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仕事が一つ増えた

敏夫は、夕方になっても帰ってこなかった。

約束の時間を考えれば、村田との面会はとっくに終わっていてもおかしくない。

――時間がかかっているということは、少なくとも話は聞いてもらえているのか。

最初の数分で却下されたのであれば、敏夫はもう戻ってきているはずだった。

そう考えながら、グリフは藤樹堂の仕事を片づけていた。

既存の取引先から入る注文については、だいぶ作業を定型化できていた。

電話やファックス、電子メールで届く注文を確認する。

納期と在庫を照らし合わせる。

製造担当へ必要数を伝え、配送の手配をする。

例外的な条件がなければ、同じ流れで処理できる。

グリフは手順を簡単なマニュアルへまとめ、黒田へ任せることにした。

「この3つは、そのまま受注して大丈夫です」

グリフは画面を指しながら説明した。

「納期が3日以内の場合と、50箱を超える場合、それから特注の熨斗がある場合だけ、俺に確認してください」

「分かりました」

黒田は、メモを取りながら頷いた。

「配送先が急遽変わった場合は?」

「確定前なら修正。送り状を出したあとなら、すぐ運送会社へ電話です。翌日に持ち越すのが一番まずい」

「そこもマニュアルへ足しておきます」

黒田は飲み込みが早かった。

細かな判断基準さえ決めてやれば、かなりの業務を任せられる。

問題は、新しくコンビニへ卸す予定の商品だった。

これまで藤樹堂が扱ってきた注文とは、数の桁が違う。

1日に数十個、繁忙期でも数百個を作ればよかった商品を、今度は毎日、安定して大量に出荷しなければならない。

一度注文を受ければ、

「今日は人手が足りないので作れません」

では済まない。

コンビニの売り場では、決められた日時に、決められた数の商品が並ぶことを前提にすべてが動いている。

グリフは製造工程を書き出し、手作業で行っている部分を一つずつ分解していた。

生地を練る。

一定の大きさに分ける。

餡を包む。

形を整える。

加熱する。

冷却する。

包装する。

箱詰めする。

機械化できる工程はどこか。

既製の機械で対応できるのか。

一部を改造すれば済むのか。

それとも、メーカーへ特注しなければならないのか。

機械を導入するなら、本体価格だけでなく、設置費用や電気代、清掃、保守、故障時の対応まで考えなければならない。

人を増やした場合の人件費とも比較する必要がある。

製造数が予定より少なかった場合、設備投資を回収できない可能性もある。

春子は商品を見る勘が鋭い。

売れるかどうかを判断する能力も、恐らくグリフより上だった。

だが、

「売れそうだから、たくさん作ればいい」

というところから先は、勘だけでは回らない。

工場の広さ、人員、資金繰り、設備投資、品質管理。

事業として形にするためには、数字と工程へ落とし込む人間が必要だった。

――春子さんが俺を欲しがった理由は、この辺か。

グリフは、少しだけ納得した。

そうこうしているうちに、事務所の扉が開いた。

敏夫が戻ってきた。

「お帰りなさい」

「ああ」

コートを脱ぐ動きは普段と変わらない。

表情からも、話がうまくいったのかどうかは読み取れなかった。

敏夫は自分の机へは向かわず、グリフへ目を向けた。

「直人君。少しいいかな」

2人は、打ち合わせ用のテーブルへ移った。

グリフは敏夫が腰を下ろすのを待ち、すぐに尋ねた。

「どうでしたか」

「話は聞いてくれた」

敏夫は慎重に答えた。

「というより、関心はかなり高かったと思う」

「では、感触は悪くなかった?」

「悪くはない。ただ、簡単に賛成という話でもない」

敏夫は鞄からノートを取り出した。

「途中から、村田さんの後援会にいる久保さんも呼ばれた」

「後援会の方まで?」

「村田さんが、政治的な影響も含めて検討したいと考えたんだろう」

久保は村田の選挙を早い段階から支え、後援会の実務を担っている人物だった。

