町長の椅子
翌週の試作品作成会。
グリフは敏夫の意見を伝えた。
春子は腕組みをしながら試作品を眺める。
「確かに一理あるわね」
そう言うと、さっそく蒸しただけのものを作らせた。
出来上がったものを一口食べる。
「これ、いいわ」
ココナッツの香りがしっかり残っていた。
「あまんより軽いですね」
グリフも頷く。
「何個でも食べられそうです」
「加藤、もう少し小さく作ってみて」
職人の加藤が手際よく作り直した。
小ぶりで丸い菓子が並ぶ。
「かわいいですね」
「商品にしましょう」
春子は即決だった。
「名前どうします?」
加藤が遠慮がちに言った。
「ココまる、とかどうでしょう」
「いいですね」
グリフも賛成した。
だが春子は首を振った。
「だめ」
「え?」
「“あまん”が売れてるんだから、“あまん”を名前に入れなきゃ」
「でも、揚げてませんよね」
「揚げてない“あまん”だから」
春子は当然のように言った。
「“生あまん”よ」
一瞬、空気が止まった。
加藤が助けを求めるようにグリフを見る。
グリフも困った顔をした。
「いや、“生あまん”って……」
「いい名前じゃない」
春子は自信満々だった。
「“生あまん ココナッツ味”に決まり」
加藤は少し考えた。
そして職人らしく空気を読んだ。
「……素晴らしいと思います」
「でしょう!」
春子は満足そうに笑った。
グリフは思った。
グリフは思った。
(揚げてないあまんを生あまん……)
(それって……)
(温かい冷やし中華みたいなもんじゃないか)
(もう普通のまんじゅうでいいだろ)
だが口には出さなかった。
藤樹堂の商品だ。
名前を決める権利は春子にある。
余計なことは言わないことにした。
すると春子が思い出したように言った。
「直人」
「はい」
「これ、あんたの店でも売ってね」
「え?」
「うちでも?」
「そうよ」
春子は当然という顔だった。
「コラボなんだから」
「両方の店で売れば宣伝になるでしょ」
「ジョコ君のおかげで人気店なんだし」
「よろしくね」
グリフは笑顔で答えた。
「わかりました」
その顔を見て春子は満足そうに帰っていった。
そして心の中だけで決めた。
――うちでは『ココまる』で出そう。
***
夏の観光シーズンが終わろうとしていた。
ワルン・クラサワは大盛況だった。
お盆には参道の外まで行列ができ、ジョコは連日フライパンを振り続けていた。グリフも店を離れることができず、敏夫の店の手伝いはほとんどできなくなっていた。
その代わり、敏夫が藤樹堂の事務仕事を引き受けていた。
もっとも、敏夫の方も以前ほど忙しくはなかった。
政治の仕事が減っていたからだ。
*
9月のある日。
倉沢町の公民館で武藤町長の後援会集会が開かれていた。
会場には100人ほどの人が集まっていた。
農協関係者。
商工会関係者。
建設業者。
町内会長たち。
見慣れた顔ぶれだった。
敏夫も会場の後方に座っていた。
以前なら違った。
開始30分前には会場入りし、主催者と挨拶を交わし、町長の到着を出迎える。
そして壇上で5分ほど話をする。
「武藤町長は町の発展のために尽力されております」
そんな決まり文句を言うのが仕事だった。
別に好きでやっていたわけではない。
だが、それも政治家の仕事だと思っていた。
「それでは続きまして――」
司会が名前を読み上げる。
敏夫は顔を上げた。
以前ならこの辺りで自分の名前が呼ばれていた。
だが呼ばれたのは別の町議だった。
建設業界と関係の深い議員だった。
その男は慣れた様子で壇上に上がる。
武藤町長との親しさをアピールしながら話していた。
会場から拍手が起こる。
敏夫も周囲に合わせて拍手をした。
表情は穏やかだった。
だが胸の奥には小さな棘が刺さっているような感覚があった。
*
(まあ、そうなるよな)
そう思った。
大野との面談以来、武藤との距離は確実に広がっていた。
誰かが意図的にやったのか。
それとも武藤自身の判断なのか。
もう分からない。
ただ結果だけははっきりしていた。
自分は中心から外れつつある。
それだけだった。
壇上では武藤が話している。
