久美子が運んだ風
翌週。
昼のピークを少し過ぎた頃だった。
店内は常連客でほぼ埋まっている。
グリフは一つだけ空けておいた予約席へ久美子を案内した。
「いらっしゃい」
「今日は1人ですか」
久美子はサングラスを外した。
「最近は1人が多いわ」
「大勢でいると疲れるようになって」
グリフは笑った。
昔は考えられなかった。
東京で会っていた頃の久美子は、いつも誰かに囲まれていた。
編集者。
モデル。
スポンサー。
恋人。
夫。
誰かしら連れていた。
今は1人だった。
それでも存在感は消えていない。
40代半ばを過ぎているはずだったが、美人という言葉はまだ十分通用した。
むしろ若い頃より雰囲気があった。
「なかなか繁盛してるじゃない」
久美子が店内を見渡す。
「最初は全然ダメでしたよ」
「1年かかってようやくです」
「でも夜とランチだけですね」
「昼はまだ弱い」
「今でも叔父の店でアルバイトしてます」
「そうなの」
久美子は笑った。
「でも東京の頃とは逆ね」
「東京は最初だけ良かった」
「そのあと坂道を転がるみたいだった」
「そうかもしれません」
「今の方が性に合ってるかも」
久美子は少し身を乗り出した。
「ただね」
声が小さくなる。
「客層が地味」
「地味ですか」
「地味」
即答だった。
「地元のおじさん率が高い」
「昼間、観光客いっぱい歩いてたわよ」
「若い女の子もいた」
「なのに全然入ってない」
「まあ」
グリフも否定できない。
「観光客は少ないですね」
「特に女性は」
「ここまで来てエスニックって感じじゃないんでしょう」
「カレーも出してみたんですが」
「来るのは男性客ばかりです」
「カレーは特別感ないもの」
久美子はメニューを見た。
「何がおすすめ」
「ナシゴレンかミーゴレンですね」
「じゃあナシゴレン」
*
しばらくして。
ナシゴレンが運ばれてくる。
香りが立つ。
久美子は一口食べた。
目が少し開く。
――おいしい。
東京で食べるナシゴレンとも違う。
辛い。
甘い。
海鮮の旨味。
そして何か癖になる。
気付けば食べ終わっていた。
グリフが皿を下げに来る。
「どうでした」
「本当においしかった」
「独特の味ね」
「ジョコの家のサンバルなんです」
「ルンザットの味ですよ」
「へえ」
久美子は厨房を見た。
そこには若い男がいた。
ジョコだった。
久美子は少し観察する。
背が高い。
顔立ちも整っている。
若い。
そして何より髪が多い。
視線は自然とグリフへ移る。
頭頂部。
少し薄い。
見なかったことにした。
プロとしての優しさだった。
(鑑賞対象としてはジョコ君の勝ちね)
*
「彼にも挨拶したい」
「もちろん」
グリフが呼ぶ。
「ジョコ、ちょっと来れるか」
ジョコは忙しそうな顔をした。
「昔世話になった人なんだ」
「悪いけど少しだけ」
渋々やってくる。
久美子は微笑んだ。
少しだけ首を傾ける。
昔モデル撮影で使っていた癖だった。
自然に相手の警戒心を下げる。
若い男にはだいたい効く。
「あなたがジョコ君」
「どなたですか」
ジョコは真顔で答えた。
「こちらのきれいなオバさんは」
「おっ、オバ、……!」
グリフが固まる。
久美子も固まる。
数秒の沈黙。
グリフはすぐにインドネシア語で言った。
「Jangan bilang tante. Panggil dia Kumiko-san.」
(おばさんと言うな。久美子さんと呼べ)
ジョコの顔色が変わる。
意味を理解した。
「あ!」
「ごめんなさい!」
そして慌てた。
慌て過ぎた。
「あ、ごめんなさい!」
「きれいな久美子さん!」
声が大きい。
店中に響いた。
客が一斉に振り向く。
久美子を見る。
久美子は顔を覆った。
「直人君」
「なんとかして」
*
そこへ新しい客が入ってきた。
常連の農家たちだった。
「ちっと早ぇがったか?」
「コーヒー飲んで待っててもいいべか」
「ああ」
グリフは助かったと思った。
「どうぞどうぞ」
「カウンターでもいいですか」
「いいよいいよ」
久美子が聞く。
「何か始まるの?」
「英会話です」
「英会話!?」
