↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/42

ナシゴレンの交渉席

グリフがワルン・クラサワへ入ると、予想どおりアリがいた。

窓際のテーブルに座り、その向かいには見覚えのない若い男がいる。

30歳前後だろうか。濃紺のスーツを着て、膝の上に黒い鞄を置いていた。

グリフが入ってきたことに気づき、アリが顔を上げる。

目が合った。

前回、同僚たちと店を訪れたときとは、明らかに雰囲気が違った。

あのときは、古い友人の店を見物に来た客の顔をしていた。多少の探り合いはあったものの、表向きは食事を楽しみに来たという姿勢だった。

今日は違う。

目つきも、背筋の伸ばし方も、相手の動きを観察するような静けさも、ルンザットへ最初に現れたころのアリに似ていた。

――今日は仕事か。

店内には、ほかにも何組か客がいる。

加藤が厨房に立ち、ジョコが注文を取って回っていた。ここで昔の関係を前面に出すべきではない。

グリフは店主として2人の前へ進んだ。

「お待たせいたしました。田辺と申します。こちらの店を経営しております」

アリと若い男が、そろって立ち上がった。

アリも、その場では旧友として振る舞うつもりはないらしい。

「突然お邪魔して、申し訳ありません」

若い男が頭を下げ、名刺入れを取り出した。

「グローバル・ニューエナジー・ジャパンの赤名と申します」

差し出された名刺には、

『事業開発部 主任 赤名裕一』

と書かれていた。

グローバル・ニューエナジー・ジャパン。

熊田地区のメガソーラー計画を進めている事業会社である。

グリフも名刺を差し出した。

現在の肩書きは、株式会社藤樹堂の取締役となっている。その下に、ワルン・クラサワ事業責任者と記載してあった。

「本日は、わざわざありがとうございます」

名刺交換を終えると、赤名は店の奥へ視線を向けた。

おそらく、別室へ案内されることを期待しているのだろう。

だが、グリフにそのつもりはなかった。

スタッフルームへ通せば、込み入った話をする意思があると受け取られかねない。密室で話したとなれば、後から何を話したのか証明することも難しくなる。

客のいる店内で話せる範囲にとどめた方が安全だった。

「どうぞ、お掛けください。立ったままでは、こちらが恐縮してしまいます」

グリフは笑顔を見せた。

「私も失礼して、こちらへ座らせていただきます」

3人が席につく。

赤名は軽く店内を見回した。

「雰囲気のいいお店ですね。平日のこの時間でも、かなりお客様が入っていらっしゃる」

「ありがとうございます。地元の方に支えていただいています」

「駅からは少し離れていますが、観光客の方も来られるんですか」

「最近は雑誌を見て来てくださる方も増えました」

簡単な世間話を交わしたあと、赤名は鞄の上で両手を組んだ。

「本日伺いましたのは、劉さんから田辺さんをご紹介いただいたためです」

アリの方へ軽く視線を向ける。

「熊田地区の太陽光発電事業について、田辺さんが地域の事情をご存じだと聞きまして、お話を伺えればと思いました」

「劉さんの会社には、太陽光パネルの調達で大変お世話になっております。熊田地区の事業でも、同社製品を納入していただく予定です」

赤名の説明は丁寧だった。

しかし、具体的に何を聞きたいのかは、まだ言わない。

グリフも接客用の笑顔を崩さなかった。

「そうでしたか」

赤名からアリへ視線を移す。

「ただ、メガソーラーの件と言われましても、私はそれほど詳しいわけではありません」

「伯父が町議をしておりますので、町長選挙の際には多少関心を持っておりましたが、現在の交渉状況までは分かりません」

「せっかくお越しいただいたのに、お役に立てるかどうか」

赤名の表情に、わずかな戸惑いが浮かんだ。

事前に聞いていた人物像と、目の前の店主の言葉が一致しないのだろう。

アリはしばらく真顔でグリフを見ていた。

やがて、諦めたように口元を緩める。

「率直に聞いていいか、グリフ」

そこで、赤名の顔を見て言い直した。

「失礼。今は田辺さんと呼んだ方がいいのかな」

「グリフでいいよ」

グリフも笑った。

「そちらも、劉さんではなくアリでいいかい」

「もちろんだ」

2人とも笑顔になった。

ただし、その笑顔は、どちらも相手を安心させるために作ったものだった。


*


アリは少し身を乗り出し、周囲の客に聞こえないよう声を落とした。

「メガソーラーの件だけど、町が住民投票を検討しているというのは本当かい」

「住民投票?」

グリフは、初めて聞いたような顔をした。

「そんな噂が出ているのか」

「こちらでは、かなり気にしている」

「そうなのか。俺は知らないな」

アリはグリフの目を見たまま続けた。

「俺たちが聞いた話では、住民投票なんて案を町長へ持ち込めるのは、藤田議員くらいじゃないかと言われている」

「どうして敏夫さんが?」

「町長選挙のとき、かなり中心的に動いていたんだろう。町長にも直接話ができる」

「それに、藤田議員はグリフの伯父さんだ」

「伯父なのは事実だけど、政治の細かな話を全部俺にするわけじゃないよ」

「でも、何か動きくらいは聞いていないか」

アリの口調は穏やかだった。

「正式な情報でなくてもいい。雰囲気だけでもいいんだ。もちろん、話せる範囲で構わない」

「そう言われてもなあ」

グリフは曖昧に首を傾げた。

アリは少し間を置いた。

「ただで聞こうとは思っていないよ」

グリフは、わずかに眉を上げた。

「なんだか怖いな。金なら要らないぞ」

「金じゃない」

アリはすぐに否定した。

「見返りは情報だ」

――情報?

