4人の倉沢暮らし
4人は、食事を急いで終えると着替え始めた。
最初に準備を終えたのはナノだった。
21歳。
漁師の家に生まれたが、観光客向けのホテルで働いた経験があり、4人の中では最も英語が得意だった。
宿泊客を迎える際に着たことがあるのか、スーツにも慣れている。
シャツの襟を整え、自分でネクタイを締めた。
「これで大丈夫ですか」
ナノが立ち上がり、両腕を少し広げる。
「うん。丈もちょうどいいな」
「高かったんじゃないですか」
「気にするな。遠くから来てくれた君たちへの贈り物だ」
「昨日は床屋にも連れていってもらいました」
ナノは、短く整えられた髪へ手を触れた。
「飲食店で働いてもらうからな。身だしなみは大事だ」
「プレゼントというより、半分は必要経費みたいなものだ」
「半分はプレゼントですか」
「半分くらいはな」
「では、半分だけありがとうございます」
ナノが真面目な顔で言った。
「全部、感謝していいんだぞ」
グリフが答えると、ほかの3人が笑った。
*
次に着替え終わったのはアディだった。
20歳で、4人の中では最年少である。
ネクタイを首へかけたまま、どうしてよいか分からず立っていた。
「グリフさん。これは、どこから入れるんですか」
「貸してみろ」
グリフはアディの正面へ立ち、ネクタイを結んでやった。
アディは、まるで儀式を受けているように姿勢を正している。
「そんなに固くなるな。首が絞まるぞ」
「はい」
「今、返事をすると本当に絞まるから、じっとしてろ」
結び目を整え、襟元へ上げる。
「できた」
鏡を見たアディは、目を輝かせた。
「ありがとうございます!」
「島の英雄であるグリフさんに、ネクタイまで結んでもらったと家族へ自慢します」
「そこは自慢しなくていい」
「父も絶対に喜びます」
ルンザットでは、グリフはゲリラ撃退を指揮した英雄として語られていた。
本人が島にいないことが、伝説を広げるうえでは都合がよかったらしい。
村で揉め事が起きると、
「グリフなら、こう言ったはずだ」
「グリフは、あの戦いのときにこうした」
などと、本人が言ってもいない言葉が引用されたこともあるという。
電話がつながりやすくなり、島から直接グリフへ確認できるようになると、そうした勝手な引用は減っていった。
一度、
「グリフが、漁場の境界はこの岩までだと言った」
と主張する者が現れ、相手方から電話を受けたことがある。
もちろん、グリフには何の記憶もなかった。
島全体が本気で英雄視しているわけではない。
長く一緒に暮らした者は、グリフが寝坊もすれば、料理を焦がすことも知っている。
ただ、アディの父親は、ゲリラとの戦いでグリフと行動を共にした1人だった。
息子へ、自分とグリフの戦いを活劇のように何度も語っていたらしい。
その影響で、アディの中では、グリフは本人より2割ほど賢く、3割ほど勇敢で、5割ほど格好よい人物になっていた。
――本人に会って、幻滅しなければいいけどな。
グリフは少し心配だった。
*
3人目はリザルだった。
4人の中で最も体格がよい。
漁師として船へ乗っていたため、肩幅が広く、腕も太い。
シラットの経験もあり、すでに何度か総一郎の道場で稽古をしていた。
総一郎は、4人の中で真っ先にリザルへ目をつけている。
「ありがとうございます」
リザルは鏡の前で、左右から自分の姿を確認した。
「似合っていますか」
「ああ。似合ってる」
グリフは素直に答えた。
「かなり格好いいよ」
「彼女にも見せたいです」
すると、すぐにアディが口を挟んだ。
「どの彼女ですか」
リザルは鏡から目を離さず答えた。
「みんなだな」
部屋が静かになった。
グリフは、ゆっくりリザルを見る。
「お前、何人ともつき合っていたのか」
「同時ではありません」
リザルは慌てて振り返った。
「ちゃんと、時間を空けています」
「時間を空ければいい問題なのか」
「1人と別れてから、次の人です」
「どれくらい空けた」
「長いときは、1か月くらいです」
「短いときは?」
リザルは答えなかった。
ナノが横から言った。
「3日です」
「ナノ!」
「同時ではないですね」
ラフマンが静かに補足した。
「ほぼ同時ですが」
グリフは額へ手を当てた。
ルンザットだからといって、男女関係の倫理観が日本と大きく違うわけではない。
恋人が頻繁に替われば、当然、周囲で噂にもなる。
グリフ自身、若いころはそれなりに女性との付き合いがあった。
だが、二股をかけたことはない。
