10
深夜二時、五年前の春頃に、足立は、ささ野町内の縁にあるこんもりと広葉樹が茂った、丑三つ時の闇が足元から人を食う林の中に入っていった。手にはロープと折り畳みの踏み台が片手ずつに持たれて、両肩の動きに合わせて揺れていた。
足立の心はただただ空虚だった。心が空虚というのは、拷問のような退屈だ。そこから出られる救いとしては、「死」しか思いつかなかった。
死ぬことへの恐怖は覚えなかった。首を吊る苦痛や喉の引き攣りも容易に耐えられると思った。実際、足立はきっと耐えられただろう。
林に入った瞬間、闇が木の根となって足に絡みついて奥へと引きずられていくような感触を覚えた。そのことは歓喜も絶望も呼び覚まさず、ただ足立の空虚を搔き混ぜただけの結果を残した。夜気に混ざった土の匂いだけ、不思議とほんの少し足立の心に塩酸みたいな水を注いだ。
そんな心の水も必要なく、足立はロボットに似た意志をもって、踏み台に乗れば届く高さの木の枝を見つけて、きっちりと丁寧に輪っかを作ったロープを縛り付けた。
片耳のそばを蝶か蛾が飛び去っていった。ばたばたという羽音が鼓膜に直接届き、耳の内側に鱗粉が付いた気がした。
足立は、片手でグーを作って、四本の指の関節部分で耳を何度かぬぐった。
その時に足元があり得ないほどぐらつき、足立は踏み台ごと、ふかふかした養分のありそうな土の上に倒れた。
心を満たす塩酸みたいな水に溺れながら、土を身体から払いつつ身を起こすと、橙の光が辺りにあった。懐中電灯の明かりだ。光源を辿ると、自分自身の顔を下から照らした、顔立ちの清楚で愛くるしい、しかし口角の片側を不敵に吊り上げて笑う、女性――、少女がいた。
この少女が踏み台を蹴飛ばしたのだろう。ベージュのしなやかなワンピースの裾をくるぶしで揺らせ、きらきら光るラメの入ったピンクのカーディガンを纏う少女――と思ったのは、近づいていくとやっぱり立派な女なのが分かった。年は、二十七、八くらいだろうか。
「向こう行っといてくれないか」
足立が言うと、女は、
「私の散歩の道にあなたがいたのよ。運命ね」
糞くらえ、と思って女の首に手を掛けた。力を入れるのを逡巡する一瞬の間に女は、
「私、宗教作るのよ。信者になって入ってくれない? 優遇するわ。生活の面倒も見るし」
足立は女の目を見た。狂っている目ではなかった。「狂い」を通り越した黒い眼だった。
「満たしてあげる。あんたみたいな人間の無価値こそ、満ち足りる資格があるのよ。神は私よ。頭の中にミルクチョコレートをいっぱいに注がれたみたいに、満足な馬鹿にしてあげるわ」
足立は、瞬間的に欲情して、女の首を両手で包んで女の唇を吸った。生まれて初めて感情が爆発した瞬間だった。
その瞬間に、足立は腹部を女の足先で蹴られた。
「うぐっ」
蹴りの意外な鋭さに悶絶して、腹を押さえて、膝をついた。
「欲望は不幸の始まりよ。特に性欲は。あなたは自分自身をなくして神の純粋な入れ物になれる?」
――望むところだった。
「……なります……」
顔を上げると、女が笑っていた。包み込むような優しい笑みだった。
「知ってる」
足立が見惚れるように膝をついたまま顔を上げていると、女――、少女のような、慈母のような、毒婦のような――彼女が、膝を曲げて、足立の両腕に手を置いて、
「立っていいよ」
と立つことを促した。彼女自身が立ち上がりながら、その接触部分が上がるのに合わせて、足立は立って、膝を伸ばした。
彼女は、足立の膝の土を払ってやった。
「特別に私の名前教えてあげる」
彼女は、少女のように足立の顔を見上げた。無邪気に歯を見せて笑いながら、
「蒲生まり子。あなただけ特別よ」
蒲生まり子は、足立の手首を取って、林の出口へと急いだ。
足立には、なぜ彼女が急き立てられているような、靴のつま先で冷えた空気を裂くような歩き方をするのか、わからなかった。
後から考えると、足立自身は、空っぽだったが、蒲生まり子は、満ちて沸き立っていたのだと思う。
憤怒と、苛立ちと、復讐への焦燥で。
まり子に手を引かれて、すぐに林を抜けた。ロープと踏み台は放置してきた。足元が土からアスファルトになって安定した。