「何屋なの」
「自分でもよく分かりません」
グリフは本音で答えた。
エスニック料理屋。
英会話教室。
政治談義の集会所。
環境問題の相談所。
最近は和菓子の実験場にもなっている。
どこへ向かっているのか自分でも分からない。
*
久美子は立ち上がった。
バッグを肩に掛ける。
「でも料理は本当においしかった」
「宣伝してあげる」
スマホを取り出した。
「写真撮るから」
「明日のランチ終わる頃にまた来る」
「2時くらいでいい?」
「もちろん」
「ありがとう」
久美子はレジで会計を済ませる。
そして店を出る直前。
振り返った。
「直人君」
「はい?」
「やっと自分に合った店を作ったわね」
そう言い残して出て行った。
グリフはしばらく入口を見ていた。
外では春の風が吹いている。
店の中では常連客が東北弁で笑い合い。
奥ではジョコが鍋を振り。
夜には英会話教室が始まる。
昔、東京で追いかけていた成功とはずいぶん違う。
だが、不思議と悪くなかった。
***
翌日、約束どおり午後2時。
ランチタイムは終わり、店内は静かになっていた。
久美子は大きなカメラバッグを抱えて現れた。
「お待たせ」
「いや、こちらこそありがとうございます」
グリフは席を片付けながら言った。
ジョコも厨房から顔を出して会釈する。
「今日は仕事だからね」
久美子は笑った。
「容赦なく撮るわよ」
*
しばらくして。
店内にはシャッター音が響いていた。
カシャッ。
カシャッ。
一眼レフ特有の乾いた音。
ナシゴレン。
ミーゴレン。
サテ。
トムヤムクン。
次々に撮影されていく。
久美子は料理の向きを少し変えたり、皿の角度を調整したりするだけだった。
それなのに画面の中の料理は別物になる。
湯気が立っている。
油が光る。
香りまで伝わってきそうだった。
撮影が一段落すると、ノートパソコンを開いて確認会になった。
「ほら」
画面に映った写真を見てグリフは思わず声を漏らした。
「すごいな……」
ジョコも見入っている。
自分たちが作った料理なのに高級レストランのように見える。
「料理は同じなのに」
「違う料理みたいですね」
ジョコが感心する。
「写真ってそういうものよ」
久美子は慣れた様子だった。
「これは東京に持って帰る」
「旅雑誌の編集者に見せてみるわ」
「紙面は難しいかもしれないけど、Web版なら可能性ある」
「今は雑誌よりWebの方が強いもの」
「ありがとうございます」
グリフは頭を下げた。
「あと何かデザートある?」
久美子が聞いた。
「オリジナルがあるといいんだけど」
グリフとジョコは顔を見合わせた。
「あります」
「試作段階ですけど」
「叔父の和菓子屋とのコラボがあります」
「なにそれ」
久美子の目が輝いた。
「面白そうじゃない」
*
グリフは冷蔵庫から試作品を取り出した。
「こっちがココナッツあまん」
揚げまんじゅうの生地にココナッツミルクを練り込んでいる。
中には藤樹堂の粒あん。
「こっちがクレポン」
緑色の菓子だった。
「インドネシアのお菓子です」
「もち米の粉で作った団子みたいなもので、中にパームシュガーを入れてあります」
「食べると中から黒蜜みたいな甘いシロップが出てくるんです」
「本来はココナッツをまぶして食べます」
「今回は藤樹堂のあんこと組み合わせてみました」
「へえ」
久美子は興味深そうに見ている。
「写真映えしそう」
そこからまた撮影が始まった。
ココナッツあまん。
クレポン。
ナイフで切る。
餡を見せる。
断面を撮る。
湯気を撮る。
久美子は満足そうだった。
「いいわね」
「これ使える」
「じゃあ次」
久美子が立ち上がる。
「2人も撮る」
「え?」
「料理してるところ」
「自然にやって」
*
グリフとジョコは料理を始めた。
グリフはナシゴレン。
ジョコはミーゴレン。
久美子は黙ってシャッターを切る。
ポーズは要求しない。
笑えとも言わない。
ただ働いている姿を撮る。
それが久美子のやり方だった。
撮影が終わるころには夕方になっていた。
3人で作った料理を食べる。
久美子は満足そうだった。