少なくとも、本人の記憶ではそうだった。
やがて髪の生え際が後退するのと歩調を合わせるように、女性の方も近づかなくなった。
――見た目がそんなに大事か。
一時期は本気で憤った。
反対に、立場や店の人気が上がってから近づいてくる女性も、素直には信じられなくなった。
倉沢へ来てからは忙しさもあり、誰とも付き合っていない。
「日本では問題を起こすなよ」
グリフは念を押した。
「ルンザットでも問題は起こしていません」
リザルが胸を張る。
その瞬間、ほかの3人がそろってリザルを見た。
誰も何も言わない。
だが、全員の表情が、
――起こしていただろう。
と語っていた。
「みんな、なぜそんな顔をするんですか」
リザルだけが納得していない。
――こいつは要注意だな。
――じいちゃんにも言っておこう。
総一郎が恋愛問題の監視に向いているかは分からない。
むしろ、
「若えうちは元気でいい」
と妙な方向で応援する可能性もある。
それでも、夜遅くまで帰らなければ、竹刀を持って探しに行くくらいはするだろう。
*
最後はラフマンだった。
25歳で、4人の中では最年長である。
ジョコよりも2歳上だった。
漁師の家に生まれ、自身も船へ乗っていた。
口数が少なく、ほかの3人から少し距離を置いているように見える。
年下のジョコから仕事を教わることに抵抗がないか、グリフは少し心配していた。
「ネクタイはどうだ」
ラフマンは、先に着替えを終えたナノから教わりながら、自分で結んでいた。
何度かやり直したあと、少し形の不揃いな結び目が出来上がる。
「グリフさん。自分でもできました」
「おお、できたか」
グリフは近づいて、結び目を少しだけ直した。
「初めてなら十分だ。苦しくないか」
「大丈夫です」
「スーツは窮屈じゃないか」
「船の雨具よりは楽です」
ラフマンは真顔で答えた。
「比較する相手が悪いな」
ラフマンの口元が、わずかに緩んだ。
無口ではあるが、冗談が通じないわけではなさそうだった。
「よし。全員着たな」
グリフは4人を見渡した。
普段はTシャツやパーカーで過ごしている若者たちが、今日はそろってスーツ姿で立っている。
思っていた以上に見栄えがした。
「せっかくだから、写真を撮ってルンザットへ送ろう」
その言葉を聞いた途端、4人が一斉に鏡の前へ集まった。
ナノは髪を整える。
アディはネクタイを触る。
リザルはジャケットの前を開けた方がよいか、閉じた方がよいか試している。
ラフマンは、そんな3人を少し離れた場所から眺めていたが、最後には自分も襟元を確認した。
「さっきまで、服は何でもいいような顔をしていただろう」
グリフが言うと、ナノが答えた。
「家族へ見せるなら、格好よくなければいけません」
「なるほど」
*
全員を外へ連れ出した。
アパートの前では建物が古く見えるため、少し歩いて道場の庭へ移る。
背景には、まだ葉の少ない木々と、総一郎の古い道場が見えた。
和風の建物とスーツ姿のインドネシア人青年という組み合わせは、意外と絵になった。
グリフは4人を並ばせた。
「ナノとラフマンが後ろ。アディとリザルが前」
「なぜ自分が前なんですか」
リザルが尋ねる。
「体が大きいから、後ろだとほかの3人が隠れる」
「では、前でも隠れるんじゃないですか」
「少ししゃがめ」
「自分だけですか」
「写真というのは、平等ではないんだ」
リザルが不満そうに膝を曲げる。
「はい、撮るぞ。笑って」
4人が笑顔を作る。
リザルだけが、少し腰のつらそうな顔になっていた。
何枚か撮影したあと、グリフは写真を確認した。
「これをディオへ送る。印刷して、みんなの家族へ渡してもらうよ」
*
「次はグリフさんも入りましょう」
アディが言った。
「俺もか」
「家族は、グリフさんと一緒の写真を見たいです」
「私の家族もです」
ナノも同意する。
「自分の元彼女たちも見たいと思います」
リザルが言った。
「元彼女たちには送らなくていい」
グリフは即答した。
スマートフォンを取り出し、4人を自分の周囲へ集める。
「もっと寄ってくれ。全員入らない」
4人が肩を寄せた。
グリフは腕を伸ばし、画面の中へ全員が収まる位置を探した。
「接客の基本は笑顔だからな。みんな、いい顔をしてくれ」
「グリフさんもです」
アディが言う。
「俺も笑ってるよ」
「少し顔が怖いです」
「腕を伸ばしてるから力が入ってるんだ」
「もっと上から撮った方がいいです」
ナノが助言する。
「なぜだ」
「みんな、顔が細く見えます」
