15
家森の仕事は早い。フットワークも軽い。一樹はじきに彼から連絡と報告が入ってくるだろうと思った。
その日、家森は、昨日徳島から会社に戻ってから、上がってきた部下の仕事のチェックをして、深夜の一時に会社の仮眠室で横になってから、六時に起きて、会社から通り一つ挟んだ銭湯で身体を洗ってからデスクに戻り、その後企画会議に出席した。人気コラムニストが「自分の書いたものが今週載らなかった」と苦情の電話をよこしたので、菓子折り持って機嫌を取りに行ってから、夕方の四時になって、やっと自分の好きに仕事ができる時間ができた。
「自分の好きに」と言っても、藤堂の持ってきた仕事を手伝わなくてはいけない。能力が低いわけではないのだが、仕事の様子や成果においても安定の悪い人間だから仕方なく協力してやっている。
藤堂から聞いたことと、地図を頼りに蒲生まり子がかつて住んでいた家を探すと、これだろうと特定できる立派な家屋がすぐに見つかった。敷地の外から、玄関の上部に防犯カメラが取り付けられているのもすぐに確認できた。
家森は鼻の横をぽりぽり掻いてから、その家を訪ねようとする前に、ふと思い立ってその家がある通りを眺め渡した。通りの反対側の並びの少し奥に、うねったような木肌の樹木が庭に立つ、何だか瘦せこけたロバみたいに粗末なアパートがあった。
ここに住んでるのか。
もう少しいいところに住めないのかと呆れながら、今時分藤堂は何をやっているのだろうと、どの部屋に住んでいるのかここからは分からないが、二階の一部屋のレースカーテン越しに電気の淡く漏れる光を見つめた。
徳島が暑かったのか、スーツを着ていても暑苦しくないくらい、いや程よく秋めいて涼しいくらいの天候だった。
家森は、訪ねるはずの家に向き直り、玄関へ続く石段を上がった。
インターフォンを鳴らすと、ややあってから男性の声で応答があった。
「はい。どちら様でしょう」
「森山出版の第二編集部に勤める家森と申します。お聞きしたいことがあって参ったのですが、今お時間よろしいでしょうか」
インターフォンからムッという不機嫌そうな声が漏れた。
「この間もそんなような女の人が話を聞きに来ましたよ」
「はい。その者の調べていることの確認作業も兼ねてお話をお聞きしたいのです。一旦出てきていただけませんか?」
無音が流れてから横手の玄関扉がおもむろに開かれた。体格のいい年配の男性が顔を見せてくれた。くっきりした皺の刻まれた浅黒の肌をしていて、面倒くさそうではあるが、落ち着いた目つきの表情をしていた。ブランド物らしき絵柄の入ったTシャツを着ていた。角ばった顔が、
「ここで話をするので十分かね? 中に入るか?」
と自分に聞いたので、家森は、「お邪魔します」と答えた。
しっかりと設えられた高価そうな家具ばかりだが、それらは最低限しか置いてない印象だった。絵画などの類は、玄関、廊下、通されたリビングダイニングには一つも見当たらなかった。花瓶一つ見つからない。
「粗末な家で」
と言いながら、家主は、家森の前にグラスに入った麦茶を置いた。
「とんでもない。頂きます。ご家族はおられないのですか?」
家主……表札によれば「玉井」は冷蔵庫を閉めながら、自らも麦茶で口を濡らし、
「娘は家を出たよ。家内は昨年亡くなった」
と答えた。
「お座りになられませんか?」
と家森が言うと、玉井はゆっくり動いて向かいに腰かけた。
「この家の以前の持ち主についてお聞きしたいのですが、お宅を買われたのは何年前になるのですか? 」
「二〇〇六年に購入したから、十四年前だ」
「ご購入された相手は分かりますか?」
「蒲生さんだ。お偉いさんらしい。よく知らんが」
「お会いになられましたか?」
「内見の際にな」
家森は一旦口を結ぶように間を置いた。
「どういう方か本当はご存じなのでは?」
「知らんよ。どういう仕事をしているのかも」
「そうですね。では、防犯カメラを見せていただけないでしょうか?」
「いらん」
「『蒲生さん』なる人が大きな犯罪にかかわっている可能性があります。何か映っているのに見ないふりを決め込むのは、警察にうそをついたのと同じで供述義務を怠ったとみなされ、過料くらいの罰則にはなりますよ。恥ですね」
