住民投票と4人の若者
2月も後半に入ったころ、敏夫から住民投票について報告があった。
2人は、いつもの打ち合わせ用テーブルへ座っていた。
敏夫は手帳を開きながら言った。
「いよいよ明日、村田さんが住民投票を行う方針を公表する」
「正式に発表するんですか」
「ああ。ただし、明日の時点で実施が確定するわけではない」
敏夫は念を押した。
「3月の議会へ、今回のメガソーラー計画について問う住民投票条例案を提出する。その方針を表明するんだ」
「議会で条例が通れば、投票を実施する」
「そういうことだ」
「投票日は決まっているんですか」
「案としては6月7日。6月の第1日曜日だ」
グリフは頭の中で日程を確認した。
条例案を3月議会で成立させる。
その後、住民への説明、投票資格者名簿の作成、投票所の準備を進める。
事業者が着工時期を7月まで延期したため、6月上旬に投票できれば、結果を受けた最終協議にも多少の時間を残せる。
「間に合いそうですね」
「ああ。余裕があるとは言えないが、何とかなる」
「村田さんが住民投票を進めると決めてから、半月以上たっていますよね」
グリフが尋ねた。
「何か迷っていたんですか」
敏夫は首を横に振った。
「いや。これでも、かなり早い方だよ」
「条例の文案を作り、選挙管理委員会と調整し、費用を見積もる。議会で賛成してくれそうな議員にも、ある程度は事前に説明しておかなければならない」
「表に出す前の準備ですか」
「そうだ」
敏夫は少し笑った。
「村田さんは、迷うどころか、今ではかなり乗り気になっている」
「最初は五分五分だったのに?」
「事情が変わった」
敏夫は一度、周囲に人がいないことを確かめた。
春子と黒田は、それぞれ別の作業に集中している。
「ここだけの話だが、村田さんは、その先を狙っている」
「その先?」
「町長より上だ」
グリフは一瞬考えた。
「県政か、国政ですか」
「そういうことだ」
敏夫は声を落とした。
「村田さんは若い。自分の政治能力にも、かなりの自信を持っている」
「住民投票を成功させ、メガソーラー問題を決着させる。住民参加型の町政を進めた若手町長として知名度を上げ、その実績を足場に県政か国政へ転じたいらしい」
「町長は1期だけのつもりですか」
「現時点では、そのつもりのようだ」
グリフは驚きながらも、同時に納得した。
村田が牛山派の中で、本命の町長候補ではなかったという話を思い出す。
次の選挙で派閥の本命候補に席を譲らされる可能性があるなら、町長の地位に固執するより、一度の任期で大きな実績を作り、別の舞台へ移った方がよい。
「村田さんが4年で町長を辞めるなら、牛山派としても応援しやすいですね」
「そうなんだ」
敏夫が頷いた。
「牛山派の重鎮にとっては、次の町長候補を出す機会が残る。村田さんが町長の座へ居続けるより、県や国へ送り出す方が都合がいい」
「村田さんにとっても、派閥と正面から争わなくて済む」
「それに、町から上へ出た政治家がいれば、牛山派にも利益がある」
「道路や補助金の話を持ってきてもらえるかもしれませんからね」
「そういう期待もあるだろう」
グリフは、住民投票案を考えたときには、村田が町内で自分の派閥を作ることを想定していた。
しかし村田自身は、倉沢町の中で長く権力を握るより、外へ出る道まで見ていたらしい。
――思っていたより、野心が大きいな。
地域活性化推進委員会で感じた、村田のどこか上から人を見るような態度も、それなら理解できる気がした。
本人の視線は、すでに町役場の外へ向いているのかもしれない。
*
「議会は通りそうなんですか」
グリフが尋ねる。
「保守系では、まだ武藤派の方が多いですよね」
「武藤派だけなら否決できる」
敏夫は手帳に簡単な数字を書いた。
「だが、牛山派に加え、住民参加を重視する革新系や無所属の議員が賛成すれば、過半数に届く見込みだ」
「それに、私は牛山派の中でも村田さんに近い議員として動くことになった」
「村田グループですね」
「まだ、そんな立派なものではないよ」
敏夫は苦笑した。
「ただ、今回の条例案を私が強く支持することで、賛成へ回る議員は何人かいると思う」
「前に、牛山派から武藤派へ移った議員がいましたよね」
選挙活動中、武藤派の集会へ参加していた町議である。
「あの人はどうなったんですか」