「悪くない一日だった」
そして時計を見る。
「じゃあ行く」
「東京で夜に打ち合わせ」
「忙しいですね」
「売れっ子だから」
久美子は冗談めかして言った。
「夏の観光シーズンには間に合うように載せるわ」
そう言って帰っていった。
*
ところが。
予想外のことが起きた。
ゴールデンウィークだった。
店が混んでいる。
それも女性客ばかり。
20代。
30代。
観光客らしい。
みんなスマートフォンを見ている。
そして厨房の方をちらちら見ている。
ジョコが料理を運ぶ。
その瞬間。
ざわっ。
静かな歓声が起きる。
グリフは嫌な予感がした。
スタッフルームへ行く。
パソコンを開く。
検索する。
すぐに原因が分かった。
「なんだこれ」
Web記事が掲載されていた。
大きな写真。
フライパンを振るジョコ。
そして見出し。
『イケメンがつくる絶品ナシゴレン』
「…………」
グリフは無言になった。
そのとき外から声が聞こえた。
「ジョコ君どこ?」
「いたいた!」
「写真よりかっこいい!」
グリフは静かに画面を閉じた。
複雑だった。
非常に複雑だった。
しかし。
少し離れた席から別の声が聞こえる。
――でもあのおじさんも悪くなくない?
――わかる。
――おっさんだけど渋い。
――ちょっとワイルド系。
グリフは考えた。
(まあ……)
(ゼロではないな)
少しだけ機嫌が直った。
*
連休後。
久美子へ電話すると理由が分かった。
「編集長が気に入ったの」
「すぐ載せようって」
「Webだから早いのよ」
「なるほど」
「ジョコ君人気すごいわね」
「そうですね」
「複雑です」
「ふふ」
電話の向こうで笑い声がした。
しかし。
グリフが本当に嬉しかったのは別のことだった。
観光客の中に。
2回目の来店客がいた。
「また来たんですか」
「うん」
若い女性が笑う。
「なんか癖になるのよね」
「帰る前にもう1回食べたくなって」
ジョコ目当てだけではない。
料理も評価されている。
それが嬉しかった。
*
本格的に増員を考え始めた。
雇うならルンザットの人間がいい。
そう思い、久しぶりにディオへ電話した。
「父さんか」
「金がかかるから手短に言うぞ」
「ジョコみたいに出稼ぎ希望してる奴いるか」
「いるだろうな」
ディオは即答した。
「島も豊かになったが若い奴は外へ出たがる」
「見た目のいいやつがいい」
「見た目か」
ディオは考える。
「この島はなぜか整った顔が多いからな」
「俺ほどじゃないだろうが」
「自分で言うな」
「あと英語もできるやつ」
「注文が多いな」
「まあ探してみる」
グリフは少し浮かれていた。
うまくいけば2号店。
駅前。
英会話教室もできるかもしれない。
ルンザット出身のスタッフ。
観光客。
新しい展開。
夢は広がる。
だがすぐに頭を振った。
(まずいな)
(東京の時もこうだった)
調子に乗る。
拡大する。
失敗する。
同じ轍は踏みたくなかった。
*
1週間後。
ディオから電話が入った。
「グリフか」
「見つかったぞ」
「お、何人」
「20人」
「…………」
グリフは固まった。
「20人?」
「そうだ」
「足りるか」
「足りるかじゃない!」
思わず叫んだ。
「そんなにいらない!」
「確かに人数は言わなかったけど!」
「店1軒だぞ!」
「え?」
今度はディオが驚いた。
「そうなのか」
「困ったな」
「もうみんなに大丈夫だって言っちまった」
グリフは頭を抱えた。
「何やってんだよ」
「他の島にも広がってるぞ」
「ほっとくと増える」
「だから止めろ!」
「今すぐ締切!」
「あと2、3人も無理か」
「無理!」
「できれば20人も減らして!」
「それは勘弁してくれ」
ディオの声が真面目になる。
「俺の顔がある」
「族長だぞ」
「行く予定の家は祝いまでやってる」
「近所呼んで酒飲んだらしい」
「今さら断ったら殺される」
「大げさだろ」
「いや、本当に危ない」
「…………」
「来春くらいだと言ってある」
「それまでになんとかしてくれ」
「無理だ!」
「こっちも無理だ」
「人数言わなかったお前が悪い」
「頼むぞ」