「払えばいい」
「払えるでしょうが、恥ずかしいとは思いませんか? 不名誉が残りますよ。見たところご立派な方のようですし……」
そう言いながら、家森は玉井の顔をまじまじと見て、何かうっすらとした既視感を覚えた。
「警察のやることは知らん。全く知らん」
声を荒げる様子に、家森は不審さを覚えた。
「知っているのでしょうね。あそこにあるアパートで深夜に何が……とは言わなくても何かありそうなことも。警察は屑ばっかりじゃありませんよ。すぐにばれます。その屑も、あなたが何も言わなくても私たちが制裁を加える用意ができています。あなたは、あなたの証言をすることで名誉を守れます」
玉井が口を噛みしめ、顔面の皮膚の奥にマグマを湛えたような雰囲気を漂わせた。頬に不健康な赤みが差している。
「儂は……、大きなものには逆らえん。帰れ」
そう言って、廊下に出ていくので、家森は後を追った。二階に上がった老人は、書斎のような部屋に入って、戸口に家森がいるのを完全に無視して、窓際の大きな机の前に腰かけ、古い書物をめくり続けた。
背中を丸めて身を守る、小さくて愚かなダンゴ虫みたいだった。
ため息をついて、家森は、足早にジャケットの裾にわざと風を送って、冷たく見捨てるようにしながら、そのダンゴ虫の豪邸を後にした。
まあ、俺の勝手な態度から身を守るのは、ダンゴ虫だっててんとう虫だって自由だ――。
門を出て、その左隣の家を見上げた。ウサギ小屋みたいな暗くて幅の狭い家だった。一応二階建てだが、外壁は、軽く蹴飛ばせば、穴が開きそうな湿った板でできていた。
一応鉄筋コンクリートの安アパートとどっちがましか――?
台風でもきたら、容易く外壁が剝がれて飛ばされ、屋根もないあばら家と化しそうだ。
未来ある若者は、貧乏ならアパートを借りる。こんなところに落ち着くのは、ある程度年齢がいった人間だ。
貧乏子持ファミリーか。貧乏孤独老人か。
おっと。さすがに偏見か。
ピンポンと鳴らすと、一階の窓の重たげなクリーム色のカーテンが少しだけ開かれ、隙間から、トーンが落ちたような暗い色の皺だらけの皮膚に囲まれたやや大きめの目が覗いた。怯えたように眼球が飛び出そうなくらい大きく丸く見開かれていた。
家森は、その目がカーテンを閉じて見えなくなる前に、素早く笑いかけて、さり気なく頭を下げた。
インターフォンから応答がきた。
「何の御用でしょう?」
「お聞きしたいことがあるんです。ちょっとお話しできませんか?」
「はあ」
しゃがれた、壊れたオルガンみたいな声だった。玄関の引き戸が右に引かれていき、瘦せた、気弱で優し気な老人が現れた。シミだらけのパジャマのズボンみたいなものを穿いている。足元の健康サンダルが妙に痛々しかった。
家森は、心中の同情心を握りつぶしながら、態度を変えた。
「あなた、最近夜中に変な音聞いたでしょう? 大体分かっているんですよ。何があったか、何を聞いたか話してくれないのなら、あなた、警察がこのことを再び調べだしてから、あなたが証言を隠したってことになって、罰金くらいの制裁は加えられますよ。それとも何か便宜でも図ってもらってるのかな?」
老人は長細い頭の頬をくぼませて、口を縦に長く開けて、「ムンクの叫び」さながらの顔になって、おどおどとつっかえつっかえ話した。
「便宜、便宜……、べ、べん、便宜って何……?」
家森は口を歪ませた。
「まあ、そんなことはないと思うけれど。何か口封じされてるんじゃないですか? されていないならされていないでいいけれど、向かいのアパートから、深夜に何か掘るような音とか聞いたことがないかな? ないって言ったら、警察の中のまともな人たちが、色々調べたときに、あなたは噓をついているとか、知っていることを話さなかったとか思うと思いますよ。知ってます? 『過料』っていう罰があるんですよ。軽い罰ですけれどね、後ろめたいことはいつか罰されるようにできているんですよ」
「あわわわわ」
泡でも吹きそうに手と肩が震えだした。家森は老人の肩に手を置いた。
「私は、記者なんで。あなたが話してくれたということをこれに録音して、証拠にしてあげられますよ。あなたは悪くないっていうね」
