任せるという仕事
「一度、シャワーでも浴びるか」
グリフが言った。
「いや。このままでいい」
アリはゆっくり上体を起こし、ヘッドギアとグローブを外した。
それから、入口に置いてあった鞄を取りに行く。
赤名が手渡そうとしたが、アリは自分で持った。
道場の中央へ戻ると、鞄から1枚の書類を取り出した。
数字と表が細かく並んでいる。
続いて、1枚の名刺を出した。
赤名の上司らしい。
『事業開発部長』
と書かれていた。
アリは書類をグリフの前へ置いた。
「住民投票をやるのか、教えてくれ」
2人は道場の中央に座っていた。
総一郎と赤名は、かなり離れた入口付近にいる。
広い道場なので、普通の声で話せば、内容までは聞こえにくい。
総一郎は赤名の手を取り、拳の握り方を教え始めていた。
赤名は困惑しながらも、言われたとおり拳を作っている。
「親指は中さ入れんな。折れるぞ」
「こうですか」
「肩に力入りすぎだ。腰から打て」
総一郎は、いつの間にか赤名を指導していた。
赤名の方も、次第に真剣な顔になっている。
グリフは小声で答えた。
「住民投票は、9割方やるだろう」
アリの表情が変わった。
「9割?」
「ああ」
グリフは差し出された書類へ目を落とした。
「それで、これは何だ」
「発電所の周辺に植樹した場合の、発電量減少の試算だ」
表には、樹木の高さ、パネルとの距離、季節ごとの日照時間、想定発電量などが並んでいた。
町側が求めていた景観対策を、事業者が具体的に検討している証拠にはなる。
書類に会社名や計画地名はない。
しかし、パネルの枚数や設置面積、方角などを詳しく調べれば、熊田地区の計画を前提にした資料だと分かるのだろう。
何も知らない人間が見れば、ただの数字の羅列にすぎない。
正式な社内資料を流出させたと断定されないよう、意図的に情報を薄めてあるようにも見えた。
「9割方やるというのは、誰かから聞いたのか」
アリが尋ねる。
「それとも、お前の推測か」
「推測といえば推測だ」
グリフは書類から顔を上げた。
「ただ、確度は高いと思っている」
「何を根拠に?」
「それについては、会わせたい人がいる」
グリフは立ち上がった。
*
「少し待っていてくれ」
道場を出る。
数分後、グリフは1人の男を連れて戻ってきた。
敏夫だった。
「紹介するよ」
グリフが言った。
「俺の伯父の藤田敏夫。知っていると思うが、倉沢町議会議員だ」
アリは驚いた様子で、すぐに立ち上がった。
「藤田議員」
敏夫は落ち着いた足取りで近づき、頭を下げた。
「藤田です。初めまして」
「ああ、失礼しました」
アリも慌てて姿勢を正す。
「劉志遠と申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
総一郎の道場は、敏夫にとって義理の父親の家にある。
敏夫が近くにいたとしても、不自然ではない。
だが、前日からこの場へ来ることを決め、グリフの合図で道場へ入ってきた。
その事実が、アリへ別の意味を伝えていた。
グリフは単なる町の飲食店主ではない。
町議へ直接話を通し、その町議を非公式な折衝の場へ呼ぶことができる。
そして敏夫も、グリフの行動を承知している。
こちら側にも、情報を受け取り、正式交渉へつなげる権限と能力がある。
敏夫は、床に置かれた書類へ目を向けた。
「こちらは、拝見してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
アリが答える。
敏夫は書類を手に取った。
数字を一通り確認してから尋ねる。
「これは、こちらでお預かりしてもよい資料でしょうか。それとも、この場で確認するだけですか」
「お持ちいただいて構いません」
アリは答えた。
「正式な提案書ではありませんが、事業者側でも景観対策を具体的に検討している。そのことをお伝えするための資料です」
敏夫が頷く。
「承知しました」
グリフは、これで交渉が一段先へ進むと感じた。
次はおそらく、アリが出した名刺の事業開発部長と、敏夫との間で連絡が取られる。
グリフとアリの役割は、正式な交渉相手をつなぐところまでだった。
