探り合いの来訪者
2月に入った。
その日、グリフは倉沢農協の会議室で、倉林と向かい合っていた。
地域活性化推進委員会で隣の席になったことをきっかけに、2人は連絡先を交換していた。
その後も何度か電話で話をしていたが、外国人材の受け入れについて正式に打ち合わせをするのは、これが初めてだった。
テーブルの上には、グリフが作成した受け入れ構想と、倉林が用意した農業従事者の年齢構成、将来予測などの資料が広げられている。
外国人材を農業で活用するためには、働く場所を確保するだけでは足りない。
住居。
銀行口座。
役場での手続き。
病院への付き添い。
ごみ出しや地域の行事。
日本語が十分に通じない段階では、日常生活の一つ一つに支援が必要になる。
当初、グリフは自分が中心となって対応するつもりでいた。
ルンザットの事情を知り、日本語とインドネシア語の双方を使える。受け入れる若者や、その家族とも直接話ができる。
自分が担うのが最も早いと思っていた。
しかし、地域活性化推進委員会で村田から指摘されたように、グリフ個人への依存が強すぎれば、町としては支援しにくい。
グリフが病気になればどうするのか。
店の経営が忙しくなり、時間を取れなくなったらどうするのか。
グリフとルンザット側の関係が変わった場合、事業全体が止まってしまうのではないか。
個人の善意と能力だけで成り立つ仕組みは、行政や農協にとって不安定に見える。
そこで、生活支援については農協が主体となり、グリフがその立ち上げを支援する形がよいのではないかという話になった。
最初のうちは、どうしてもグリフが前面に立つ。
だが、支援の内容や手順を記録し、農協職員にも一緒に対応してもらう。徐々に農協側へ知識と役割を移し、最終的にはグリフがいなくても回る体制を作る。
「田辺さんが窓口になった方が、最初は早いと思います」
倉林が言った。
「ただ、農家からすると、雇用の相談は農協、生活の相談は田辺さん、制度の相談は別の団体という形では、少し分かりにくいんです」
「窓口は一つの方がいいですよね」
「はい。農家から見れば、何かあったら、まず農協へ連絡すればいい。その形が一番安心できます」
団体監理型の技能実習制度を利用する場合、受け入れ企業や農家を指導し、実習状況を確認する監理団体が必要になる。
地域によっては、農協や事業協同組合などがその役割を担っている例もあった。
ただし、倉沢農協には外国人技能実習生を受け入れた経験がない。
いきなり正式な監理団体としてすべてを担うのは難しい。
「最初は、すでに農業分野で実績のある監理団体と連携する方法も考えた方がいいでしょうね」
グリフが言った。
「倉沢農協が、受け入れ農家と地域での生活支援を担当する。制度上の監理や入国手続きについては、経験のある団体に協力してもらう」
「私もその方が現実的だと思います」
倉林は資料に書き込みながら答えた。
「将来的に農協がどこまで役割を広げるかは、実際に何人か受け入れてから判断すればいいでしょう」
「最初から全部やろうとすると、準備だけで1年くらい過ぎそうですからね」
「農協は、何かを始めるまでが長いんですよ」
倉林が苦笑した。
「ただ、一度正式に決まれば、簡単にはやめないという長所もあります」
「そこは個人より信用できます」
グリフも笑った。
送り出し側となるルンザットの状況についても、隠さず説明した。
島の人口。
主な産業。
若者の就職先。
グリフの父であるディオが、村長であり地域の有力者であること。
候補者の家族関係まで把握しやすい反面、選考をディオやグリフだけで決めれば、身内びいきや不公平だと見られる可能性があること。
「農協は民間の団体ですから、町が直接選ぶ場合ほど厳密な公募は必要ないと思います」
倉林が言った。
「ただ、将来、町から生活支援や住居について補助を受ける可能性を考えれば、誰をどの基準で選んだのかは説明できなければいけません」
「私もそう思います」
グリフは選考案を開いた。
候補者本人の意思。
年齢と健康状態。
農業へ従事する意思。
日本語学習への取り組み。
借金の有無。
家族の同意。
過去の就業経験。
推薦者との関係。
特に重要なのは、本人が本当に日本行きを望んでいるかという点だった。
島の有力者や家族から言われたから、断れずに応募するという状況は避けなければならない。