老人はこくこくと頷いた。深く呼吸をして、
「水飲んでくる。あんたも上がって下さい」
家森は玄関に入って、靴を脱いだ。あまり出かけないのか、石のタイルが敷かれた玄関は、狭いが汚れてはいなかった。傘立てはなく、引き戸の横に一本だけ黒い傘が立てかけられていた。その影が物寂しかった。
ミシミシいう短い廊下の突き当りにトイレがあった。その手前の左手の部屋に老人はびっこをひきながら入っていったので、家森もそれに従った。
老人は、台所で水道水をコップに汲んで、ごくごくと音を鳴らして飲み干した。細い喉が上下した。
「そこ、座って下せえ」
老人は、ぺちゃんこにへたった濃紫の小さな真四角の絨毯の上に置かれた、古臭いがしっかりした厚みのある座布団を指し示した。窓の横にはテレビがある。テレビはカラーボックスの上に置かれている。後は、四段積まれた衣装ケースと、小さくて悲しい仏壇があるのみだ。後ろを振り向くと、台所の水切りに、皿やコップが並んでいて、コンロに薬缶と大小の鍋がある。食器棚はなさそうだ。
老人は、折り畳みできる一人用の白い天板の座卓を挟んで、家森の前に座ろうとして、
「あ、お水飲みます?」
と聞いてきた。
「いえ、お構いなく」
老人は、台所の方と、家森を交互にきょろきょろ見て迷うように、
「でも、でも暑かったでしょう?」
家森は、なんてお人よしのおじいさんだろうと呆れながら、
「じゃあ、頂きます」
と答えて、コップに注がれた水道水をもらって口にした。
目の前に正座した老人に、
「ええと、一応、お名前伺ったらだめですかね? 呼び名があったほうがいいので。表札出されていなかったでしょう?」
と聞くと、
「横山です」
と老人……、もとい横山は答えた。
「では、横山さん。最近深夜におかしな音は聞きませんでしたか?」
「聞きました」
「それはどのような?」
「土を掘るような音です」
「そのことで、どこかにご相談されましたか?」
「いいえ」
「警察が来たらしいのは知っていますか?」
「知っています」
「警察は横山さんに何か聞きにきましたか?」
「いえ。全く」
「では」
家森はICレコーダーの表面を人差し指の腹で撫でた。
「土を掘るような深夜の物音は、最近だけでしたか?」
「違います。もっと前にもありました。何度も」
最初に夜中に変な音が聞こえたのは、三年前かな?、いや、五年?
ザクザクザクザク。穴掘っているみたいな音。
窓からのぞくと、向かいのアパートの木の下で誰かがしゃがんで何かしてるんですけど、夜中に穴掘りだとしてもおかしいでしょ? で、一人で様子見にいくのも怖いから、近所の派出所に電話して、自転車で来られるとその人にばれるから、ばれないようにこっそりと歩いてきて、ってお巡りさんに頼んで、家の前に来てもらったんです。私は、自分の家の玄関前で待ってたんだけれど、私が家から出てきても、お巡りさんが来ても、その人は気が付かない様子でした。
お巡りさんは、私の顔を見て、頷いてからその人に声掛けしました。で、その人は――男の人ね――は、逃げようとしたんだけれど、上手く走れないみたいで、私よりもびっこひくみたいにしてたから、すぐにお巡りさんに手首を掴まれちゃった。お巡りさんが「何埋めたんだ?」って聞くと、「自分の性器を埋めた」ってその人は答えました。アパートの手すりの柱に手錠でその人を繋いで、お巡りさんは、埋めたところを掘り返して……。あ、ちゃんと手袋してたよ、お巡りさん。私も好奇心からそっと近づいて、後ろから覗くと、本当に男性の性器が埋められてあって、びっくりしたんです。お巡りさんも「これお前のか⁉」って叫びながらそいつに聞いて、かなり驚いていたみたい。で、その人は連れていかれて、私も、「また話を聞きにくるかもしれないから、その時は協力して下さい」って言われて、家に帰って寝ました。でも、気持ち悪いというか、興奮したというか、寝付けやしなかったよ。
大事件だと思ったね。
それなのに、次の日の早朝、昨日のお巡りさんがやって来て、
「何も見なかったことにして下さい。今までもこれからも何もあなたは見なかったのです。どうか、分かって下さい。ホントに……、すみません」
