は一樹を目で促して、自分で受け取らせた。
「他にありますか?」
家森は一樹に聞いたので、
「部屋の中に、ハンカチとか……」
と答えると、家森はくるっと扉の方に振り返って、部屋に戻って、散らかった僅かな物品を集めてきて、一樹にぞんざいに渡した。
ナプキンが臭わなかっただろうか、と一樹は心配した。
家森は、
「すぐに警官隊が車両を伴って来ますから」
とだけ言い残して、一樹の肩を支えるように抱きながら教祖の部屋を出ていこうとした。しかし、足立がその背中に向かって、
「あの」
と呼び止めた。家森が胡散臭そうな顔を作って振り返ると、足立は、
「あなた、本当に警察の人ですか?」
と尋ねた。家森は、
「もう一度、手帳を見ますか?」
と言った。それで足立は、
「いえ」
と言って、観念した。家森は一樹を保護するようにしながら階段を下りて、信者たちが丸い目やちょっと怒ったような目で見つめてくる中を通り抜けて、玄関を出た。
一樹は、なんとか家森に救出された。
「あの、ありがとうございます……。今、何時だろ?」
スマホを出して時間を確認して、
「一時か」
と呟いた。星の多い田舎の夜空を仰いだ家森は、
「お前、よくあんな状況で寝られるな」
と呆れた。
「見るものも聞くものもないですもん。家森さんだってきっと寝ますよ」
「俺は、そんな無神経な大物じゃない」
「で、なんでここが分かったんですか? しかも監禁されている事まで」
「だって、お前ギャラ払う前の人間の電話取らないわけないもんな。取材相手に会ってるのだとしたら、後で絶対折り返すし。昼過ぎに電話しても、夕方前に電話しても出やしない。取り敢えず、お前の取材のやり方に見当をつけて、お前の友人の鑑識の子に電話したら、どこに行ったか分かったから、夜にここに着いたんだ」
「透子と会ったことありましたっけ?」
「お前からネタもらった記事の確認と補完のために、お前に彼女の事を紹介してもらって会いにいったことがあったんだ」
「で?」
「『で』って考えれば分かるだろうが。山辺敏彦の家に行って頼所教についてヤバすぎることを落ち着かなさそうに話すおばさんからチラホラした内容だけ聞いてきて、先にお前が来たのも確認して、ここらに一番近い宿に行って、やっぱりお前が泊っているのを確認して、で、十二時半になってもお前は帰ってこないから、もしかしたらお前アブナイかなーってさ」
「警察だって言い張って乗り込んだんですか?」
「他にどうすんだよ。とんま」
「手帳はどうやって?」
「警察官の友人のをコピーしたやつに装丁の仕事している友人に凹凸を付けさせて、顔写真を張り替えて黒い手帳の中にきれーに貼ったのを以前から持っている」
「うっわー……。犯罪者ぁー」
家森は、単純明快な子供のように目を丸くした。
「なんだ。命の危機じゃなかったのか」
「いや、いや。まさしく命の危機でした。本当にありがとうございました」
一樹は頭を下げた。朝より冷えた外気を肌に感じて、胸に湧いてきた安心と虚脱を空に吐き出しながら、家森と宿まで歩いた。闇に目が慣れると、なんだかさっきまでの出来事は、自分が登場するちんけな劇団の舞台だったような感じがした。何よりも隣を歩く家森に一番現実感がなかった。
目に入る夜闇の中に浮かぶ民家や凸凹したアスファルト、光る窓ガラス、田んぼ、橋。夜の空気の匂いを弾くそれらがそらぞらしいのは、どこかで自分が死ぬと思っていたからだろうか。いや、心になじみすぎる物事と、なじまなさすぎる物事がごっちゃになって、まるでファンタジーだからだろう。
信者に監禁されて殺される予定が入るのは、さすがに慣れない出来事だった。
家森が施設に入って、さらに一樹のいる場所までたどり着いた具体的な手腕については聞かない。自分が頼所教の施設に入り込んだ時のような、ジャーナリストというのは女も男も犯罪者並みに良識を平気で踏みつぶして仕事をする人間だと思われるようなやり方に決まっている。偽警察手帳を使っているのだから、一樹よりも悪辣さは筋金入りの甚だしさだろう。どんな方途を用いたか。聞いたら、切羽詰まった折に自分も真似してしまいそうで怖い。これ以上聞かないでおこう。知ってしまえば、いつかヤバイことに巻き込まれる。いや、今更か。