そのとき、道場の入口から大きな声が響いた。
「えいっ!」
赤名の声だった。
3人が振り向く。
赤名が真剣な顔で拳を突き出している。
総一郎は、その拳を片手で軽く受け止めていた。
「さっきよりいい。だが、目ぇつぶるな」
「はい!」
「もう1回」
「えいっ!」
赤名の声が、再び道場に響いた。
いつの間にか、完全に稽古へ入り込んでいる。
総一郎は満足そうに頷いた。
「おめえ、筋いいな。来週も来い」
「来週ですか?」
赤名が目を丸くする。
「月謝は最初の1か月いらねえ」
「いえ、私は東京から来ていまして……」
「新幹線あんだろ」
赤名は助けを求めるように、アリとグリフを見た。
2人は目を合わせた。
そして、今度は作ったものではない笑いを浮かべた。
この日、町と事業者の間には、新しい交渉経路ができた。
同時に総一郎の道場には、本人の意思とは関係なく、新しい入門候補が1人増えたらしかった。
***
2月に入ってから、グリフは仕事に忙殺されていた。
現在、最も時間を取られているのは、藤樹堂の新工場建設に関する業務だった。
コンビニへ商品を卸すとなれば、これまで以上に衛生管理へ気を配らなければならない。
もちろん、今までの藤樹堂に衛生上の問題があったわけではない。
長年働いている職人たちは、誰に命じられなくても手を洗い、道具を清潔に保ち、餡や生地の状態へ細心の注意を払ってきた。
だが、それは熟練した職人一人一人の経験と習慣に支えられている。
大量生産を始めれば、それだけでは足りなかった。
製造数を確保するため、繁忙時間だけパートやアルバイトを入れることになる。
経験の浅い人間でも、同じ基準で作業ができなければならない。
手を洗う時機。
器具の洗浄方法。
材料を冷蔵庫から出してよい時間。
異物混入を防ぐための確認。
体調不良時の申告。
製品を廃棄する基準。
そうした手順を、誰にでも分かる言葉でマニュアルにし、記録を残す必要があった。
服装も変えなければならないかもしれない。
これまでの藤樹堂では、職人たちは白衣に前掛けを着け、頭には和帽子や手拭いを巻いて作業していた。
いかにも昔ながらの和菓子職人という姿だった。
しかし新工場では、髪の毛を完全に覆う帽子やネット、マスク、専用の作業着を採用する案が出ている。
場合によっては、粘着ローラーを使って作業着のほこりを取り、靴を履き替え、エアシャワーを通って製造区域へ入る。
食品工場で見かける作業員そのものの姿になるかもしれない。
長く働いてきた職人から、拒否感が出ることは想像できた。
「今までこれで問題なかった」
そう言われれば、それも事実だった。
だが、今後は1人の職人が1日数十個を作るのではない。
複数の人間が同じ工程を分担し、何百、何千という商品を作る。
一つの小さなミスが、大量の商品回収につながる可能性もある。
昔の方法が間違っているのではない。
規模が変われば、守るべき方法も変わるということだった。
――職人さんの誇りを傷つけずに、どう納得してもらうかだな。
機械の選定や工場の設計だけでなく、人間関係まで考えなければならない。
春子は売れる商品を見つけることには長けている。
しかし、
「衛生基準が変わるから、この服を着て」
と、何の前置きもなく職人へ新しい作業着を渡しかねない。
それで従う者もいるだろうが、内心では不満が積み重なる。
その間に立つことも、グリフの仕事になりそうだった。
*
4月から社長へ就任する予定の春子は、主に駅前の新店舗へ集中していた。
藤樹堂の和菓子売り場と、ワルン・クラサワの飲食店は、内部を区切って別々に営業することになった。
春子は当初、その2つに加え、若者向けのスイーツ専門店まで出したいと言っていた。
ココまる。
洋菓子風にした新しい饅頭。
抹茶を使った飲み物。
そして、まだ諦めていないらしいタピオカ。
しかし、さすがの春子も、3店舗を同時に立ち上げるのは無理だと理解したらしい。
若者向けスイーツ店の案はいったん棚上げになった。
本人は「中止じゃなくて延期」と言い張っていたが、周囲はほぼ断念と受け取っていた。