「贈り物や金銭で選考が左右されないように、面接記録も残した方がよさそうですね」
倉林が言った。
「はい。父だけで選ばず、学校や島の代表者にも入ってもらいます」
「最終的には、日本側の監理団体や受け入れ農家も面接することになります」
「その方がいいですね。ルンザット側で候補者を絞り、日本側が正式に選ぶ。役割を分けた方が公平に見えます」
一方で、最初から大規模な募集や試験を行えば、ルンザット側にも手間と費用がかかる。
そこで、初回は少人数で始めることにした。
書面で定めた最低条件を満たした者の中から、面接と本人確認を行い、先行的に数人を選ぶ。
その経験をもとに、2回目以降の基準や手続きを整えていく。
ただし、3月に来日する予定の4人は、技能実習生ではなく留学生だった。
日本語学校へ通いながら、資格外活動の範囲内でワルン・クラサワや藤樹堂を手伝う。
この4人の生活を支援する経験は、将来の技能実習生受け入れに役立つ。
だが、留学生としての受け入れと技能実習制度は、目的も手続きも別である。
「3月に、まず留学生として4人が来ます」
グリフは説明した。
「農業技能実習生とは制度が違いますが、住居や役所の手続き、病院、ごみ出しなど、生活支援の部分は参考にしてもらえると思います」
「4人の支援に、農協の職員も参加させてもらえますか」
「もちろんです」
「最初は見学でも構いません。どんな問題が起きるのか、実際に見た方が分かりやすいですから」
倉林は、しばらく資料を見返したあと、大きく頷いた。
「これなら、上へ話を持っていけそうです」
「本当ですか」
「まだ正式決定ではありませんよ」
倉林は念を押した。
「農協内での説明も必要ですし、理事の中には、外国人を受け入れること自体に不安を持つ人もいるでしょう」
「それは理解しています」
「ただ、田辺さん1人で全部やる計画ではなく、農協へ段階的に移していく形なら、話はしやすいです」
倉林は資料を一つにまとめた。
「私も、すでに農業技能実習生を受け入れている他地域の農協や監理団体を視察できるよう、手続きを進めます」
「助かります」
「実際にやっている人へ、失敗したことも含めて聞いてみます」
「成功事例より、そちらの方が重要かもしれませんね」
「役所や団体の視察は、成功した話だけ聞いて帰ってくることも多いですから」
倉林が少し笑った。
「今回は、逃げた人がいたのか、農家と揉めたことはないか、生活支援にどれだけ人手が必要なのかまで聞いてきます」
――滑り出しとしては上々だ。
グリフはそう考えながら、農協を後にした。
少なくとも、グリフ1人の構想だったものが、少しずつ町の仕組みへ変わり始めている。
*
そのころ、敏夫たちも住民投票の準備を進めていた。
ただし、町が正式に実施を発表したわけではない。
まずは観測気球として、
「町長が、メガソーラー計画について住民投票も選択肢の一つとして検討しているらしい」
という話が、事業者側へ伝わるようにした。
どこから出た情報か分からない。
町長周辺からか。
議員からか。
役場の内部からか。
事業者側も、単なる噂として無視することはできなかった。
社内では、すぐに対応を検討する会議が開かれた。
住民投票が実施されれば、地元紙だけでなく、県内のテレビや新聞に取り上げられる可能性がある。
再生可能エネルギーと世界遺産の景観。
新しい町長と民間事業者の対立。
住民投票という珍しい手法。
報道機関にとって、扱いやすい要素がそろっていた。
もし、
「住民の反対を押し切って、太陽光発電所を建設しようとする事業者」
という印象が広がれば、影響は倉沢町だけにとどまらない。
他地域で進めている事業でも、住民説明会が紛糾するかもしれない。
自治体から追加資料を求められ、審査に時間がかかる可能性もある。
金融機関が地域対立を事業リスクと判断すれば、融資条件にも影響する。
すでに稼働している発電所の周辺でさえ、
「あの施設でも、何か問題があったのではないか」
と疑われる可能性があった。
*
一方で、住民投票を必ずしも悪い話だと考えない者もいた。
どうせ町が反対しているのであれば、投票を実施させればよい。
その結果、建設容認が多数になれば、住民の意思を得た事業として堂々と工事を進められる。
反対意見から逃げず、住民の判断を受け入れた企業という評価につなげることもできる。