「あっさり牛山派へ戻ったよ」
「戻れたんですか」
「あれは武藤派へ移ったのではなく、敵情視察だったと言っているらしい」
グリフは思わず笑った。
「そんな言い訳が通るんですか」
「通ったことになっている」
「便利ですね、敵情視察」
「政治の世界では、本人と周囲が同じ説明を使えば、それが公式な事実になることもある」
敏夫は淡々と言った。
派閥を移る者は、裏切り者と呼ばれる。
一度裏切った人間は、次も裏切るかもしれない。
牛山派へ戻った町議も、表向きは受け入れられていても、以前と同じだけ信用されているとは限らない。
そして、それは敏夫も同じだった。
武藤派を離れ、牛山派の推す村田を支えた。
町長選挙で功績を挙げたとはいえ、牛山派の古参から見れば外様である。
信用を得るためには、今回の住民投票でも成果を出さなければならない。
*
「事業者との交渉は、どうなりました?」
グリフが尋ねた。
「そちらも道筋はついた」
敏夫の表情が少し明るくなった。
「村田さんが本気だと分かると、事業者も方針を変えた」
「建設を押し通すのではなく?」
「住民投票が避けられないなら、その状況を利用して利益を得る方向へ舵を切ったようだ」
「どうやってですか」
「住民の意思を尊重する事業者として広報する」
敏夫は説明した。
「町側と協力して情報を公開し、住民の選択を受け入れる。景観対策や防災面の追加案も示す」
「それによって、地域と対立する会社ではなく、地域との合意を重視する優良事業者という印象を作る」
「同業他社との差別化ですか」
「そうらしい」
グリフは頷いた。
「自治体にとっても、地主にとっても、周辺住民と対立ばかり起こす事業者は避けたいですからね」
「住民投票が報道されれば、会社の知名度も上がる」
「負ける可能性がある投票を、広告に使うわけですか」
「どちらの結果でも、損を減らせる形を考えているんだろう」
建設容認が選ばれれば、住民の支持を得た事業として堂々と工事を進められる。
規模縮小や景観対策付きの案が選ばれても、住民の意見へ柔軟に対応した企業と宣伝できる。
中止に近い結果となれば損失は出るが、住民の意思を尊重して撤退した会社として、ほかの地域での評価につなげられる。
「ビジネスですからね」
グリフが言った。
「外部の状況が変われば、最も利益が出るやり方へすぐ切り替える」
「政治家より、決断は早いかもしれないな」
「春子さんほどではないでしょうけど」
*
2人は小さく笑った。
「町長側にも、事業者側にも、道筋が見えてきたということですね」
「ああ」
敏夫は肩の力を抜いた。
「これからは、役場の職員が大変になる」
条例案。
投票資格者の範囲。
投票用紙の文言。
選択肢の設定。
全世帯へ配る説明資料。
投票所と職員の確保。
住民説明会。
報道機関への対応。
表へ出た瞬間から、事務的な作業は一気に増える。
「私の裏方仕事は、だいぶ片づいた」
敏夫は言った。
「最近は政治のことばかりで、店や会社にはほとんど関われなかった。これからは少し落ち着ける」
「藤樹堂の仕事も頑張るよ」
「春子さんが喜びます」
グリフはすぐに付け加えた。
「俺の方は大丈夫ですから、春子さんを手伝ってあげてください」
「分かった」
*
敏夫は席を立ち、春子の机へ向かった。
春子は建築図面と見積書の間に埋もれていた。
「春子」
「なに?」
「政治の方が少し落ち着いた。今日から、会社の仕事も手伝えると思う」
春子が顔を上げた。
「本当に?」
「ああ。何からやればいい」
敏夫は、久しぶりに夫として頼りにされることを期待するような顔をしていた。
春子は1秒ほど考えたあと、机の上にあった書類の束を持ち上げた。
「じゃあ、まずこれ」
敏夫の腕へ載せる。
かなりの厚さだった。
「これは?」
「新店舗の厨房設備の見積もり。3社分あるから比較して」
続いて、別のファイルを上へ重ねる。
「これは銀行に出す資金計画」
さらに図面を載せた。
「これは工事会社から来た最終確認。明日の午前中までに返事して」
「ちょっと待ってくれ」
「それと、職人さんに新しい作業着の説明もお願い」
「私は、今戻ってきたばかりで……」
「だから、今からできるでしょう」
「一つずつ頼んでくれないか」
春子は不思議そうな顔をした。
「全部、別の仕事よ」
「そういう意味ではないんだ」