「そんな技術をどこで覚えた」
「ホテルの女性客が、いつもやっていました」
グリフは言われたとおり、スマートフォンを少し高くした。
「撮るぞ」
5人が顔を寄せる。
画面を押す直前、リザルが言った。
「グリフさん、髪がよく見えますね」
「黙れ」
その瞬間に写真が撮れた。
確認すると、4人は爽やかな笑顔だった。
グリフだけが、リザルへ怒りかけた微妙な表情になっている。
「撮り直す」
「自然でいい写真だと思います」
ラフマンが静かに言った。
ほかの3人も頷く。
「家族も喜びます」
「グリフさんらしい顔です」
「俺らしいとは、どういう意味だ」
結局、同じ構図でもう1枚撮ることになった。
今度は、撮影直前に誰も髪の話をしなかった。
写真を確認する。
スーツ姿の4人は、やはりなかなかの男前だった。
中央にいる自分も、思ったほど悪くはない。
そう思いながら、グリフは少しだけ後悔した。
――帽子をかぶってくればよかったな。
***
3月の間、グリフはルンザットから来た4人へ、日本で生活するための基本を教えていた。
日本語学校の授業が本格的に始まる前に、できる限りのことを覚えてもらわなければならない。
買い物の仕方。
電車やバスの乗り方。
銀行や役場での手続き。
病院へ行くときの対応。
自転車の交通ルール。
近所の人に会ったときの挨拶。
そして、最も説明に時間がかかったのが、ごみの出し方だった。
グリフは、町から配布された分別表を4人の前に広げた。
「燃えるごみは、この袋だ。火曜日と金曜日の朝に出す」
アディが表をのぞき込む。
「プラスチックは、燃えないごみですか」
「倉沢では、容器包装のプラスチックは別だ」
「この箱は紙ですか、プラスチックですか」
ナノが、菓子の空き箱を持ち上げる。
「箱は紙。中の透明な容器はプラスチックだ」
リザルが不満そうな顔をした。
「一緒に入れては駄目ですか」
「駄目だ」
「日本人は、ごみを捨てる前に分解するんですね」
「そうだ」
「食べる時間より、捨てる時間の方が長そうです」
「慣れれば早くなる」
グリフは答えたものの、自分でも面倒だと思うことはあった。
4人は、最初のうちは何でもグリフへ確認した。
空になった調味料の瓶。
魚の入っていた発泡スチロール。
壊れた傘。
乾電池。
グリフも分からないものについては、町の分別表を見直さなければならなかった。
「これくらい、間違えても大丈夫じゃないですか」
リザルが言ったことがある。
グリフは、そのとき少し厳しい顔をした。
「1回だけなら、大きな問題にはならないかもしれない」
「でも、ごみ置き場に違う袋が残されれば、近所の人は誰が出したのか探す」
「外国人が来た直後なら、最初に君たちが疑われる」
リザルの表情が変わった。
「自分たちが出していなくてもですか」
「その可能性はある」
「それは不公平です」
ラフマンが静かに言った。
「不公平だよ」
グリフも否定しなかった。
「だからこそ、疑われる材料を作らない方がいい」
ごみだけではない。
夜遅くまで大声で話さない。
部屋で音楽を流すときは、隣室へ響かない程度にする。
自転車で歩道を走るときは、歩行者を優先する。
無断で他人の敷地へ入らない。
近所の畑に珍しい果物が実っていても、勝手に取らない。
*
店で働く時間についても、学校を休んでまで勤務してはならないと繰り返し説明した。
「君たちの目的は、まず勉強だ」
グリフは勤務表を見せながら言った。
「アルバイトは、資格外活動の許可で認められた範囲を超えないよう、こちらでも時間を管理する」
アディが手を挙げた。
「もっと働きたい場合は、どうしますか」
「働かせない」
「家族へ、たくさんお金を送りたいです」
「気持ちは分かる。でも、学校を休んだり、決められた時間を超えて働いたりすれば、君自身が日本にいられなくなるかもしれない」
「そうなれば、仕送りどころではない」
アディは残念そうだったが、頷いた。
グリフは、日本で外国人留学生や労働者が地域住民とトラブルになった事例も調べていた。
深夜の騒音。
ごみの分別。
自転車の放置。
勤務先以外での無許可就労。
家族や友人を無断で住居へ泊めること。
文化や習慣の違いから起きた小さな行き違いが、いつの間にか、
「外国人はルールを守らない」
という大きな話へ変わってしまうことがある。
グリフは、必要だと思ったことを細かく説明した。
時には、4人がうんざりするほど繰り返した。
ある夜、ラフマンが尋ねた。
「グリフさんは、自分たちを信用していないのですか」