観光客が増えたこと。
道路整備が進んだこと。
町財政が改善したこと。
内容はいつもと大差ない。
敏夫は聞きながら周囲を見回した。
前列には推進派の面々が並んでいる。
皆、町長の話に大きく頷いていた。
以前は自分もあちら側にいた。
今は後ろの席だ。
たった数列の違いだったが、妙に遠く感じられた。
ふと視線が合った。
武藤だった。
一瞬だけ目が合う。
武藤は軽く会釈した。
敏夫も同じように会釈を返した。
それだけだった。
以前なら終わったあとに呼び止められ、
「藤田さん、この件なんだけど」
と相談を受けることも多かった。
今はない。
会釈だけだった。
集会はまだ続いていた。
だが敏夫は静かに立ち上がった。
トイレに行くような自然な動作だった。
誰も気に留めない。
出口に向かう。
外へ出ると夕方の風が吹いていた。
秋が近づいていた。
公民館の窓からは拍手が聞こえる。
誰かが演説を終えたらしい。
敏夫はその音を聞きながら駐車場を歩いた。
(政治というのは面白い)
心の中でそう思った。
昨日まで味方だった人間が、今日は距離を置く。
昨日まで頼りにしていた人間を、今日は呼ばない。
それは裏切りではない。
政治では普通のことだ。
理屈では分かっていた。
分かっていたが――。
(少しくらい、腹は立つな)
敏夫は苦笑した。
温厚な自分でも、さすがにそう思う。
長年付き合ってきた相手だ。
もう少し話くらい聞いてくれてもいいだろう。
そんな感情はあった。
だがすぐに首を振った。
感情で動く人間は政治に向いていない。
それはよく知っている。
武藤にも事情があるのだろう。
周囲に吹き込む人間もいる。
選挙も近い。
判断を誤れば負ける。
それだけのことだ。
*
車に乗り込む。
エンジンをかけた。
そして、ふとハンドルの上で指を止める。
以前なら真っすぐ家に帰った。
だが今日は違った。
携帯電話を取り出す。
グリフの店の番号を呼び出した。
数回の呼び出し音のあと、
「はい、ワルン・クラサワです」
グリフの声が聞こえた。
敏夫は少しだけ気持ちが軽くなった。
「直人君か。今からコーヒーを飲みに行ってもいいかな」
公民館の灯りをバックミラー越しに見ながら、敏夫は静かに車を発進させた。
その表情は穏やかだった。
だが心のどこかで、もう武藤派の一員ではなくなりつつあることを、はっきりと自覚していた。
***
敏夫が店に来たのは夜だった。
武藤の集会を途中で抜けてきたあとだった。
店の前に車を停める。
窓越しに見える店内は明るかった。
客が多い。
平日にもかかわらず席はほとんど埋まっているようだった。
敏夫は小さく息を吐いた。
自分が紹介した頃は、客が数人いるだけの日も珍しくなかった。
それが今では、この商店街でも目立つ店になっている。
少し誇らしくもあり、少しだけ羨ましくもあった。
「あ、敏夫さんいらっしゃい。テーブルは満席で、カウンターでもいいですか」
「ああ、もちろん。コーヒーをもらえるかな。できればアイスで」
店内は盛況だった。
1人、日本人が配膳や片づけを行っていた。
藤樹堂の加藤だった。
「おや、加藤君、ここで手伝ってるのかい」
「ああ、旦那さん。いや、実はこのあと英会話の勉強会があって、参加予定だったんですが、忙しそうなので手伝っています」
*
敏夫は出されたコーヒーを飲みながら店内を見渡した。
若い観光客。
商店街の店主。
仕事帰りのサラリーマン。
年配の夫婦。
客層が妙に広い。
流行りの店というだけでは説明できない感じがあった。
自然と人が集まっている。
そんな空気だった。
(不思議な店になったな)
敏夫は思った。
直人自身は意識していないだろう。
だが、この店には人を引き寄せる何かがあった。
閉店時間は8時から8時半に伸びていた。
最後の客が帰る。
すると入れ替わるように2人の男が入ってきた。
英会話勉強会の参加者なのだろう。
「今日も盛況だったみたいだな」
上村だった。
高校時代からの友人だ。
昔はかなり荒れていたと聞いている。
「上村、お前真面目に来るなあ。昔は勉強嫌いだったろうに」
