ナシゴレンの交渉席
グリフがワルン・クラサワへ入ると、予想どおりアリがいた。
窓際のテーブルに座り、その向かいには見覚えのない若い男がいる。
30歳前後だろうか。濃紺のスーツを着て、膝の上に黒い鞄を置いていた。
グリフが入ってきたことに気づき、アリが顔を上げる。
目が合った。
前回、同僚たちと店を訪れたときとは、明らかに雰囲気が違った。
あのときは、古い友人の店を見物に来た客の顔をしていた。多少の探り合いはあったものの、表向きは食事を楽しみに来たという姿勢だった。
今日は違う。
目つきも、背筋の伸ばし方も、相手の動きを観察するような静けさも、ルンザットへ最初に現れたころのアリに似ていた。
――今日は仕事か。
店内には、ほかにも何組か客がいる。
加藤が厨房に立ち、ジョコが注文を取って回っていた。ここで昔の関係を前面に出すべきではない。
グリフは店主として2人の前へ進んだ。
「お待たせいたしました。田辺と申します。こちらの店を経営しております」
アリと若い男が、そろって立ち上がった。
アリも、その場では旧友として振る舞うつもりはないらしい。
「突然お邪魔して、申し訳ありません」
若い男が頭を下げ、名刺入れを取り出した。
「グローバル・ニューエナジー・ジャパンの赤名と申します」
差し出された名刺には、
『事業開発部 主任 赤名裕一』
と書かれていた。
グローバル・ニューエナジー・ジャパン。
熊田地区のメガソーラー計画を進めている事業会社である。
グリフも名刺を差し出した。
現在の肩書きは、株式会社藤樹堂の取締役となっている。その下に、ワルン・クラサワ事業責任者と記載してあった。
「本日は、わざわざありがとうございます」
名刺交換を終えると、赤名は店の奥へ視線を向けた。
おそらく、別室へ案内されることを期待しているのだろう。
だが、グリフにそのつもりはなかった。
スタッフルームへ通せば、込み入った話をする意思があると受け取られかねない。密室で話したとなれば、後から何を話したのか証明することも難しくなる。
客のいる店内で話せる範囲にとどめた方が安全だった。
「どうぞ、お掛けください。立ったままでは、こちらが恐縮してしまいます」
グリフは笑顔を見せた。
「私も失礼して、こちらへ座らせていただきます」
3人が席につく。
赤名は軽く店内を見回した。
「雰囲気のいいお店ですね。平日のこの時間でも、かなりお客様が入っていらっしゃる」
「ありがとうございます。地元の方に支えていただいています」
「駅からは少し離れていますが、観光客の方も来られるんですか」
「最近は雑誌を見て来てくださる方も増えました」
簡単な世間話を交わしたあと、赤名は鞄の上で両手を組んだ。
「本日伺いましたのは、劉さんから田辺さんをご紹介いただいたためです」
アリの方へ軽く視線を向ける。
「熊田地区の太陽光発電事業について、田辺さんが地域の事情をご存じだと聞きまして、お話を伺えればと思いました」
「劉さんの会社には、太陽光パネルの調達で大変お世話になっております。熊田地区の事業でも、同社製品を納入していただく予定です」
赤名の説明は丁寧だった。
しかし、具体的に何を聞きたいのかは、まだ言わない。
グリフも接客用の笑顔を崩さなかった。
「そうでしたか」
赤名からアリへ視線を移す。
「ただ、メガソーラーの件と言われましても、私はそれほど詳しいわけではありません」
「伯父が町議をしておりますので、町長選挙の際には多少関心を持っておりましたが、現在の交渉状況までは分かりません」
「せっかくお越しいただいたのに、お役に立てるかどうか」
赤名の表情に、わずかな戸惑いが浮かんだ。
事前に聞いていた人物像と、目の前の店主の言葉が一致しないのだろう。
アリはしばらく真顔でグリフを見ていた。
やがて、諦めたように口元を緩める。
「率直に聞いていいか、グリフ」
そこで、赤名の顔を見て言い直した。
「失礼。今は田辺さんと呼んだ方がいいのかな」
「グリフでいいよ」
グリフも笑った。
「そちらも、劉さんではなくアリでいいかい」
「もちろんだ」
2人とも笑顔になった。
ただし、その笑顔は、どちらも相手を安心させるために作ったものだった。
*
アリは少し身を乗り出し、周囲の客に聞こえないよう声を落とした。
「メガソーラーの件だけど、町が住民投票を検討しているというのは本当かい」
「住民投票?」
グリフは、初めて聞いたような顔をした。
「そんな噂が出ているのか」
「こちらでは、かなり気にしている」