「もう少し長生きしたい」
「じゃあ切る」
「待て!」
「父さん!」
電話は切れた。
*
店内は静かだった。
ジョコは仕込みをしている。
客はいない。
外では参道を観光客が歩いている。
平和な午後だった。
だがグリフの頭の中だけは大混乱だった。
20人。
しかも来春。
店は1軒。
部屋もない。
仕事もない。
ビザもない。
金もない。
「…………」
グリフは天井を見上げた。
遠い昔。
ルンザットでゲリラ問題に巻き込まれた時も大変だった。
だが今回は違う。
敵がいない。
誰も悪意がない。
全員善意で動いている。
その結果がこれだった。
「なんでだよ……」
小さく呟く。
厨房からジョコの声が飛んできた。
「直人さん」
「何だ」
「人見つかったか」
グリフはしばらく考えた。
そして答えた。
「見つかった」
「よかったな」
「…………」
グリフは答えなかった。
今の状況を説明するには。
少なくとも3時間は必要だった。
*
明るい店の将来と、来春にやって来る20人のルンザット青年たち。
その両方を抱えながら、グリフは日常を進んでいた。
――20人か。
考えれば考えるほど頭が痛い。
ワルン・クラサワに20人は入らない。
倉沢町全体で見ても、いきなり20人の外国人労働者を受け入れるのは簡単ではない。
敏夫の店。
藤樹堂の工場。
あるいは商店街の他の店。
何人か雇ってもらえないだろうか。
そんなことを考えていた矢先だった。
敏夫の方から声をかけてきた。
「直人君、また相談したいことがあるんだが」
「今夜、店に行ってもいいか」
「もちろんです」
グリフは即答した。
「実は私も相談したいことがありまして」
「そうか」
敏夫は少し疲れた顔で笑った。
「それじゃ夜に」
***
夜。
ワルン・クラサワ。
閉店後だった。
ジョコは片付けを終えると気を利かせて帰っていった。
店にはグリフと敏夫だけが残る。
コーヒーの香りが漂っていた。
「実は」
敏夫が切り出した。
「また太陽光発電の件なんだ」
「何かありましたか」
敏夫は苦笑した。
「大野さんなんだがね」
そこから敏夫は、武藤との面談の経緯を説明した。
大野との打ち合わせは何度か重ねていた。
最初は里山保全についての話だったが、やがて熊田地区のメガソーラー計画にも話題が及ぶようになった。
大野は計画そのものを頭ごなしに否定しているわけではなかった。
むしろ再生可能エネルギーの必要性は認めていた。
ただし、施工する業者によって環境への配慮に大きな差が出ることを気にしていた。
だから敏夫は考えた。
――武藤町長にも直接話を聞いてもらった方がいい。
そう思い、面談の場を設けたのだという。
ところが、その直前になって妙な噂が流れ始めた。
大野が昔、日教組の活動に関わっていたこと。
学生運動に近い集会に顔を出していたこと。
環境保護団体とのつながりがあること。
そういった話が、武藤の耳に入った。
誰が流したのかは分からない。
だが、タイミングが良すぎた。
「積極推進派の連中だろうね」
敏夫は苦笑した。
「まあ、証拠はないけど」
「武藤さんはそんなに気にしたんですか」
「気にしたね」
敏夫はコーヒーを一口飲んだ。
「武藤さんは70近いだろう。あの世代だと日教組とか左翼とかいう言葉に過敏なんだ」
「なるほど」
「学生運動や過激派のニュースをリアルタイムで見ている世代だからね」
敏夫は少し肩をすくめた。
「実際の大野さんはそんな感じじゃないんだけどな」
グリフも同意だった。
川の清掃活動で会う大野は穏やかな老人だった。
政治活動家というより、自然保護が趣味の元教師という印象の方が強い。
「それで面談はどうなったんです」
「最初から雰囲気が悪かった」
敏夫は率直に言った。
「武藤さんも露骨ではないんだけどね。警戒していた」
「大野さんも気づいたんですか」
「たぶんね」
敏夫は苦笑した。
「大野さんも元教師だから、人の顔色を読むのは得意だろう」
「それで?」
「反発した」
グリフは額を押さえた。
「ああ……」
何となく想像できる。
「最初は里山の話をしていたんだ」