敏夫の腕の中で、書類の束が傾いた。
グリフが離れた席から声をかける。
「敏夫さん、気をつけてください。落とすと順番が分からなくなりますよ」
「直人君。少し手伝ってくれないか」
「俺は大丈夫ですから、春子さんを手伝ってあげてください」
先ほど自分が言った言葉を、そのまま返した。
敏夫が苦い顔をする。
春子はさらに、卓上カレンダーを持ってきた。
「政治の根回しは終わったんでしょう」
「ああ」
「じゃあ、今度は工事会社と職人さんと銀行の根回しをして」
「政治より相手が多くないか」
「でも、こっちは派閥がないから簡単よ」
「職人には職人の派閥があるよ」
「じゃあ、敏夫さんは政治家だから得意でしょう」
敏夫は返す言葉を失った。
村田と事業者の間を調整し、牛山派と無所属議員の票をまとめた男が、妻の前では完全に押し切られている。
グリフは笑いをこらえながら、工場の工程表へ視線を戻した。
住民投票をめぐる裏方の仕事は、ひとまず峠を越えたらしい。
だが敏夫には、その日のうちに、藤樹堂という新しい交渉の最前線が用意されていた。
***
3月も半ばを過ぎ、倉沢の寒さも少しずつ緩み始めていた。
道路の脇には、除雪された雪がまだ灰色の塊となって残っている。それでも昼間の日差しには、わずかに春の気配が混じるようになった。
その朝、グリフは総一郎の家にある自分の部屋を出て、道場に隣接するアパートへ向かった。
アパートは木造2階建ての古い建物で、六畳一間の部屋が並んでいる。それぞれに小さな台所とトイレ、風呂がついていた。
広いとは言えない。
だが、2人で暮らす分には困らないだろう。
総一郎が定期的に手を入れていたため、建物の古さのわりには清潔だった。畳も入居前に替えてあり、壁も塗り直されている。
グリフが1階の部屋を訪ねると、中から若者たちの話し声が聞こえてきた。
ノックをして扉を開ける。
4人はちょうど、朝食を取っているところだった。
一つの部屋に全員が集まり、床に置いた低いテーブルを囲んでいる。
今日の朝食は、白飯と卵料理、それに野菜を炒めたものだった。味つけには、ルンザットから持ってきたらしい香辛料が使われている。
ワルン・クラサワや藤樹堂で働いてもらう以上、料理には少しでも慣れておいてほしい。
そのため、朝食と夕食は、できるだけ自分たちで作らせることにしていた。
4人のうち1人が当番となり、全員分を用意する。
料理だけでなく、買い物、食材の管理、後片づけまでを交代で担当させる。
日本語学校へ通いながら働く生活は、思っている以上に忙しくなる。
誰か1人に家事を任せきりにすれば、いずれ不満が出るだろう。
4人の名前は、アディ、ナノ、リザル、ラフマン。
全員、ルンザット島か、その周辺の島で育った若者だった。
父のディオには、候補者についていくつか希望を伝えていた。
真面目であること。
日本語を学ぶ意欲があること。
家族の同意があること。
そして、飲食店で接客する可能性もあるので、清潔感があり、客へ悪い印象を与えないこと。
ディオは、その注文へ十分に応えてくれたらしい。
4人とも健康的で、どこか素朴さの残る爽やかな青年だった。
空港で初めて4人を見たとき、グリフは思わず口元を緩めてしまった。
――これは、店で人気が出るな。
ジョコは雑誌で「イケメン料理人」と紹介され、それを目当てに来店する女性客まで現れていた。
4人にも同じような人気が出れば、店の宣伝になる。
本人たちの将来を考えて呼んだはずなのに、最初に思いついたのが商売のことだったので、少しだけ自分を恥じた。
*
ルンザット周辺の島々には、古くからさまざまな地域の人間が行き交ってきた。
オランダやスペインとの接触があり、華人系の商人も暮らしていた。
そうした歴史の影響なのか、周辺にはインドネシアの他地域と比べ、肌の色がやや明るく、鼻筋の通った者も多かった。
4人も目鼻立ちがはっきりしている。
日本人から見れば、沖縄や九州南部出身の若い芸能人に、どこか東南アジアの雰囲気を加えたような顔立ちだった。
だが、見た目がよければ、それですべてがうまくいくわけではない。
グリフは、東京で暮らしていたころのことを思い出した。
駅前や繁華街で、アフリカや中東の出身らしい外国人が何人か集まり、母国語で話している姿を見かけることがあった。
グリフ自身でさえ、少し怖いと感じたことがある。