って言って、私の手に茶封筒を押し付けるんです。呆気にとられて口が利けないうちに、お巡りさんは行っちゃった。茶封筒の中には一万円札が十枚。十万円入っていて、また呆気にとられました。
気持ち悪いから、別の交番に行って、お巡りさんが十万円持ってきたくだりまで含めて全部何があったか伝えて、十万円をその交番に返してきました。
そこの交番のお巡りさんが顔をしかめながら封筒受け取ってたから、信用してくれたのかなってちょっと心配だったんだけれど、やっぱりもっと怖いことになっちゃいました。
私が言ったことを信じたのかどうかは知らないよ。多分、言っていることは本当だって分かったはずだけれど。だってその後のムキになったような警察の人たちの態度はそうじゃなきゃおかしいもん。
交番に行って、帰ってから一時間くらいしてから、誰かやってきて、
「警察です。ご協力お願いします」
って叫ぶから、戸を開けたら、
「連行します。署まで来てください」
っていきなり二、三人の大きな男たちに取り囲まれて、私は何を言うことも出来なくて――怖くて――パトカーには見えない普通車の後ろの席に乗せられました。
警察署の前に来たら、男二人が両側から背中を掌で押して、私は紐のついたペットみたいに中に連れていかれて、狭くて日当たりの悪い部屋に入れられて、戸を閉められて、缶詰のカニになった気分でした。怖かった……。
呆然としているうちに、いつの間にか周りにはスーツを着た大男が五人もいました。
「いい加減な通報したらいかんぞ!」
って怒鳴られて、
「夜中に物音なんて聞かなかっただろう。何の痕跡もない。嘘をつくな」
って言われて、こんこんと説かれる。
「立派な罪になるんだ。こういうことは」
「『もう言わない』って約束しないなら、逮捕するしかないが?」
私は、何も見なかった、聞かなかった、ごめんなさい。逮捕しないで下さい。もう何も言いません。二度と言いませんって泣きながら訴えて、そしたら、お巡りさんたち……、彼らはにっこり笑って、私の背中をトントンと叩いて、
「じゃあ帰んな」
ってさっきまで入り口を塞いでいた人が戸を開けてくれたから、もう足もがくがくになりながら逃げ帰ったんです。
情けないですよね?
さらに情けないことに、それから毎月十万円が家に届くようになったんです。差出人不明で。
怖いから受け取ってるよ。そんで、もう使ってるよ――。
阿保らしいよ。あんな怖い思いして、貰えるもの遠慮するのは。
知ったこっちゃない。出来ることはしたんだ。
これ、私の責任だと思う?
ほかの近隣の住人。藤堂と同じアパートの人間にも、家森は脅したりすかしたり、褒め上げたりして聞き出した。まだ在宅でない人々が帰ってくるのをその周辺で見計らって、夜の十一時半までそんな話を聞いて回っていた。
本当に何も知らないような、もしくはそもそも深夜の物音にも人の様子にも関心を抱かない人間もいたが、かなりの数の人間が、口封じに十万円を握らされていた。
生活困窮者が多いのか、月十万円で簡単に警察の思惑に乗った人が一番多く、法外な金額を吹っかけて上手くせしめた者もいた。さっきの気の毒な老人と同じく、逮捕されかかった人間もほかに二人いた。
近隣住民は、深夜の不可解な物音や、窓から見えた木の下で男がしゃがみ込む光景について、もしくは藤堂みたいに掘り返した結果見つけたものについては話したが、金銭の授受についてはすぐには話さなかった。家森が、「分かってるんですよ」と冷たい笑顔で「貰っているものについては話さないおつもりですか?」と見下ろして恐喝するような声音を出すと、罪悪感からか口のモーターが勝手に回りだしたみたいに全部話してくれた。
「警察もそのうち内部調査で、お金をあげた相手の名前まで調べ上げますよ」
と家森は脅して、話を聞きだした後、
「全部話したから、私の名前は世間に漏れないようにしてくれ」
と追いすがる人に対して、こう話した。
「『無理矢理渡された。生活も苦しかった。そんなつもりじゃなかったんだ。だから話を聞いてくれる記者さんに明らかにしてもらおうと思って全部正直に話した』って言えば、お巡りさんも鬼じゃないです。警察も、自分たちが追及する前にあなた方はご自身で事を明らかにしようと努力したんだって認めてくれますよ。私も決してあなたの名前が出たり特定できたりするような内容は世間に出しません。ご安心下さい」