駅前の物件が引き渡されるのは4月だった。
現在のワルン・クラサワは、以前も飲食店だった居抜き物件を利用していた。
厨房設備の多くをそのまま使えたため、開店までの時間も費用も、それほどかからなかった。
今回は事情が違う。元はスーパーだった。
工事が1週間遅れれば、開店も1週間遅れる。
開店していなくても、物件の家賃は発生する。
どこで折り合いをつけるか、判断しなければならなかった。
店舗のデザインも簡単ではない。
藤樹堂の売り場は、木と和紙を使った伝統的な和の雰囲気にする。
ワルン・クラサワは、植物や籐の家具を取り入れたアジアのリゾート風にする。
それぞれを別の店として成立させながら、一つの建物として外観を調和させなければならない。
建物の左半分が江戸時代の和菓子屋で、右半分がバリ島の海辺という姿になれば、目立ちはするが、落ち着きはない。
「入口は一つにした方が、お客さんが両方の店に来るわよ」
春子はそう主張した。
「入口を一つにすると、入った瞬間にどちらの店か分からなくなります」
「真ん中にココまるを置けばいいじゃない」
「ココまるは国境なんですか」
そうした議論を、1日に何度も繰り返していた。
2人とも、飲食や食品に関わるという意味では、これまでと同じ仕事をしている。
それでも、規模が少し大きくなるだけで、決めなければならないことが何倍にも増えた。
商品を一つ作るのと、それを毎日1,000個作れる仕組みを作るのは、まったく別の仕事だった。
春子もグリフも疲れていた。
2人で作業をしていると、自然と敏夫への愚痴も出た。
敏夫は敏夫で、住民投票へ向けた政治工作に追われていた。
町議への根回し。
牛山派の有力者への説明。
事業者との水面下の交渉。
県議や県庁側の反応の確認。
相手から提示された条件が、本当に実行できるものなのか。
正式な権限を持つ人間の発言なのか。
それとも、こちらの反応を探るために、あえて曖昧な条件を示しているのか。
一つの話を聞くたび、別の人物へ確認し、資料を調べなければならない。
他人任せにはできず、時間のかかる仕事だった。
その日も、敏夫は昼過ぎにコートを着て事務所を出ようとしていた。
「また少し出てくる。帰りは夕方になると思う」
春子が図面から顔を上げた。
「また交渉?」
「ああ。2、3人に会う」
「ずいぶん時間をかけるのね」
「相手が1人ではないからね」
「お互いに腹を割って話せば、1日で終わるでしょう」
春子は本気で言っているらしい。
敏夫は靴を履きながら振り返った。
「腹を割ったつもりで、相手だけ本音を隠していたらどうするんだ」
「もう1回呼んで、今度こそ本当のことを言わせればいいじゃない」
「それができれば、政治家は苦労しないよ」
「政治家って、回りくどいのね」
「春子が政治家にならなくて、本当によかったと思う」
敏夫はそう言い残し、事務所を出ていった。
*
春子は納得できない様子だった。
「私なら、条件を書いた紙を机に置いて、『飲むの、飲まないの』って聞くけど」
グリフにも、その姿は容易に想像できた。
春子なら、相手が席へ着く前に結論を求めるだろう。
駆け引きも、観測気球も、段階的な譲歩もない。
最初から自分の出せる条件を全部並べ、
「これ以上は無理」
と言い切る。
相手が断れば、
「じゃあ、次」
と別の人間を探す。
――交渉相手としては怖いけど、意外とうまくいくかもしれないな。
「そう簡単にはいかないと思いますよ」
グリフは言いかけたが、やめた。
春子を説得するより、目の前の工場配置図を仕上げる方が先だった。
*
藤樹堂の仕事に一度区切りをつけると、グリフは頭を切り替えた。
ルンザットから来る4人の留学生は、3月中に来日する予定になっていた。
住む場所は、総一郎の道場に隣接するアパートに決まった。
総一郎が所有する古い建物である。
以前は、道場の内弟子や師範代が暮らしていたらしい。
住み込みで剣道を学びながら、道場の掃除や子どもたちへの指導を手伝っていた。
総一郎は農地も持っているため、畑仕事まで手伝わされていたのかもしれない。