敏夫は続ける。
「森林の保水力とか、生態系とか、土砂災害のリスクとか」
「それならよかったんですが」
*
「途中から業者の話になった」
「施工業者ですか」
「そう」
敏夫は頷く。
「過去に別地域でトラブルを起こした業者の例とか、無理な造成工事の話とか」
「それで」
「武藤さんが嫌な顔をした」
グリフは小さくため息をついた。
もう流れが読めた。
「大野さんとしては、業者によって環境への影響が違うという話をしたかったんでしょうけど」
「そうだと思う」
「でも政治家から見れば」
「そう」
敏夫が言葉を引き取った。
「業者を変えろと言っているように聞こえる」
店内が少し静かになった。
時計の秒針だけが聞こえる。
「里山への影響だけ話してくれればよかったんだが」
「業者の話になると政治になってしまう」
「そうですね」
グリフはコーヒーカップを回した。
「環境問題の話じゃなくて、利権の話になりますから」
敏夫は苦笑した。
「まさにその通りだよ」
話が終わると小さくため息をつく。
「ああ、それはうまくないですね」
「そうなんだ」
敏夫も頷く。
「大野さんの立場なら踏み込んじゃいけない場所ですね」
「本人は善意なんだろうけど」
「もう政治は業者込みで動いている」
「そこだけ切り離すのは無理です」
敏夫は静かに笑った。
「君は本当に政治家向きだな」
「いや」
グリフは首を振る。
「向いてたら今ごろ金持ちですよ」
2人とも少し笑った。
*
話はさらに進む。
大野が牛山陣営から接触を受けていること。
牛山派が再結集したこと。
太陽光発電が争点になる可能性。
選挙まで残り数か月であること。
グリフは考え込んだ。
「そうなると」
「大野さんが牛山側についたら、敏夫さんと敵対ですか」
「まあ表向きはね」
「私はあまり気にしないが」
敏夫は少し寂しそうだった。
「直人君は清掃活動で会うだろう」
「もしかすると距離を置かれるかもしれない」
「分かりました」
「でも大丈夫だと思いますよ」
「そうかな」
「たぶん」
グリフは答えた。
大野は思想で人を切るタイプには見えなかった。
少なくとも今までは。
*
話が一段落した。
店内に静かな空気が流れる。
敏夫の表情は明るくなかった。
そこでグリフは予定していたもう一つの相談を引っ込めた。
20人問題は今じゃない。
今夜の敏夫には重すぎる。
代わりに別の話を出した。
「そういえば」
「コラボ商品の件なんですが」
「かなり良くなったので試食してもらおうと思いまして」
「おお」
敏夫の顔が少し明るくなる。
運ばれてきたのは2品。
ココナッツあまん。
そしてクレポン。
敏夫は見るなり言った。
「ほう」
「クレポンか」
「中がうちの餡になってるんだな」
「そうです」
「こちらはココナッツあまん」
「生地にココナッツミルクを入れてます」
敏夫は黙って食べる。
敏夫はクレポンも知っていた。
「ほう、クレポンだったか。中身がうちの餡か、なるほど。こっちは“あまん”の生地にココナッツを入れたんだな」
「そうです。さすがですね。クレポンもご存じだったんですか」
「まあ、食べ物については勉強しているからね。ましてお菓子は専門だ」
敏夫はクレポンを半分に割って断面を眺めた。
「ただ、このクレポンは小豆餡でいいのかな。栗餡やかぼちゃ餡のほうが合うような気がする」
「なるほど」
グリフは思わずメモを取った。
敏夫は続けた。
「それと、この“あまん”だが、生地にココナッツを入れたなら、揚げない方がいいかもしれない」
「揚げない?」
「揚げると油の風味が勝ってしまう。蒸しただけのほうがココナッツの香りが残るんじゃないかな」
グリフは感心した。
春子は感覚で話す。
敏夫は理屈で話す。
同じ商品を見ても、見ている場所が違うのだ。
「確かに、言われてみればそのほうが上品な感じがしますね」
「私の取引先はデパートやホテルが多いからね。春子たちとはお客さんの層が違うだけかもしれない」
敏夫は少し笑った。
「ただ、売上を立てているのは春子の方だよ。“あまん”のおかげで藤樹堂はかなり助かっている」