ほかの3人も、その場では黙っていた。
だが、同じ疑問を持っている顔だった。
「信用していないわけじゃない」
グリフは答えた。
「ただ、君たちは最初の4人だ」
「君たちが日本で真面目に学び、働き、信頼されれば、ルンザットから次の人を呼びやすくなる」
「逆に問題を起こせば、後から来る人間まで警戒される」
ラフマンは少し眉を寄せた。
「つまり、自分たちが失敗すれば、ほかの人が日本へ来られなくなるのですか」
「そこまで単純ではないが、影響はする」
「重いですね」
ラフマンの声に、わずかな反発が混じった。
「自分たちは、島の代表になるために来たわけではありません。勉強して、働いて、家族を助けるために来ました」
グリフは、すぐには答えなかった。
ラフマンの言うことはもっともだった。
最初の4人だからという理由で、島全体の将来まで背負わせるのは酷かもしれない。
自分は4人を守ろうとしているつもりだった。
だが、守ることと、過剰な責任を負わせることは違う。
「悪かった」
グリフは素直に謝った。
「君たちの失敗が、すべて島の責任になるわけじゃない」
「何か問題が起きたら、受け入れた俺や藤樹堂にも責任がある」
4人がグリフを見る。
「ただ、君たちが最初に見られることは事実だ。だから、普通の留学生より少しだけ慎重に行動してほしい」
ラフマンはしばらく考えたあと、頷いた。
「少しだけなら、分かりました」
「少しだけだ」
「ごみを全部分解するのも、少しだけですか」
リザルが尋ねた。
「あれは全部やれ」
グリフが即答すると、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
4人は真面目だった。
同じことを何度も注意しなければならない場面はあったが、故意に規則を破る者はいなかった。
ラフマンも、納得できないことは口にするが、一度理由を理解すれば誰よりもきちんと守った。
むしろ、ほかの3人が夜遅くまで話していると、
「グリフさんが、声を小さくしろと言っていた」
と注意するようになった。
グリフは、ラフマンが反抗的なのではなく、自分で納得してから行動したい人間なのだと理解し始めていた。
***
4月に入ると、4人は日本語学校へ通いながら、ワルン・クラサワでアルバイトを始めた。
資格外活動として認められた時間を超えないよう、勤務時間は黒田が表にまとめ、グリフとジョコが毎週確認した。
店での指導は、主にジョコと加藤へ任せた。
「アディ、注文を聞いたら、最後に繰り返してください」
ジョコが日本語で教える。
「ナシゴレン、一つ。辛くない、一つ」
アディが客の注文を復唱する。
「『辛くない』ではなく、『辛さ控えめ』です」
「辛さ、ひかえめ」
「そうです」
一方、厨房では加藤がリザルへ包丁の持ち方を教えていた。
「力を入れすぎなくていいですよ」
「魚は、もっと強く切ります」
「これは魚ではなく、ネギです」
「ネギは弱いですね」
「弱いから、優しく切ってください」
ラフマンは黙々と洗い場を担当し、ナノは英語を話せることもあって、外国人観光客への接客で早くから力を発揮した。
ジョコは調理と接客に加え、通訳まで担当していた。
4人が日本語を理解できないと、必ずジョコが呼ばれる。
「ジョコ、アディが分からないって」
「ジョコさん、リザルが勝手に辛くしました」
「ジョコ、ラフマンが何か怒っています」
店内のあちこちから名前を呼ばれ、一日が終わるころには、さすがのジョコも疲れ切っていた。
グリフは、ジョコの給与を大きく引き上げた。
一般的な留学生アルバイトの時給ではなく、勤務時間に応じた報酬に加え、通訳と新人教育を担う手当を付けた。月額では、日本の若い正社員に近い水準になるよう調整した。
「こんなにもらっていいんですか」
給与明細を見たジョコが驚いた。
「今やっているのは、普通のアルバイトの仕事じゃないからな」
「でも、自分もまだ学生です」
「学生でも、仕事の責任は増えている」
「4人を育ててもらわないと、俺が困る」
ジョコは明細をもう一度見た。
「では、もっと厳しく教えます」
「急に偉くなるなよ」
藤樹堂の一事業になったことで、ワルン・クラサワの資金面は以前より安定していた。
店単体の売り上げだけを見ていたころなら、ジョコへ十分な報酬を支払うことは難しかっただろう。
人を育てる仕事へ正当な対価を支払えるようになったことは、藤樹堂の傘下へ入った大きな利点だった。