「あなただけ特別よ」と言って、足立の顔から林の出口の方へと振り返った時の、まり子の闇を刷いたような頬のすべらかさが残像のように目に焼き付いていた。
まり子は、町の中心の方へと歩いていった。足立の手首を強く引っ張りながら。その様子は、まるで親にこっちへ来てとせがむ幼女のようなひたむきさだった。
可愛らしく感じながら、わざと軽く抵抗しながら手を引かれていった。足立の頬は、次第に緩んだ。
久しぶりに笑った。生まれて初めて笑ったような気がして、右の目じりから涙が筋を引いた。
さぞ、汚物の詰まった汚い涙だろうなと自分で思った。
美観なんてない、ただ俗を生きるためにだけ作られた町の民家や商店の間、川にかかった卑小な橋を渡って、足立にとっての永遠の幸せの時間を経て、四角い建物の前に来た。
ドアはあるが、窓は見当たらない。闇をまとってそびえていた。
「あなたの家よ。さあ、入って。荷物取りに一たん自分の家に行く? でも、全部揃えてあげられるわよ」
まり子は、施錠していなかったらしいドアをそのまま開いて、星明りも届かない暗い室内を見せた。
「揃えてくれるか?」
「ええ。いいわ。さあ、入って」
まり子は、足立を促して、足立が入った後から自分も中に入り、ドア横の電灯のスイッチを入れた。
「中に行けばいいわよ。スリッパあるからそれに履き替えて」
まり子は、そう言いながら、後ろ手に玄関ドアの鍵をキチンと掛けた。
足立はその音を聞いて、心底安心した。
各々シャワーを浴びた二人は、まり子の部屋のダブルベッドで二人一緒に寝た。足立には、替えのトランクスとタンクトップの下着が与えられた。まり子は、フランス人形のようなネグリジェに着替えていた。
シーツの下で、足立は頭をまり子の胸に埋めて、抱かれていた。
疲労が溶け出していくようで、代わりによりどころを得た安心と休息が心に溢れた。涙がぽろぽろとシーツに落ちて布地に吸われていく。
「可哀そうにね」
まり子の声が鼓膜に沁みる。
「なんで死にたかったの?」
まり子は、足立の襟足の毛を中指で撫でながら、話し続ける。
「私もね、死にたいことあったよ。今でも死んでもいいような気もするよ。でも、なんでか出来ないの。きっと私には死ぬ以外にできることあるから。あなたに出会えたし。私のね、お父さんがね……」
足立は、何も話さなかった。まり子の話は子守歌のようだった。うっとりと心地いい気分でいつの間にか眠りに落ちたが、まり子の話はずっと続いていたような気がする。
そのうち、信者が増えて、この建物の住人も増えていった。もやしの栽培なんかの仕事も瞬く間に完ぺきに整えられていき、まり子の実行力と正確な運営に足立は脱帽しながら、彼女を見ていた。日にちを数える分別もないままに、足立は初めての宦官にされ、まり子に仕えた。
彼女とともに寝所に入って、頭を赤子のように抱かれて眠る権利を一度でも与えられた者が他にいるのかどうか、足立は知らなかった。
足立は普段他の信者たちとともに十人部屋に寝かされた。
足立は信者たちの指導役を担いながら、まり子の部屋の掃除や、紅茶の給仕や、彼女だけが時々頼む高級な菓子や弁当のネット注文、様々な支払い、雑事、印刷屋への連絡、ポスティングの依頼、彼女の身の回りと施設の管理運営にまつわる面倒なことを全部引き受けていた。
見たところ、そういった大切なお金や彼女のプライベートに関わる仕事を回されている者は、自分のほかにいなかった。
これが宦官の有り様だろうかと思っていたが、別の宦官を作った時、すぐに死なせて、死体を足立一人で運搬させられたので、一体まり子はどういうつもりなのだろうかと思った。
あの時の、子守歌のような話をもっとよく聞いていれば分かったのだろうか。
ある昼の事、にこにこと信者たちに有難い説教を講堂で話した後、教祖は二階の自室に上がった。足立は、なんとなく震える彼女の細く小さい身体を見下ろしながら、その後に従って中に入って、戸を閉めた。
「あああああっ」
抑えたような苛立ちの呻き声を漏らしながら、まり子は絨毯に手を付いた。