今で言えば、家賃の安い社員寮のようなものだったのだろう。
建物は古い。
部屋の畳や台所にも年代を感じる。
しかし、総一郎が定期的に修繕していたため、汚くはなかった。
風呂とトイレも使える。
暖房器具や冷蔵庫、洗濯機を用意すれば、すぐに生活を始められる。
4人には、2人ずつ1部屋で暮らしてもらう予定だった。
総一郎は、家賃を周辺相場より3割ほど安くしてくれた。
「若えうちは、金貯めねば駄目だ」
それが理由だった。
生活費を抑えられれば、その分だけルンザットの家族へ仕送りができる。
安い部屋を提供する代わりに、本人たちの意思に反して道場や農作業を手伝わせることはできない。
もっとも、4人が自発的に剣道へ興味を持てば、総一郎は大喜びするだろう。
グリフ自身も、しばらく総一郎の家へ住むことにした。
*
使うのは、中学と高校時代に暮らしていた部屋だった。
父のディオがルンザットへ戻り、母の涼子も海外出張で家を空けることが多くなった時期、グリフは倉沢の祖父母のもとへ移った。
妹の裕子も、隣の部屋で暮らしていた。
当時、身の回りの世話をしてくれたのは、祖母の節子だった。
節子は穏やかで、滅多に声を荒らげない。
食事を作り、制服を整え、グリフが夜遅く帰ってきても、事情を問い詰める前に温かいものを出してくれた。
――優しいばあちゃんなんだよな。
それだけに、総一郎と何十年も夫婦を続けていることへ、グリフは子どものころから深い同情を抱いていた。
総一郎と同じ家で暮らせば、朝晩の稽古に付き合わされる危険がある。
最近、道場へ戻り始めたこともあり、総一郎はグリフが本格的に剣道を再開したと思っているらしい。
「一緒に住めば、朝の5時から稽古できんな」
嬉しそうに言われたときには、留学生と離れた場所へ部屋を借りようかと本気で迷った。
それでも、最初の4人である。
日本で暮らすのも初めてなら、雪国で生活するのも初めてだ。
病気。
けが。
学校での問題。
近隣住民との行き違い。
何が起きるか分からない。
近くにいれば、問題が起きてもすぐ対応できる。
最初の4人が日本での生活へ慣れれば、後から来る若者を支える側になってもらえる。
そのためにも、今回は安全策を取るべきだった。
*
グリフは、農協の倉林へ電話をかけた。
住居が決まったことと、自分もしばらく隣接する総一郎の家で暮らすことを伝える。
『なるほど。田辺さんが近くにいてくださるなら、安心です』
「最初だけですけどね。生活が落ち着いたら、少しずつ本人たちに任せます」
『それがいいと思います。最初から何でもやってしまうと、本人たちも田辺さんを頼るようになりますから』
「そちらの準備は、どうですか」
『農協側も、今のところ予定どおりです』
倉林が答えた。
『3月に来る4人は留学生ですから、農協が入国や学校の手続きをするわけではありません。ただ、生活支援については、職員を何度か同行させたいと思っています』
「役場や銀行へ行くときですか」
『はい。将来、技能実習生を受け入れた際に、どんな支援が必要になるか確認したいんです』
倉林はさらに、技能実習生受け入れについても説明した。
既に農業分野で実績を持つ監理団体への問い合わせ。
受け入れ農家の希望調査。
農協内での担当部署の検討。
他地域への視察。
まだ正式に受け入れが決定したわけではないが、準備は少しずつ進んでいるという。
『制度や農家側の調整は、こちらで進めます』
倉林が言った。
『田辺さんは、ひとまず4人の生活支援と、ルンザット側との連絡に集中してください』
「分かりました」
*
電話を切ったあと、グリフは少し笑った。
――それぞれ、得意な分野を担当すればいいんだな。
当初は、送り出し側との連絡から日本での受け入れ、制度上の手続き、農家との調整、生活支援まで、すべて自分で行おうとしていた。
今になって考えれば、かなり無謀だった。
ルンザットと直接話せるからといって、技能実習制度の専門家になれるわけではない。
農業の事情を知っているわけでもない。
人へ任せることも、仕組みを作るうえでは必要だった。