「仕事で海外に行くことになりそうなんだ。金のためなら頑張るさ。今日は田中も来てるぞ」
後ろから入ってきた田中は、グリフたちの一学年下だった。
体格がよく、派手な服装をしている。
いかにも近寄りがたい雰囲気だった。
「田中かあ、久しぶり。あいかわらず、やんちゃしてんのか」
「今はちゃんと働いてますよ。土建屋ですけど、これでも社長ですよ」
敏夫は思わず田中を見た。
社長。
確かにそう言われれば、それなりの貫禄もある。
だが見た目だけなら相変わらず危なそうだった。
*
「なんか、いかついなあ。まあいいか」
「なんですか、それ」
店内に笑いが起きた。
「上村、今日も片付け手伝ってくれんだろう」
「もちろん、そのつもりだ」
グリフは2人に店のロゴ入りエプロンを渡した。
田中は色付きのサングラスを外した。
さらにエプロンを着る。
すると急に印象が変わった。
もともと童顔だったせいか、どこか愛嬌がある。
さっきまで建設会社の社長だった男が、学園祭の実行委員みたいになっていた。
「おい、田中。はじめるぞ。もたもたすんなよ」
「はいはい」
田中は素直に返事をすると、上村の後ろについて皿を運び始めた。
どうやら昔の上下関係はいまも残っているらしい。
敏夫はその様子を眺めていた。
不思議な光景だった。
土建屋の社長。
和菓子職人。
インドネシア人留学生。
商店街の店主。
そして英会話を学びに来る町の人々。
普通なら交わらない人間たちが、同じ場所にいる。
(これも直人の力なんだろうな)
そう思った。
少なくとも武藤の集会にはない空気だった。
肩書ではなく、人が集まっている。
敏夫は無意識にそんな比較をしている自分に気づいた。
少し前なら考えもしなかったことだった。
*
グリフが隣に座った。
「いやー、すみません。バタバタしちゃって。なんか店に入ってきたときは疲れている様子でしたけど」
「実は、なんだか武藤さんとのことでいろいろあってね。愚痴でも聞いてもらうと思ったんだが、今日はこのあと勉強会なんだろ」
グリフは何も言わなかった。
だが敏夫には分かった。
おそらく察している。
武藤派で何かあったのだろうと。
「ええ、今日は何人くるかな。商店街の皆さんが多いですが、それぞれが知り合いを連れてきて、名前も知らない人もいます」
「そうなのか。ちょっと私も飛び入り参加していいかな」
敏夫は少し笑った。
武藤の集会より、こちらの方が気楽かもしれない。
そんなことを思ってしまった自分に、少しだけ驚いていた。
「もちろん歓迎しますよ。……それで、何かあったのですか。今日武藤さんの集会だったんでしょ。あの時間に電話いただいたのだから、なんとなく察しはつきますが」
「まあ、多分当たってるよ。言いにくいことでもあるので、察してくれるのは助かるよ」
敏夫は苦笑した。
直人は昔から勘がいい。
相手の表情や口調の変化をよく見ている。
それが商売では強みになっているのだろう。
ただ、ときどき先回りしすぎる。
本人に悪気はないのだが、隠しておきたいことまで見透かされているような気分になることがあった。
――この甥っ子は優秀なのだが、先回りしすぎるところがあるな。
――玉に瑕というところか。
そんなことを考えていると、入口のドアが開いた。
*
カラン、とベルが鳴る。
「おや、敏夫くん、今日は君も参加かい」
総一郎だった。
いつものように背筋はまっすぐで、年齢を感じさせない足取りだった。
敏夫は反射的に立ち上がった。
町議になってからも、藤樹堂の社長になってからも、この人の前だけはどうも緊張してしまう。
「あ、お義父さん。ご無沙汰しています。川の清掃以来ですか。今日は私も参加しようと思っています」
「そうかそうか。ゆっくりしてきなさい」
総一郎は満足そうにうなずくと、
「直人、わしも手伝うぞ」
と言って、そのまま厨房へ向かっていった。
店の従業員でもないのに、妙に自然な動きだった。
「じいちゃん、今日は客だからな」
グリフが声を掛ける。
「客も働く時代じゃ」
「どこの時代だよ」
総一郎は聞いているのかいないのか、そのまま厨房へ消えていった。