「そうなのか。俺は知らないな」
アリはグリフの目を見たまま続けた。
「俺たちが聞いた話では、住民投票なんて案を町長へ持ち込めるのは、藤田議員くらいじゃないかと言われている」
「どうして敏夫さんが?」
「町長選挙のとき、かなり中心的に動いていたんだろう。町長にも直接話ができる」
「それに、藤田議員はグリフの伯父さんだ」
「伯父なのは事実だけど、政治の細かな話を全部俺にするわけじゃないよ」
「でも、何か動きくらいは聞いていないか」
アリの口調は穏やかだった。
「正式な情報でなくてもいい。雰囲気だけでもいいんだ。もちろん、話せる範囲で構わない」
「そう言われてもなあ」
グリフは曖昧に首を傾げた。
アリは少し間を置いた。
「ただで聞こうとは思っていないよ」
グリフは、わずかに眉を上げた。
「なんだか怖いな。金なら要らないぞ」
「金じゃない」
アリはすぐに否定した。
「見返りは情報だ」
――情報?
グリフは赤名から受け取った名刺へ、もう一度目を落とした。
肩書きは主任。
若手ではないが、プロジェクト全体の判断を任される役職にも見えない。
――少し軽いな。
アリは、こちら側の情報と引き換えに、事業者側の事情を話すと言っている。
かなり踏み込んだ提案だった。
しかし、アリはメガソーラー事業会社の人間ではない。
パネルを供給する取引先の社員にすぎない。
いくらアリが事業者側で重要な役割を担っていたとしても、その口約束だけで相手企業の内部情報まで信用してよいものか。
だから、グローバル・ニューエナジー・ジャパンの赤名が同席しているのだろう。
問題は、赤名がどこまでの権限を与えられているかだった。
単にアリを監視するために来たのか。
それとも、ここで話した内容を会社の発言として扱えるのか。
情報交換に重みを持たせるなら、せめて課長や部長級が来るべきではないか。
主任1人を連れてきたところを見ると、会社としてもまだ正式な交渉にするつもりはないのだろう。
失敗しても、若手社員と取引先が勝手に接触したと言い逃れられる。
*
「考え込んだな」
アリが言った。
「いや」
グリフは顔を上げた。
「どういう意味で言っているのか分からなくて、少し混乱しただけだ」
「そうか」
アリは背もたれに体を預けた。
「では、俺の勝手な想像を話してもいいか」
「想像なら、止める理由はないな」
「仮に、町が本当に住民投票を検討しているとする」
アリは人差し指を1本立てた。
「そして仮に、その案を藤田議員が町長へ持っていったとする」
「仮定の多い話だな」
「まだ続くよ」
アリは気にせず話した。
「藤田議員の評判を調べた。慎重で、堅実で、調整型の人間だそうだ」
「住民投票のような、びっくり箱みたいな案を突然持ち出す人物ではない」
「よく調べたな」
「仕事だからね」
「そうなると、誰かが藤田議員へ進言したことになる」
グリフは黙っていた。
「ただ、藤田議員は、もともと伝統的な和菓子屋の経営者だ。周囲にも、政治的な奇策を考えるような人間は少ない」
「ところが、すぐ近くに1人だけいる」
アリはグリフを指さした。
「小さな島とはいえ、ルンザットで指導者に近い立場を経験した男」
「ゲリラを相手に、正面から戦わず機転を利かせて村を守った男」
赤名が、わずかにグリフの顔を見る。
アリからどこまで聞かされているのだろう。
「そう考えると」
アリは続けた。
「住民投票の原案をグリフが考え、藤田議員が日本の政治制度に合わせて磨いた。そう考えるのが一番自然だ」
*
「仮定の上に仮定を重ねて、最後に俺を置いただけだろう」
「そのとおり」
アリはあっさり認めた。
「何の証拠もない。勝手な妄想だと言ってもいい」
「だったら、俺が否定しても問題ないな」
「否定するのは自由だよ」
アリは笑った。
「ただ、勝手ついでに話を続けるなら、俺は住民投票自体を悪い案だとは思っていない」
グリフは反応しなかった。
「こちらだって、町といつまでも争いたいわけじゃない」
「そちら側も、事業者がどこまで譲れるのか知りたいはずだ」
「結局、この問題は、どこかで落としどころを見つけなければならない」
アリは赤名へ視線を向けた。
赤名は黙ったまま、否定もしない。
「町と事業者の正式な交渉は続いている。だが、正式な交渉では、どちらも建前しか言えない」
「相手がどこまで本気なのか。どの条件なら飲めるのか。本当は何を一番恐れているのか」
「そういう情報を交換する別の経路があってもいいんじゃないか」
――本気か?