グリフは赤名から受け取った名刺へ、もう一度目を落とした。

肩書きは主任。

若手ではないが、プロジェクト全体の判断を任される役職にも見えない。

――少し軽いな。

アリは、こちら側の情報と引き換えに、事業者側の事情を話すと言っている。

かなり踏み込んだ提案だった。

しかし、アリはメガソーラー事業会社の人間ではない。

パネルを供給する取引先の社員にすぎない。

いくらアリが事業者側で重要な役割を担っていたとしても、その口約束だけで相手企業の内部情報まで信用してよいものか。

だから、グローバル・ニューエナジー・ジャパンの赤名が同席しているのだろう。

問題は、赤名がどこまでの権限を与えられているかだった。

単にアリを監視するために来たのか。

それとも、ここで話した内容を会社の発言として扱えるのか。

情報交換に重みを持たせるなら、せめて課長や部長級が来るべきではないか。

主任1人を連れてきたところを見ると、会社としてもまだ正式な交渉にするつもりはないのだろう。

失敗しても、若手社員と取引先が勝手に接触したと言い逃れられる。


*


「考え込んだな」

アリが言った。

「いや」

グリフは顔を上げた。

「どういう意味で言っているのか分からなくて、少し混乱しただけだ」

「そうか」

アリは背もたれに体を預けた。

「では、俺の勝手な想像を話してもいいか」

「想像なら、止める理由はないな」

「仮に、町が本当に住民投票を検討しているとする」

アリは人差し指を1本立てた。

「そして仮に、その案を藤田議員が町長へ持っていったとする」

「仮定の多い話だな」

「まだ続くよ」

アリは気にせず話した。

「藤田議員の評判を調べた。慎重で、堅実で、調整型の人間だそうだ」

「住民投票のような、びっくり箱みたいな案を突然持ち出す人物ではない」

「よく調べたな」

「仕事だからね」

「そうなると、誰かが藤田議員へ進言したことになる」

グリフは黙っていた。

「ただ、藤田議員は、もともと伝統的な和菓子屋の経営者だ。周囲にも、政治的な奇策を考えるような人間は少ない」

「ところが、すぐ近くに1人だけいる」

アリはグリフを指さした。

「小さな島とはいえ、ルンザットで指導者に近い立場を経験した男」

「ゲリラを相手に、正面から戦わず機転を利かせて村を守った男」

赤名が、わずかにグリフの顔を見る。

アリからどこまで聞かされているのだろう。

「そう考えると」

アリは続けた。

「住民投票の原案をグリフが考え、藤田議員が日本の政治制度に合わせて磨いた。そう考えるのが一番自然だ」

*


「仮定の上に仮定を重ねて、最後に俺を置いただけだろう」

「そのとおり」

アリはあっさり認めた。

「何の証拠もない。勝手な妄想だと言ってもいい」

「だったら、俺が否定しても問題ないな」

「否定するのは自由だよ」

アリは笑った。

「ただ、勝手ついでに話を続けるなら、俺は住民投票自体を悪い案だとは思っていない」

