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2択では足りない

グリフ自身も、相変わらず忙しかった。

藤樹堂の新工場は、町の郊外にある、以前は倉庫として使われていた建物を買い取ることになった。

当初は賃借も検討した。

しかし、食品工場として使うには、床や壁を改修し、給排水設備や換気設備を新設しなければならない。

電気容量も増やす必要がある。

借りた建物で大規模な工事を行えば、そのたびに所有者の承諾が必要になる。

退去時の原状回復をどうするかという問題もある。

「買ってしまった方が早いな」

敏夫が結論を出した。

「簡単に言いますね」

グリフは売買価格を見ながら答えた。

「安い金額ではありませんよ」

「銀行は融資へ前向きだ。建物も土地も担保にできる」

「コンビニとの取引が終わったら、巨大な倉庫だけ残る可能性もあります」

「だから、ほかの販売先を探すんだ」

「結局、俺の仕事が増えるんですね」

条件に合う建物が都合よく見つかったことにも、グリフは驚いた。

売却を考えている倉庫があるという話を、敏夫が建設業者から聞きつけたのだ。

町議としての顔の広さが、思わぬところで役に立った。


コンビニ側からは、何度も納品開始時期について問い合わせが入っていた。

すでにスーパーなどで販売しているココまるの売れ行きがよく、早く店舗へ並べたいらしい。

しかし敏夫は、新工場の売り上げがコンビニ1社へ偏ることを警戒していた。

「コンビニ側の方針が変われば、一度に注文がなくなる可能性がある」

敏夫はグリフへ言った。

「店舗数が多い分、決まったときは大きい。しかし切られたときの影響も大きい」

「別の販売先を探して、売り上げを分散させろということですね」

「そうだ。設備が止まらない程度には、ほかの仕事を確保しておきたい」

グリフは、観光土産の菓子を委託製造する仕事に目をつけた。

新しい工場設備で、どの種類の菓子を作れるのか。

1日に何個作れるのか。

材料費、包装費、人件費、配送費を含めると、1個当たりいくらになるのか。

実際に各地の土産物店で菓子を買い、製造者表示を確認した。

販売会社と製造会社が別になっている商品を見つけると、販売元へ連絡し、

「東北地域向けの商品を、藤樹堂で製造できないでしょうか」

と営業をかけた。

新しい菓子を考えるより、計算表や見積書を作っている時間の方が長くなっていた。

――落ち着いたら、また料理を作りたいな。

ワルン・クラサワの厨房から漂ってくる香辛料の匂いを嗅ぐたび、グリフはそう考えた。

だが、落ち着く日が本当に来るのかは分からなかった。


*


そんな折、敏夫が1枚の書類を持って、グリフの席へやって来た。

周囲を気にするように、少し声を落としている。

「住民投票の条例案と、投票用紙のたたき台ができたらしい」

「もうですか」

「まだ正式なものではない。事務局案だ」

敏夫はそう言いながら、書類をグリフの前へ差し出した。

藤樹堂の事務所では、黒田が注文処理をしており、春子は駅前新店舗の図面に赤ペンを入れていた。少し離れてはいるが、政治の話を大声でする場所ではない。

2人は、打ち合わせ用のテーブルへ移った。

グリフは書類を開いた。

そこには、住民投票の設問案が書かれていた。

熊田地区太陽光発電事業について、倉沢町が今後採るべき方針として、あなたは次のどちらの案が最も望ましいと考えますか。

1.建設に賛成する。

2.建設に反対する。

グリフは、しばらく文字を見つめた。

一度読んだ。

もう一度読んだ。

読み間違いではない。

紙には、本当にそれだけしか書かれていなかった。

「……これだけですか」

声が低くなった。

自分でも分かった。

「そうだ」

敏夫は、グリフの反応を予想していたのだろう。すぐには反論しなかった。

「役場の人たちが、過去の事例をいろいろ調べてくれたらしい。施設建設や開発計画をめぐる住民投票では、賛成か反対かの2択が多いそうだ」