ただし、そのためには戦術を変えなければならない。
これまで行ってきたのは、町議、県議、自治会長など、有力者への働きかけだった。
住民投票となれば、相手は町民全体になる。
住民へ直接、事業の利点を説明する必要があった。
発電所がもたらす固定資産税。
地元企業への工事発注。
再生可能エネルギーの意義。
防災対策。
景観への配慮。
計画地の周囲へ樹木を植え、道路や観光地からパネルが見えにくくする案も、改めて検討された。
ただし、樹木が成長し、パネルへ影を落とせば発電量が減る。
どの位置へ、どの高さの樹木を植えれば、景観を守りながら発電への影響を抑えられるのか。
専門業者へ試算を依頼する必要があった。
地域交流施設を兼ねた一時避難所を整備する案も出た。
災害で停電が発生した際には、発電した電気を地域住民へ提供する。
しかし、通常の太陽光発電設備は、停電時にそのまま地域へ電気を供給できるわけではない。
自立運転機能や蓄電池、専用の配線が必要になる。
施設を建設し、蓄電設備まで用意すれば、費用は大きく膨らむ。
さらに、倉沢町だけで手厚い地域貢献策を実施すれば、ほかの事業予定地でも同じ対応を求められる可能性がある。
社会貢献としては効果的でも、会社全体の事業として成立するのか。
簡単には決められなかった。
結局、最も重要なのは、村田がどこまで本気で住民投票を考えているかだった。
単なる交渉材料であれば、こちらが大きな費用をかけて住民向けの対策を準備する必要はない。
本当に実施されるのであれば、今すぐ戦術を変えなければ間に合わない。
事業者側は、町長周辺の人間へ探りを入れた。
牛山派の有力者。
県議。
町議。
役場とつながりのある人物。
しかし、明確な情報は得られなかった。
「案の一つとして検討しているらしい」
「役場内でも意見が分かれている」
「町長はまだ決めていない」
返ってくるのは、その程度の話ばかりだった。
ついには、有力者を通じて村田本人へも感触を尋ねた。
村田の返事は慎重だった。
「支援者の1人から、住民投票という案が出ていることは事実です」
「ただ、制度上も政治上も難しい問題があります。町として検討はしていますが、現時点で実施を決めたわけではありません」
嘘は言っていない。
だが、どちらへ進むつもりなのかも明かしていない。
事業者側は、住民投票が単なる脅しなのか、本当に準備が始まっているのか、判断できずにいた。
*
農協での打ち合わせを終えたグリフは、藤樹堂へ戻っていた。
午後は、コンビニ向け商品の製造設備について、機械メーカーから届いた見積書を確認する予定だった。
既製品の包装機を改造する案と、藤樹堂の商品に合わせた専用機を開発する案。
初期費用は大きく違う。
生産速度や故障時の対応まで考えれば、単純に安い方を選べばよいわけではない。
グリフが数字を表計算ソフトへ入力していると、机の上の携帯電話が鳴った。
ジョコからだった。
「どうした?」
『グリフに会いたいという人が、店に来ています』
「俺に?」
『はい。グリフという名前を知っていました』
ジョコの声には、少し困惑が混じっている。
『日本の人ではないと思います。日本語は上手ですけど』
グリフは入力の手を止めた。
自分を「田辺さん」でも「直人さん」でもなく、「グリフ」と呼ぶ人間。
倉沢でその名を使う者は限られている。
――アリだな。
理由は説明できなかった。
だが、そう直感した。
「1人か?」
『いえ、もう1人います。でも、グリフに話があると言っているのは、前に来た人です』
前に来た人。
それで確信した。
「分かった。すぐ店へ戻る」
『待ってもらいますか』
「ああ。コーヒーでも出しておいてくれ」
電話を切ったグリフは、保存ボタンを押して席を立った。
「どこか行くんですか」
近くにいた黒田が尋ねた。
「店に客が来た」
「見積もりの計算は?」
「保存してあります。戻ったら続けます」
グリフはコートを手に取り、事務所を出た。
事業者側が住民投票の噂を聞きつけた。
その直後に、アリが自分を訪ねてきた。
偶然とは思えなかった。
――向こうから、話をしに来たか。
階段を下りながら、グリフは自然と歩調を速めた。
これまで町議や県議、有力者を通じて行われていた探り合いが、ついに自分のところまで届いたのだ。
グリフは冷たい風の中へ出ると、ワルン・クラサワへ向かって急いだ。