グリフは反応しなかった。

「こちらだって、町といつまでも争いたいわけじゃない」

「そちら側も、事業者がどこまで譲れるのか知りたいはずだ」

「結局、この問題は、どこかで落としどころを見つけなければならない」

アリは赤名へ視線を向けた。

赤名は黙ったまま、否定もしない。

「町と事業者の正式な交渉は続いている。だが、正式な交渉では、どちらも建前しか言えない」

「相手がどこまで本気なのか。どの条件なら飲めるのか。本当は何を一番恐れているのか」

「そういう情報を交換する別の経路があってもいいんじゃないか」

――本気か?

水面下の交渉自体は、珍しいことではないのだろう。

表の会議で譲歩を口にすれば、最初からその条件まで下がれると見透かされる。

その前に、非公式な人間を通して相手の反応を見る。

理屈は分かる。

だが、その窓口が自分とアリというのは不自然だった。

町側なら、敏夫。

あるいは、村田の後援会にいる久保。

事業者側なら、赤名より上の責任者。

その程度の立場の者同士が話す方が普通ではないのか。

――いや。

そのレベルでは、すでに接触しているのかもしれない。

それでも住民投票が本気かどうか分からない。

だから、別の経路として、駄目でもともとで俺のところへ来た。

そう考えれば筋は通る。

――下手なことは言わない方がいい。

もともと話すつもりはないが、相手がアリだからといって気を緩めれば、表情や言葉の間から何かを読み取られる。


*


「そう言われても、本当に知らないからな」

グリフは同じ答えを繰り返した。

「そうか」

アリは少し残念そうな表情を作った。

すぐに、何かを思いついたように顔を上げる。

「逆に、それなら余計にいいかもしれない」

「何がだ」

「正式な話を聞いていないなら、情報漏洩にはならない」

「グリフの推測でいいんだ」

――しつこいな。

アリは机の上で指を組んだ。

「俺は、住民投票はブラフだと読んでいる」

一言だけ告げ、グリフの顔を見る。

――うなずくだけでいい、と言っているのか。

住民投票は本気ではない。

そうであれば、少し目を動かすだけで十分な答えになる。

逆に否定しようと急げば、本気だと教えることになるかもしれない。

グリフは、接客用の笑顔を崩さなかった。

「そうおっしゃられましても、私には何とも……」

あえて、店主としての丁寧語へ戻した。

そこへ、これまで黙っていた赤名が口を開いた。

「実は……」

赤名は両手を膝の上に置き、少しうつむいた。

「私事で恐縮なのですが、何か一つでも情報を持ち帰らないと、上司から厳しく叱責されると思います」

「今回、私は現地での情報収集も担当していまして……」

言いにくそうに言葉を切る。

「何の成果もなければ、最悪の場合、このプロジェクトから外されるかもしれません」

――えっ。

グリフは一瞬、言葉を失いかけた。

――今度は泣き落としか。

――この人、権限を持たせるためじゃなく、そっちの要員だったのか?