「だから、これですか」

「前例に合わせるなら、こうなる」

グリフは紙から顔を上げた。

「冗談じゃない」

思ったより強い声が出た。

打ち合わせテーブルの向こうで、敏夫がわずかに目を細める。

春子がこちらを見たような気がして、グリフは声を落とした。

「すみません。でも、これは違うでしょう」

「何が違う」

敏夫の問いは、否定ではなかった。

グリフに言わせるための言葉だった。

「これでは、双方の事情を町民が理解して、解決につなげることになりません」

グリフは書類を指で叩いた。

「単に、賛成と反対の人数を数えるだけです」

「住民投票だから、人数を数えるのは当然だ」

「そうです。でも、その前に何を考えてもらうかが大事でしょう」

グリフは、言葉を選ぼうとした。

しかし、胸の奥からこみ上げてくるものを抑えきれなかった。

「これでは、町長への信頼や不信、太陽光発電への漠然としたイメージ、武藤派か牛山派かという陣営意識、そういうものを最後に数字へ変換するだけの装置になります」

敏夫は黙って聞いていた。

「投票結果が反対多数になっても、その人たちが何を求めているのか分からない」

「全面中止なのか、場所の変更なのか、規模縮小なのか、町が買い取ってでも止めろという意味なのか」

「逆に賛成多数になっても、今の計画をそのまま認めろという意味なのか、景観対策をすればよいという意味なのか、分かりません」

「そうだな」

敏夫が静かに言った。

「私も、この案を100%支持しているわけではない」

「だったら」

「だが、現実にはこれだ」

敏夫は紙を見下ろした。

「役場の立場からすれば、2択は分かりやすい。投票用紙も作りやすい。集計も簡単だ。前例もある。議会へ説明するにも、町民へ説明するにも、形式としては安全だ」

「安全?」

グリフは思わず聞き返した。

「誰にとっての安全ですか」

敏夫の表情が少し動いた。

「直人君」

「すみません」

グリフはすぐに言った。

だが、怒りが消えたわけではない。

「何のために、事業者側とも交渉したんですか」

「相手がどこまで譲れるか探って、町側もどこまで負担できるか考えて、現実的な落としどころを作るためだったはずです」

「これなら、住民投票なんかやらずに、個別交渉で決めた方がまだましです」

敏夫は、しばらく黙っていた。

グリフの言葉が鋭すぎることを咎めるのではなく、その中身を受け止めているようだった。

「住民投票は万能ではない」

やがて敏夫が言った。

「住民参加の一つの手段にすぎない。そう言われれば、そのとおりだ」

「ただ、この2択では、住民参加というより、住民に最後の判子だけ押させる形に近い」

その言葉には、敏夫自身の感情もにじんでいた。

普段なら、もう少し柔らかい表現を選ぶはずだった。

「私だって、これで十分だとは思っていない」

敏夫は書類へ目を落とした。

「だが、役場が悪いだけでもない。短い期間で条例案を作り、議会を通し、投票を実施する。前例のある形へ寄せたくなるのは分かる」

「分かります」

グリフは、かろうじて頷いた。

「でも、分かることと、納得することは違います」

言ったあとで、自分の声がまた強くなっていることに気づいた。

「少し、飲み物を取ってきます」

グリフは立ち上がり、給湯室へ向かった。

狭い給湯室で、コーヒーメーカーに水を入れる。

フィルターをセットし、粉を入れる。

手は動いているが、頭の中では別のことを考えていた。

住民は、必ずしも説明資料を読み比べて投票するとは限らない。

むしろ、多くの人は忙しい。

仕事があり、家事があり、家族の世話がある。

町から配られた分厚い資料を隅々まで読み、事業者側と町側の言い分を比較し、自分なりに費用負担まで考えて投票所へ行く人が、どれほどいるのか。

2択なら、なおさらだった。

「賛成」か「反対」か。

言葉は分かりやすい。

分かりやすいからこそ危うい。


景観を壊すのは嫌だから反対。

再生可能エネルギーだから賛成。

町長が信用できないから反対。