1人でいる外国人には、そこまで警戒しない。
コンビニで慣れない日本語を使いながら働いている姿を見れば、むしろ大変だろうと同情する。
何度か通った店で顔見知りになれば、天気や仕事について世間話をすることもあった。
ところが、同じ外国人が何人か集まり、自分には分からない言葉で話していると、急に距離を感じる。
声が大きい。
何を話しているのか分からない。
こちらを見て笑っただけで、自分のことを話しているのではないかと思ってしまう。
日本人だって、海外へ行けば1人で行動するより、知人同士で集まるだろう。
知らない土地で、同じ言葉を話せる相手のそばにいたくなるのは当然である。
理屈では分かっている。
それでも、不安を覚えてしまうことがあった。
――無意識に差別しているのかもしれない。
若いころは、そう思って自己嫌悪に陥ったこともある。
自分自身、日本人とインドネシア人の間に生まれた。
見方によっては、自分も「外国人らしい顔」をしている。
それなのに、別の外国人を見て警戒する。
矛盾していると思った。
*
日本は単一民族の国だという自己像が、長く広く信じられてきた。
実際には、国内にもさまざまな出自や文化を持つ人々が暮らしている。
それでも、多くの地域では、自分たちと大きく容貌の違う人間と日常的に接する機会が少ない。
見慣れないものへ警戒心を持つのは、人間として自然な反応なのかもしれない。
だが、その警戒が態度へ出れば、受ける側には差別となる。
まして倉沢は田舎町である。
東京よりも外国人へ慣れていない者が多い。
4人は、珍しそうな目で見られるだろう。
避けられることもあるかもしれない。
聞こえるように嫌なことを言われる可能性もある。
グリフは、それを完全に防げるとは思っていなかった。
それでも、できる限り嫌な目には遭わせたくなかった。
この4人が日本を嫌いになれば、ルンザットへ戻ったあと、
「日本へ行くものではない」
と周囲へ話すかもしれない。
それは人材受け入れ計画にとっても困る。
だが、それ以上に、グリフ個人として嫌だった。
倉沢も、ルンザットも、どちらも自分の故郷である。
片方の故郷から来た人間が、もう片方の故郷で傷つく姿を見たくなかった。
だから、起きそうな問題は、できるだけ先に潰しておく。
多少やりすぎるくらいで、ちょうどいい。
*
「あっ、グリフさん。おはようございます」
4人が気づき、インドネシア語で次々と挨拶した。
ジョコには普段から日本語を使わせ、店ではグリフのことも「田辺さん」と呼ばせている。
しかし4人は、ルンザットでディオから多少の日本語を習ったとはいえ、まだ日常会話をすべて日本語で行える段階ではなかった。
「グリフ」という呼び名についても、今は黙認している。
日本での生活へ慣れる前から細かなことを求めすぎれば、話すこと自体を怖がるようになる。
グリフもインドネシア語で答えた。
「おはよう。朝から悪いな」
手にしていた大きな紙袋を、畳の上へ置く。
「今日は服を持ってきた」
「服ですか」
「スーツだ。この前、店で寸法を測って選んだものが出来上がった」
4人が一斉に紙袋を見る。
「普段着ではないが、日本にいる間、着る機会はある。学校の行事や、農協の人と会うときにも使うかもしれない」
「今のうちに、少し着慣れておいてくれ。ネクタイの締め方も教える」
4人へスーツを用意するという発想は、以前見た洋画から思いついたものだった。
ある映画で街のチンピラを演じていた黒人俳優が、別の映画では高級なスーツを着て、ウォール街の優秀な金融マンを演じていた。
同じ俳優なのに、服装だけで受ける印象がまるで違った。
グリフは、黒人がスーツを着ていると、なぜか白人以上に知的で仕事ができるように見えることがあると感じていた。
それが単なる自分の思い込みなのか、映画による刷り込みなのかは分からない。
だが、服装が相手の警戒心や先入観を和らげるのであれば、利用しない手はない。
少なくとも、くたびれたTシャツとチノパンで4人が固まって歩くより、きちんとした服を着ていた方が、町の人間から話しかけられやすいだろう。
もちろん、毎日スーツを着せるつもりはない。
飲食店で働くときには制服があるし、日本語学校には普通の服で通えばいい。
それでも、必要な場面で身なりを整えられることは大切だった。