赤名の様子が演技なのか、本当に追い込まれているのか、すぐには判断できない。

いずれにしても、ここで同情して口を滑らせれば、相手の思うつぼだった。

グリフも30代半ばだ。

若いころなら、相手が困っていると言われただけで、何か助けられないかと考えたかもしれない。

だが、仕事の情報を聞き出しに来た人間の将来まで、自分が責任を負うことはできない。

グリフはわずかに姿勢を正した。

「お役に立ちたい気持ちはあります」

穏やかに答える。

「ただ、私が根拠のないことを申し上げて、それを会社へ持ち帰られた結果、判断を誤らせてしまっては、かえって赤名さんへご迷惑をおかけします」

「ですから、分からないものは分からないと申し上げるしかありません」

赤名は、さらに顔を伏せた。

アリがため息をつく。

「赤名さん。それはこちら側の事情だよ」

口調は柔らかいが、少しだけたしなめる響きがあった。

「ここでグリフに言っても仕方がない」

「……申し訳ありません」


「それより、せっかく来たんだ。何か食べよう」

アリは店内のメニューを手に取った。

「ここのナシゴレンはうまいぞ」

「そうですね」

赤名は顔を上げた。

「突然押しかけてしまいましたし、せめて売り上げに貢献しないと」

「だから、そういうことじゃない」

アリは苦笑した。

「うまいものは、普通に楽しんで食べればいいんだよ」

それからグリフを見る。

「注文は、あちらに頼めばいいのか」

「そうだな」

グリフは店内を回っていたジョコを呼んだ。

「ジョコ、こちらの注文を取ってくれるか」

「分かりました」

ジョコが伝票を持って近づいてくる。

アリはナシゴレンを注文し、赤名も同じものを頼んだ。辛さは控えめにするらしい。


*


ジョコが厨房へ戻ると、グリフは2人を見ながら考えた。

――参ったな。

今日、何も聞き出せなければ、2人はまた来るかもしれない。

毎日のように店へ現れ、料理を食べながら、世間話の延長で探りを入れてくる。

店の売り上げとしては悪くない。

だが、気詰まりだった。

ジョコや加藤も、2人が単なる客ではないことに気づくだろう。余計な緊張をさせたくない。

――これなら、少しくらい脅された方が楽だったな。

先日、アリの経歴を聞いてから、揉めれば強面の人間を連れてくる可能性も考えていた。

その場合は、警察を呼ぶなり、入店を断るなり、対応が明確になる。

しかし、丁寧に挨拶をし、料理を注文し、困った顔で情報を求める客を追い返すわけにはいかない。

しかも、アリが直接暴力へ訴えるとは思えなかった。

それでも万一に備え、グリフは道場で体を鍛え直し始めている。

――お互い、もう若くない。

――おっさんになったアリが相手なら、勝つのは無理でも、大けがをしない程度には粘れるだろう。

そんな意味のない計算までしてしまう。

やがて、ジョコが2人のナシゴレンを運んできた。

「せっかく遠くからお越しいただいたので、店から1品サービスします」

グリフは立ち上がった。

「私が作りますので、少々お待ちください」

「悪いな」

「お気遣いいただかなくても」

アリと赤名がそれぞれ言った。

「店主としてのサービスです」

グリフは笑顔のまま席を離れた。


*


少し距離を置き、頭を冷やしたかった。

厨房へ入ると、加藤が不思議そうにグリフを見た。

「知り合いですか」

「昔の知り合いと、その仕事仲間です」

「何か作るんですか」

「トムヤムクンを出します」

グリフは鍋を取り出した。

香辛料とスープの香りが立ち上がる。

手を動かしている間に、頭の中を整理した。

アリたちが知りたいのは、住民投票が本気かどうか。

こちらが知りたいのは、事業者が住民投票をどこまで恐れ、どの程度なら譲歩できるのか。

互いに知りたいことがある。

しかし、自分が住民投票の情報を漏らすわけにはいかない。

ならば、別の形で相手から情報を出させる方法はないか。

正式な交渉ではない。

秘密の取引でもない。

後から誰に知られても、問題にならない方法。

鍋の中のスープをかき混ぜながら、グリフの頭に一つの考えが浮かんだ。

味を確認し、火を止める。

出来上がったトムヤムクンを器へ盛り、グリフは自らテーブルへ運んだ。

アリと赤名は、すでにナシゴレンを食べ始めていた。

よほど腹が減っていたのか、2人とも会話をせず、料理に集中している。

「お待たせしました」

グリフが器を置くと、アリが顔を上げた。

「ありがとう。いい匂いだな」

「ところで」

グリフは立ったまま、2人を見た。

接客用の穏やかな笑顔を浮かべる。

「少し、お2人に提案があるのですが」

アリと赤名が同時に動きを止めた。

驚いたように顔を上げる。

2人とも、まだナシゴレンが口に入ったままだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。