敏夫はようやく席に座り直した。
そして思い出したように言った。
「そういえば、加藤のことなんだが」
「ああ、加藤さん。今日は手伝ってくれて助かりました」
敏夫は厨房の方をちらりと見た。
加藤は皿を運びながら、空いたグラスを下げ、ジョコに何か指示を受けている。
もう完全にこの店のスタッフだった。
「本人がOKであればだけど、しばらくこっちの店を手伝わせようか」
「え、いいんですか」
グリフは少し身を乗り出した。
「彼はコラボ作業中にうちのメインメニューも作れるようになってくれてますし、ジョコとも仲がいいみたいで助かります。藤樹堂のほうは大丈夫なんですか」
「まあ、職人の募集もかけているし、大丈夫だろう」
敏夫はそう言った。
実際には多少無理をしている。
だが今のワルン・クラサワには勢いがあった。
加藤をこちらに出すことで恩を売れるし、将来的な繋がりにもなる。
そんな計算がまったく無いと言えば嘘になる。
もっとも、それを口に出すつもりはなかった。
グリフは内心で思った。
――こちらから言い出したかった件だけど、先読みされたかな。
そこまで考えたときだった。
厨房の方から突然、大声が響いた。
「田辺さんのお爺さん! いつぞやは大変失礼いたしました! あれからは心を入れ替えて――」
店中が一瞬静まり返る。
グリフは慌てて厨房を覗いた。
田中が直立不動で最敬礼していた。
まるで会社の謝罪会見だった。
隣の上村は腹を抱えて笑っている。
ジョコは何が起きているのか分からず目をぱちぱちさせていた。
総一郎は目を細めて田中を見た。
数秒。
真剣に考えている。
どうやら本当に思い出そうとしているらしい。
やがて総一郎は口を開いた。
「おお、お前さんは…………」
田中の顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
「…………誰じゃ」
店の中に爆笑が起きた。
上村はカウンターを叩いて笑い、
ジョコはつられて笑い、
加藤は皿を落としそうになった。
田中だけが固まっていた。
「いや、そこ忘れるんですか!」
「いやあ、顔は見たことある気がするんだがのう」
「ひどいなあ!」
「田中、お前まだまだ修行が足りんってことだ」
上村が追い打ちをかける。
騒がしい笑い声が店いっぱいに広がった。
敏夫はその様子を眺めながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
武藤の集会では、もう味わえなくなった空気だった。
ここには肩書も派閥もない。
あるのは、人と人とのつながりだけだった。
もっとも――
それが時として、政治よりも大きな力になることを、敏夫は少しずつ理解し始めていた。
*
英会話の勉強会が終わったあと、敏夫はグリフに言った。
「明日の夜、予約を取りたいんだが席開いているかな」
「わかりました。大丈夫ですよ。何人ですか」
「うーん、3名、いや4名で頼む。7時からでいいかい。何かコースみたいのはあるのかな」
「特にコースメニューはないんですが、お任せでいいのであれば、それっぽくはできますよ」
「それで頼む。辛いものが苦手な人もいるから、少し抑えめで」
「わかりました」
敏夫は少し考えてから付け加えた。
「それと、できれば静かな席で」
「うち全部丸見えですけどね」
「それもそうか」
2人は笑った。
敏夫が帰ったあとも店はしばらく賑わっていた。
田中は総一郎に昔話を必死に説明していた。
高校時代。
酔っぱらってケンカをしていたこと。
そこへ総一郎が現れたこと。
仲裁に入ったと思ったら両方とも叩きのめされたこと。
その後、1時間以上説教されたこと。
「いや、本当にあの時は申し訳ありませんでした!」
「ほう」
「おかげで更生しました!」
「ほう」
「今では会社経営しております!」
「ほう」
総一郎は腕を組んで考え込んだ。
しばらくして言った。
「お前さん、強かったか?」
「え?」
「手ごたえのあるやつは覚えておるんじゃが」
田中は再び肩を落とした。
上村は大笑いしていた。