一樹は、ぷっと密かに吹き出した。
助けてくれてありがとう。ですが、犯罪者にはどうぞモラハラ男のあなた一人で突き進んでください。
そう思いつつも、一樹の感謝の念は強かった。
宿の玄関は、こんな時間になっても鍵が開いていた。
「遅くなりました」
家森が靴を脱ぐ後ろから声をかけると、バタバタとおばさんが横の部屋から出てきた。
「何やってたの? こんな時間まで。あ、野暮か。ごめん」
おばさんが家森を見てそういうので、一樹は慌てて、
「仕事仲間です。夜遅くに起こしてすみません」
「いやー。帰って来ないと、寝れないよ。お客さんが全員帰ってから、夜は鍵を閉めてるもん」
「本当にすみません。でも、今後も今日ほどではないにしても多少遅くなる日はあるかもしれません」
おばさんは、意味もなく物理的に鼻の下を長くして、
「いいよー。お金もらってやってるんだから。ご飯食べてきた?」
言われた途端に、一樹の腹から毒素が抜けてでも行ったように、盛大にぐーと鳴る音がした。一樹が赤面はせずとも、何も言えなくなっている間に、階段の前にいた家森が、
「飯二人分お願いします。二人ともろくなもの食べてないんで。遅くにご迷惑おかけします」
と言って、上がっていこうとした途端、また振り返って、
「そいつの部屋に、二人分」
と一樹を指差してから、スーツのジャケットを脱ぎながらさっさと上がっていった。
「割とクールな彼氏だね。男前だけど」
「違います」
おばさんは、顔の皺を深めながら目を細めて、
「うそうそ。冗談冗談」
とにやついた顔で台所へ向かっていった。
一樹は自分の部屋に入ったが、極度の空腹を自覚したさっきから、何も考えられなかった。鍵を開けておいたので、畳の上にそのまま仰向けになっていると、誰か入ってきた。おばさんが天ぷらと刺身を携えてやってきてくれたのかと思ったら、家森だった。
「露骨に嫌そうな顔するな。大食らい」
「昼も夜も食べてませんもん。頭使ったら糖分がいるものでしょう」
「頭の元の出来が悪いから、燃費が悪いんだ」
「はいはい。そうですか。家森さんは出来のいい一流週刊誌の編集長ですもんね」
「いいから。起きろ。明日の予定について分担も含めて話し合うぞ」
「食べてからで」
一樹は目を閉じた。家森がわざとらしくため息をつく音が聞こえた。
不思議な快さがあった。
意識がなくなったと思った瞬間に、部屋をノックする音が聞こえた。起き上がると、今度こそ食事がやってきた。一樹は思わず顔が綻んだ。出汁の匂いと魚の匂いがするお盆を戸口で家森が受け取って、礼を言った。
「全然。全然。仕事もほどほどにね。飲み物足りてなかったら、下から勝手に淹れていいから」
家森がちゃぶ台の方に向かった後ろから、チラリという効果音が出そうな好奇心のありありと浮かぶ顔でおばさんは扉の隙間から一樹の方を見た。それからゆっくりとお辞儀をしつつ、出ていった。
まあ、そもそも、この観光地もなければ、遊ぶ場所も何を買う場所もショッピング街も何もない、ガイドに載りもしないよく分からん田舎に来る客自体が不思議なのだ。何か特別な用事があるに決まっている。でなきゃ、逃亡中の犯人か――、それか身を隠したい駆け落ちの男女か、家出人か、夫や家族に恵まれないでそれらから逃げてきた人とか――。
この宿だって本気の商売じゃないだろう。
夜食は、うどんだった。白いハモののったあんかけうどんだった。ワカメも入っている。
一樹と家森は、ものすごい勢いで食べ始めた。家森もかなりの空腹を抱えていたらしい。
美味しくって、温かくなった。食べ終わるとしばし二人とも放心状態で、一気に食べたせいで、二人ともお腹を壊して、二人ほぼ同時にトイレに駆け込もうとした。一樹がサッと廊下の突き当りのトイレの中に身を滑らせると、家森は地団駄踏んで、スリッパでわざと足踏みの音を鳴らし続けた。