水面下の交渉自体は、珍しいことではないのだろう。
表の会議で譲歩を口にすれば、最初からその条件まで下がれると見透かされる。
その前に、非公式な人間を通して相手の反応を見る。
理屈は分かる。
だが、その窓口が自分とアリというのは不自然だった。
町側なら、敏夫。
あるいは、村田の後援会にいる久保。
事業者側なら、赤名より上の責任者。
その程度の立場の者同士が話す方が普通ではないのか。
――いや。
そのレベルでは、すでに接触しているのかもしれない。
それでも住民投票が本気かどうか分からない。
だから、別の経路として、駄目でもともとで俺のところへ来た。
そう考えれば筋は通る。
――下手なことは言わない方がいい。
もともと話すつもりはないが、相手がアリだからといって気を緩めれば、表情や言葉の間から何かを読み取られる。
*
「そう言われても、本当に知らないからな」
グリフは同じ答えを繰り返した。
「そうか」
アリは少し残念そうな表情を作った。
すぐに、何かを思いついたように顔を上げる。
「逆に、それなら余計にいいかもしれない」
「何がだ」
「正式な話を聞いていないなら、情報漏洩にはならない」
「グリフの推測でいいんだ」
――しつこいな。
アリは机の上で指を組んだ。
「俺は、住民投票はブラフだと読んでいる」
一言だけ告げ、グリフの顔を見る。
――うなずくだけでいい、と言っているのか。
住民投票は本気ではない。
そうであれば、少し目を動かすだけで十分な答えになる。
逆に否定しようと急げば、本気だと教えることになるかもしれない。
グリフは、接客用の笑顔を崩さなかった。
「そうおっしゃられましても、私には何とも……」
あえて、店主としての丁寧語へ戻した。
そこへ、これまで黙っていた赤名が口を開いた。
「実は……」
赤名は両手を膝の上に置き、少しうつむいた。
「私事で恐縮なのですが、何か一つでも情報を持ち帰らないと、上司から厳しく叱責されると思います」
「今回、私は現地での情報収集も担当していまして……」
言いにくそうに言葉を切る。
「何の成果もなければ、最悪の場合、このプロジェクトから外されるかもしれません」
――えっ。
グリフは一瞬、言葉を失いかけた。
――今度は泣き落としか。
――この人、権限を持たせるためじゃなく、そっちの要員だったのか?