惚れ惚れするような素敵な笑顔で彼らの手を取って落ち着かせてやってから、肩を叩いてやった。
「失礼します。大変ありがとうございました」
その後、脅しをかけた時とはまるで打って変わった好青年のような調子でその家を後にして、頼れるし信じられるような颯爽とした背中を見せつけた。
この一連の寸劇が終わると、家森は少しだけ得意な気持ちになる。
「役者になれば良かったのに。性悪」
と藤堂がいつか出版社のロビーで誰かに携帯で自分の陰口を叩いていたのを家森は知っている。
それを思い出すと、家森はますます得意になる気持ちとそれほど危険でない程度の嗜虐的な気持ちが混ざってくる。
誰に向けた嗜虐かというと、誰でもいいが、藤堂でもいい。
とはいえ、別に彼女に対して悪意はない。仕事のやり取りと段取りを完璧にこなしたいだけだ。
気付けば雨が降っている。しずしずとした秋雨だ。家森が立っているアパートの二階の外廊下に並ぶ部屋のうち、階段のすぐ手前の部屋のインターフォンを押した。
「おい。開けろ、藤堂。家森だ」
戸が開けられて、家の中から目の造作だけが大きく良くできているが、あとは雑でガサツなパーツが付いた顔が出てきた。なんとなく小動物めいた片耳を見つめていたら、戸は十センチ程の隙間だけ開けて、それ以上の開放を止めた。チェーンロックを掛けて、藤堂がこっちを観察するように確かめていた。
「お前、なんか失礼だな」
「どこがですか。用心深いんですよ。どうぞ」
チェーンロックが外されて、一樹は家森を中に入れた。
「座布団が一つしかないぞ。椅子もないのに」
家森が文句を付けると、一樹は、コップの一つに麦茶を注いで、狭い部屋の割には天板の広すぎるローテーブルにわざと音を立てて置いた。
「どうぞお座り下さい。連絡遅かったじゃないですか?」
「遅いわけあるか。訪ねてくる彼氏どころか友達もいないんだな」
「そうですね。家森さんほどには孤立してませんけれど」
フンと鼻を鳴らして、家森は座布団にドカッと座った。
「朝の四時半時までに書け」
家森は、ICレコーダーと、自分のメモを手帳から引きちぎってテーブルに叩きつけるようにして乱暴に置いた。
「メール入稿されたら、ほとんどチェックなしで載せる。名前付きだ」
「蒲生の以前の家の人間からは何か重要な情報は聞けましたか?」
「まあ、何か口止めされているみたいな様子だけだな。後は、この近隣の他の住人に、お前じゃなくて俺が取材したら、彼らは口止め料貰っていることが分かった。断ったら国家権力使って逮捕されかけたそうだ」
「えっ?」
一樹は思わず意外そうな顔をした。しかし考えられることではあった。殺人事件が隠蔽され続けているのだから、手段は問わないかもしれない。
「まあ、いいから早く書け。俺はもう帰る」
「えっ。でも付近の交番と所轄、警察庁をもう少し叩いたほうが良くないですか? 分かった事実突きつけたら何か吐くかもしれないですよ。書いて出版しちゃったら、他の出版社も調べ始めますよ」
一樹は胸中が騒がしくなり慌てた。
「お前バカか」
家森の一言が一樹の額に直撃するように飛んだ。
「『逮捕される』って言ってたの聞いてなかったのか? また、閉じ込められるぞ。掲載してからのほうが、観念して、ポロポロ喋ってくれるお巡りさんもいるだろ。俺は、とりあえず疲れた。次は、今日一日遊んでいたお前の番だ」
家森は、この季節には厚手過ぎるような型崩れしたジャケットと、家で踏みつけて遊んでいるのかと思うようなぼろぼろの鞄を手に抱えて立ち上がった。
「『ジャーナリズムは鮮度が命』だ。時間がない。さっさと片付けろ」
家森は、大股で玄関まで歩いていって、一樹が見送る間もなく戸を開けて出ていった。
一樹は、用心深いはずなのに玄関ドアを施錠するのも忘れて、家森が口にしなかったコップの麦茶で口を湿らせて、テーブルの上にキャンパスノートを開いて何か書き留めながら、ICレコーダーを再生し始めた。
『片田舎の無根教と、警察関係者の隠蔽。殺人首謀者の教祖は警察庁長官の娘』