一樹は、用を済ませて出てきて、
「家森さん。階下の人に迷惑です」
と注意すると、耳の穴をほじりながら、腹立たし気に、
「そうだな」
と低い声で観念して、トイレに入っていった。
まだお腹が空くな、ちょっと足りないな、と思って部屋で家森を待っていたところに、家森が
「まだ腹減る。成人男性があんなもんで足りるか」
と言いながら、ハードクッキーの袋と、缶ビールを手に持って入ってきた。
「それ、家森さんのですか?」
「下にあった」
「飢えてるときに食べ過ぎるとよくないから、おばさん、うどんにしてくれたんですよ」
「食わないのか?」
まだ脳が栄養不足を訴えている気がする。
「食べます」
袋を開けて、家森はハードクッキーをちゃぶ台に置いた。すぐに一樹の手が伸びた。ぼりぼり貪り食う一樹を見て、家森は却ってあまりクッキーを口に運ぶ気が失せたらしい。大人し気に齧りながら、呆れた目で一樹を見て、
「どこまで分かっている?」
どれだけの取材ができたか尋ねた。一樹は、頼所教の内実、被害者の死んだ原因、生い立ちまで聞いたこと、他にも被害者がいて同様に海岸に放られた可能性が高いこと、教祖の存在……、そして警察関係者に繋がりがありそうなことなどを話した。話しきれないので、取材が済んだら自分で記事やルポを書くつもりで、いくらか簡略化しながら概要を述べた。
「上出来じゃないか。しかし、生い立ちって必要か?」
「最近はそういうのみんな興味あるし、流行ってますよ。ちょっと違うけれど、『ファミリーヒストリー』みたいな」
「そんな番組あるな……。ちょっと違う気もするけれど」
首を傾げたが、家森はそれ以上反論しなかった。
「『蒲生まり子』に会うのは難しそうだな。親兄弟探してみるか。この町と近隣の町の蒲生姓を」
「はい」
「それは俺がやっておく。しかし、母親が近くにいたらお前、父親が近くにいたら俺が、話を伺いにいく。両親が揃っていたら、俺が行く」
一樹は頷いた。確かに再び監禁されるわけにはいかない。親族の教祖に肉薄した話は、まさしく自分で聞きたいところだが。
男に生まれればいろんなことが簡単になるのに。というのは、一樹がよく思うことだが、言ってみても始まらない。心理的な差別はともかく、腕力の点で劣るのは致し方ない。
「まずはそこに取材する前に、大毛海岸に近い警察署と、他の変死体の遺族を当たってみよう。しかし、お前の元カレは便利だな」
「ええ、まったく」
「なあ」
急に家森が呼び掛けるように注意を促した。
「はい?」
「ほどほどにしとかないと、刺されるかもしれんぞ。お前、世間知らずだから」
一樹は無視した。
「ご遺族と警察署で分かれます?」
「それがいいな。俺が警察官を丸め込んで、脅してすかしてへばりついて吐き出させてくる。お前は、遺族を一軒一軒当たれ」
「ほとんど町内と、近隣の町ですけれどね」
いつの間にかクッキーがほとんど全部一樹の胃の中に収まって、くずくずの欠片が残った袋を、家森は急に疲れて情けない顔をしてゴミ箱に放った。
よく見ると、家森はいつもより少し黒く沈んだ顔色をして、目の下の隈もダボついていた。
「じゃ、俺はもう寝る」
横腹に片手を当てながら、あぐらを掻いていた家森は立ち上がった。
ありゃ、イケメンに悪いことした――。
と、心中詫びたり、礼を述べたりしつつ、口には出さないでおいた。この態度のでかい男に付け上がらせるのはごめんだ。背中を丸めた家森が空き缶を部屋に残して出ていって、短い睡眠を摂りにいくのを見送った。
「おやすみなさーい……」
一樹が背中に向かって小さく声を掛けておこうとすると、家森は戸口で振り返って、
「さっさと起きろよ」
となんかかんかを母親に我慢させられた子供のように不機嫌な顔で、一言残して去っていった。
一樹はというと、気分が少しスッキリして、シャワーを浴びて、昼間、日に干したらしい布団の清潔な枯草のような匂いを嗅ぎながら気持ちよく眠った。
夢も見なかった。