赤名の様子が演技なのか、本当に追い込まれているのか、すぐには判断できない。
いずれにしても、ここで同情して口を滑らせれば、相手の思うつぼだった。
グリフも30代半ばだ。
若いころなら、相手が困っていると言われただけで、何か助けられないかと考えたかもしれない。
だが、仕事の情報を聞き出しに来た人間の将来まで、自分が責任を負うことはできない。
グリフはわずかに姿勢を正した。
「お役に立ちたい気持ちはあります」
穏やかに答える。
「ただ、私が根拠のないことを申し上げて、それを会社へ持ち帰られた結果、判断を誤らせてしまっては、かえって赤名さんへご迷惑をおかけします」
「ですから、分からないものは分からないと申し上げるしかありません」
赤名は、さらに顔を伏せた。
アリがため息をつく。
「赤名さん。それはこちら側の事情だよ」
口調は柔らかいが、少しだけたしなめる響きがあった。
「ここでグリフに言っても仕方がない」
「……申し訳ありません」
「それより、せっかく来たんだ。何か食べよう」
アリは店内のメニューを手に取った。
「ここのナシゴレンはうまいぞ」
「そうですね」
赤名は顔を上げた。
「突然押しかけてしまいましたし、せめて売り上げに貢献しないと」
「だから、そういうことじゃない」
アリは苦笑した。
「うまいものは、普通に楽しんで食べればいいんだよ」
それからグリフを見る。
「注文は、あちらに頼めばいいのか」
「そうだな」
グリフは店内を回っていたジョコを呼んだ。
「ジョコ、こちらの注文を取ってくれるか」
「分かりました」
ジョコが伝票を持って近づいてくる。
アリはナシゴレンを注文し、赤名も同じものを頼んだ。辛さは控えめにするらしい。
*
ジョコが厨房へ戻ると、グリフは2人を見ながら考えた。
――参ったな。
今日、何も聞き出せなければ、2人はまた来るかもしれない。
毎日のように店へ現れ、料理を食べながら、世間話の延長で探りを入れてくる。
店の売り上げとしては悪くない。
だが、気詰まりだった。
ジョコや加藤も、2人が単なる客ではないことに気づくだろう。余計な緊張をさせたくない。
――これなら、少しくらい脅された方が楽だったな。
先日、アリの経歴を聞いてから、揉めれば強面の人間を連れてくる可能性も考えていた。
その場合は、警察を呼ぶなり、入店を断るなり、対応が明確になる。
しかし、丁寧に挨拶をし、料理を注文し、困った顔で情報を求める客を追い返すわけにはいかない。
しかも、アリが直接暴力へ訴えるとは思えなかった。
それでも万一に備え、グリフは道場で体を鍛え直し始めている。
――お互い、もう若くない。
――おっさんになったアリが相手なら、勝つのは無理でも、大けがをしない程度には粘れるだろう。
そんな意味のない計算までしてしまう。
やがて、ジョコが2人のナシゴレンを運んできた。
「せっかく遠くからお越しいただいたので、店から1品サービスします」
グリフは立ち上がった。
「私が作りますので、少々お待ちください」
「悪いな」
「お気遣いいただかなくても」
アリと赤名がそれぞれ言った。
「店主としてのサービスです」
グリフは笑顔のまま席を離れた。
*
少し距離を置き、頭を冷やしたかった。
厨房へ入ると、加藤が不思議そうにグリフを見た。
「知り合いですか」
「昔の知り合いと、その仕事仲間です」
「何か作るんですか」
「トムヤムクンを出します」
グリフは鍋を取り出した。
香辛料とスープの香りが立ち上がる。
手を動かしている間に、頭の中を整理した。
アリたちが知りたいのは、住民投票が本気かどうか。
こちらが知りたいのは、事業者が住民投票をどこまで恐れ、どの程度なら譲歩できるのか。
互いに知りたいことがある。
しかし、自分が住民投票の情報を漏らすわけにはいかない。
ならば、別の形で相手から情報を出させる方法はないか。
正式な交渉ではない。
秘密の取引でもない。
後から誰に知られても、問題にならない方法。
鍋の中のスープをかき混ぜながら、グリフの頭に一つの考えが浮かんだ。
味を確認し、火を止める。
出来上がったトムヤムクンを器へ盛り、グリフは自らテーブルへ運んだ。
アリと赤名は、すでにナシゴレンを食べ始めていた。
よほど腹が減っていたのか、2人とも会話をせず、料理に集中している。
「お待たせしました」
グリフが器を置くと、アリが顔を上げた。
「ありがとう。いい匂いだな」
「ところで」
グリフは立ったまま、2人を見た。
接客用の穏やかな笑顔を浮かべる。
「少し、お2人に提案があるのですが」
アリと赤名が同時に動きを止めた。
驚いたように顔を上げる。
2人とも、まだナシゴレンが口に入ったままだった。