反対運動をしている人たちが嫌いだから賛成。

地元企業に仕事が来るから賛成。

よく分からないから現状維持で賛成。

村田に一泡吹かせたいから反対。

武藤派が反対と言っているから、自分は賛成。


熊田の太陽光発電そのものではなく、周辺の感情や人間関係で判断する者も出るだろう。

もちろん、それも民主主義の一部である。

人間は純粋な政策判断だけで投票するわけではない。

だが、この住民投票は、町長選挙のやり直しではないはずだった。

町民に、具体的な解決策を選んでもらうためのものだったはずだ。

「反対」の中にも、違いがある。

全面中止してほしい。

場所を移せばよい。

規模を半分にすれば認めてもよい。

町や地元団体が所有するなら認める。

説明不足だから、今は反対。

単に村田町長が気に入らない。


それらをすべて「反対」という一語に押し込めてしまえば、投票後に何も残らない。

仮に反対60%という結果が出たとしても、その60%が同じ解決策を求めているとは限らない。

町長は、その数字を盾に事業者へ撤退を迫るのか。

町が多額の税金を使って土地を買い取るのか。

それとも、反対多数を理由に計画変更を求めるだけなのか。

結局、投票後にまた別の政治判断が必要になる。

それでは、住民は何を選んだことになるのか。

コーヒーが落ちる音を聞きながら、グリフは別の問題を思い浮かべていた。


外国人受け入れのことだった。

国も、町も、マスコミも、差別はいけないと言う。

それは正しい。

だが、外国人が実際に暮らすうえで重要なのは、制度の建前だけではない。

近所の人が挨拶を返してくれるか。

店で変な目で見られないか。

ごみ出しを一度間違えただけで、外国人は駄目だと言われないか。

職場で、同じ人間として扱われるか。

普段の接触の積み重ねが、生活の息苦しさを決める。

今は、ルンザットから来た4人に、かなり気を使って生活してもらっている。

ごみ、騒音、服装、言葉遣い。

細かいことまで注意している。

だが、今後人数が増えれば、いろいろな人間が来る。

真面目な者ばかりではない。

注意しても聞かない者もいるだろう。

倉沢の住民側にも、偏見や不安を持つ者がいる。

数年後、もし相当数の外国人が町に暮らすようになれば、どこかで必ず軋轢は生じる。

そのときに必要なのは、上から

「差別はいけません」

と言うことだけではない。


*


外国人の側も、町の生活を理解する。

町民の側も、相手の事情を知る。

双方が、自分の不便や不安だけでなく、相手の立場を少しだけ考える。

その下地が必要だった。


*


今回の住民投票は、その練習にもなり得ると思っていた。

町民が、事業者の事情を知る。

町の財政負担を知る。

景観を守る意味を知る。

再生可能エネルギーの意義も知る。

そのうえで、自分たちは何を選ぶのか考える。

そういう経験が、倉沢に必要だと思ったのだ。

2択では、それができない。


コーヒーを2杯入れ、グリフは打ち合わせテーブルへ戻った。

1杯を敏夫の前へ置く。

「ありがとうございます」

敏夫が受け取った。

グリフは自分の席へ座り、少しだけ気持ちを落ち着けてから尋ねた。

「村田さんは、この案をどう思っているんですか」

敏夫はコーヒーへ口をつけず、両手でカップを包んだ。

「迷っていると思う」

「迷っている?」

「ああ」

敏夫は書類を見た。

「村田さんは、役場案としてこれを受け取った。事務的には筋が通っている。前例もある。短期間で実施するには安全だ」

「だが、これでは住民投票をやる意味が薄くなることも分かっているはずだ」

「だから私に見せたんですか」

「おそらくな」

敏夫は少し苦い表情をした。

「私が反発するのを予想していたのかもしれない」

「村田さん自身が言えば、役場への不信になる」

「でも、外から誰かが言えば、議論にできる」

「そういうことだと思う」

グリフは黙った。

村田は、どこまで計算しているのだろう。