「教祖様……? 大丈夫ですか。お休みになっては……?」
思えば、説教の時からいつもと様子が違った。包み込むような母の眼差しに代わって、親し気な、どこか頼りない女の子の笑い方をしていた。
あれはヒステリーの前振りだったのだろうか。まり子は机に向かって突進していき、両手で天板を叩きハアハアと息をついた。広い机の端にあるおフランス風のドールハウスの中に入ったミニチュアの花瓶とキッチンが床に落ちた。
「トイレに行ってくる。吐いてくる……」
そう呟いて、振り向いてこっち側の戸口に向かう彼女とすれ違って、足立はドールハウスに近づいて、憐れで小さな花瓶とキッチンをそっと、足立の記憶の通りの位置に優しい、労わるような手つきで戻した。
まり子に付き添おうと戸口の方を振り返ると、まり子は戸口に突っ立って、じっと胡乱な目つきで足立を見ていた。
「もういいわ。治まったわ……」
まり子は、机の方に向かうと、椅子に座ろうとする直前に、足立の向う脛を強く蹴った。
教祖とも思えぬ仕草に足立は目を丸くするばかりだった。
まり子がチャック部分を壊してしまったマリメッコの花柄の薄青い色のポーチを、特に指示があったわけではないが修復してドールハウスの横に置いておいたことがあった。次の日にまり子の部屋に掃除に入った時に、今度は底の縫い目が破れて同じ場所に置かれていた。針と糸で直してやると、また横部分がぱっくりと破れて次の日に置いてあった。その度に足立は直して同じ場所に置いておいた。
ポーチを直して置いた最後の晩、足立が自室に入って寝ようと十人部屋の前に向かうと、部屋の前に、いつものよく整った教祖らしい様子の普段着姿のまり子が立っていた。まり子は、天井からと床の照り返しの電灯の光に上からも下からも照らされて、穏やかに人工的な感じで微笑んだ。
「疲れているところ申し訳ないんだけれど、手伝ってほしいことがあるの。付いてきて」
と彼女は足立に命令した。
ぼんやりと幸せな他の同部屋の信者たちは、ふわっとした疑問だけを視線に混ぜてこちらを見たが、特に意に介した風はなかった。
まり子は、自分の寝室に入っていった。そこでまり子は服を全て脱いだ。寝室はまり子によって、常夜灯が点けられていた。麻の紐をまいた傘がかかった質素な天井照明からの明かりがまり子の裸体を濡らした。淫靡なオレンジジュースを身体にかけたように身体を光らすまり子を、足立は特に動揺も感ぜず見つめた。この宗教は確かに足立に性欲を忘れさせている。初めてここに来た日にまり子に抱かれて寝た部屋だった。
大きなベッドだな。部屋の半分を占めている。
足立はそんなことを頭の片隅で思った。
「あなたは脱がなくていい」
まり子は足をシーツの下に入れた。そして足立を手招きした。
「私を愛撫して。あなたの性欲を満たすんじゃないの。私を満たすのよ」
足立は、宦官のまま教祖を絶頂に導いた。
足立は知った。教祖が自分を殺さないのは、自分が教祖の寂しさを満たしながら、教祖は相手を満たさないようにするための、選ばれた玩具だからなのだと――。
まり子は、淋しいのだ。極度の空腹を感じるみたいに。乾いて欲して、一番奪える方法で、食らいつくしたいのだ。
まり子が達したとき、足立は教祖を何よりも可愛く感じた。生きる術に、無様に貪欲に縋り付く彼女が、可哀そうで可愛く思えた。
彼女を尊重するように愛するのとは、意味が違う感情だった。
愛撫するように慈しみながら、その彼女の詐欺のような説教を上から見下ろして、それでもその嘘に自ら埋められていった。
包まれながら包んで、お互いの本来の姿がわからないくらいに、埋め合わせあっていた。
底意でお互いに対して敬意がない関係を、動物みたいだと足立は頭のどこかで分かっていた。
日が経つうちに、教祖はぽろぽろと自分の過去を順序に関係なく足立にしばしば話すようになった。
「私、子供いたのよ」
教祖はまるで、普通の経験をしてきた普通の女みたいな顔で、自分のかつてを世間話みたいに語る。話して切り離すみたいに、その声と内容を床にぽとぽと落としながら――。