役場の前例主義を尊重する顔を見せながら、実際には別の案を求めているのか。

それとも、本当に迷っているだけなのか。

「村田さんと、直接お話しすることは可能ですか」

グリフは言った。

敏夫が顔を上げる。

「直人君が?」

「はい」

「少し感情が出すぎるかもしれません」

「自覚はあるんだな」

「あります」

グリフは素直に答えた。

「でも、このまま2択で進められると、たぶん後悔します」

「私も同じだ」

敏夫は静かに言った。

「このままでは中途半端だ」

その声には、先ほどよりもはっきりした感情があった。

敏夫は普段、結論を急がない。

相手の立場も考え、現実的な落としどころを探す。

だが、この件では、グリフの怒りに少し引っ張られているようだった。

「住民投票をやるなら、町民に考えてもらうものにしなければならない」

敏夫が言った。

「単に賛成派と反対派の数を測るだけなら、やらない方がいい」

グリフは小さく頷いた。


*


「村田さんへ電話してみる」

敏夫は携帯電話を取り出した。

その場で村田へ連絡する。

短い挨拶のあと、敏夫の声が少し改まった。

「先ほど、事務局案を拝見しました」

「はい。投票用紙の件です」

「田辺直人君も同席のうえで、一度ご相談できないでしょうか」

しばらく相手の声を聞いていた。

「ええ。私も、このまま2択で進めることには少し懸念があります」

「はい。もちろん、役場案を否定するということではありません」

敏夫は、言葉を選びながら話していた。

先ほどグリフと話していたときの感情は、もう声の奥へ沈めている。

「住民投票の目的を、もう一度確認したいのです」

村田の返答を聞き、敏夫は頷いた。

「ありがとうございます。では、本日夕方に」

電話を切った。

「会えるそうだ」

「今日ですか」

「ああ。村田さんの個人事務所で会う」

「役場ではないんですね」

「役場でやれば、正式な打ち合わせになる。今回は、その前の相談だ」

敏夫は続けた。

「村田さんの後援会の久保さんも同席するそうだ」

「久保さんも」

「政治的な影響を考えるには、必要な人だ」

グリフは深く息を吐いた。

怒りはまだ残っている。

しかし、怒ったまま村田へぶつかれば、話は前へ進まない。

伝えたいのは、役場案への不満ではない。

住民投票を、町民が自分たちの問題として考える機会にしたいということだった。

敏夫が書類を封筒へ戻す。

「直人君」

「はい」

「言いたいことは分かる。私もかなり同じ気持ちだ」

敏夫は、まっすぐグリフを見た。

「ただ、村田さんの前では、怒りをぶつけるのではなく、代案を出すんだ」

「分かっています」

「役場の人たちを責めても仕方がない。短期間で前例を調べ、実施可能な案を作った。それは事実だ」

「はい」

「そのうえで、なぜ2択では足りないのかを説明する」

グリフは頷いた。

「代案は、以前話していた4案でいいでしょうか」

「そのままでは、まだ粗い部分がある」

敏夫は言った。

「だが、考え方は使える。現行計画を認める案、規模縮小案、代替地案、町が費用を負担して撤退を求める案」

「町民に、負担の違いを見せる」

「そうだ」

グリフは、テーブルの上に置かれた2択の紙を見た。

単純で、分かりやすい。

だからこそ、危うい。

「分かりました」

グリフは静かに言った。

「今度は、怒鳴らないようにします」

敏夫が少しだけ笑った。

「さっきのは、怒鳴る一歩手前だったな」

「自分では、かなり抑えたつもりでした」

「その自覚が危ない」

2人は、わずかに笑った。

だが、すぐに表情を戻した。

夕方、村田の個人事務所で話し合いが行われる。

そこでは、住民投票の形だけでなく、この町で住民参加とは何を意味するのかが問われることになる。

グリフは、まだ湯気の残るコーヒーを一口飲んだ。

苦味が、少しだけ頭を冷やしてくれた。


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