政策そのものより、それが選挙や支持者へどのような影響を及ぼすかを見る役回りらしい。

「私は途中で席を外した」

敏夫が続けた。

「今ごろは2人で、もう少し詰めているだろう」

「敏夫さんを外して?」

「ああ」

「それは、提案内容だけでなく、敏夫さん自身を信用していいかどうかも話しているということですか」

グリフが半分冗談のつもりで言うと、敏夫は真顔で頷いた。

「そのとおりだと思う」

「本当にですか」

「この案を私が持ち込んだ理由。私がどこまで村田さんと行動を共にするつもりなのか。ほかの議員や牛山派との関係も含めて評価しているだろう」

グリフは先日、自分が言ったことを思い出した。

案の内容より先に、藤田敏夫を信用してもらう必要がある。

実際、その段階へ進んだということらしい。

「どんな懸念が出ました?」

「まず、事業者との交渉状況だ」

「今、業者側はどんな態度なんですか」

敏夫は少し顔を曇らせた。

「かなり強気らしい」

「やはり、町議や県議への働きかけがうまくいっているんでしょうか」

「そうだろうな。複数の有力者から、建設を認めるべきだという感触を得ているらしい」

事業者の主張は明快だった。

県から正式な許可を受けている。

町には、建設を直接止める権限がない。

村田が選挙で掲げたのは「計画の見直し」であって、「必ず中止させる」という公約ではない。

すでに計画を再検討し、景観への追加対策も示している以上、公約には反していない。

あとは許可に従い、粛々と事業を進めればよい。

「大きな問題にはならない、と言っているそうだ」

敏夫が説明を終えると、グリフは首を傾げた。

「そんなに甘いですかね」

「村田さんも、そこは疑っている」

「選挙中にあれだけ話題にしたんです。着工したら、住民の中には裏切られたと思う人も出ますよ」

「だが事業者からすれば、反対している住民が町民全体のどれだけを占めるのか、という話になる」

グリフの聞き取りでも、メガソーラーへの関心は選挙後、急速に薄れていた。

その事実だけを見れば、事業者の読みも完全に間違っているとは言えない。

「向こうも、まったく譲らないわけではない」

敏夫は続けた。

「計画地の外周部分を町へ売却してもいいと言っている」

「外周だけですか」

「ああ。発電量に影響しない範囲で、町が植栽や目隠しを整備する。事業者も一部費用を負担する用意があるらしい」

「それを景観への配慮として、町の顔を立てる」

「そういうことだ」

「発電所そのものは、予定どおり建設する」

「そこは譲らない構えだ」

グリフは腕を組んだ。

「確かに強気ですね」

「町へ少し成果を渡して、実質的には全面建設を認めさせる案だ」

「一番重要な、着工延期についてはどうですか」

敏夫は、そこでは少し表情を緩めた。

「個別交渉にも時間が必要だという点は、事業者も認めている」

「延期してくれるんですか」

「3か月だけだ」

「4月の着工を、7月まで延ばすと?」

「そういう提案らしい」

グリフは少し考えた。

「3か月か……」

本音を言えば、半年は欲しかった。

住民投票条例の準備。

議会との調整。

住民への説明。

事業者との選択肢の確定。

投開票。

そして結果を受けた最終交渉。

3か月では、どこか一つつまずいただけで間に合わなくなる。

「でも、延期はしないというゼロ回答でなくてよかった」

「ああ」

敏夫も同意した。

「事業者も、本当に何も話す気がないわけではない。7月までに決着するなら応じる、ということだろう」

「ほかには、どんな懸念が出たんですか」

「見せた方が早いな」

敏夫はノートを開き、グリフの前へ差し出した。

細かな字で、次のような項目が並んでいた。

・「町長が自分で決断せず、住民へ責任を押しつけた」と見られる可能性

・住民投票の結果に法的拘束力がないこと

・建設容認が多数となった場合に、本当に町長が従えるのか

・投票率が低かった場合、結果に正当性があるのか

・熊田地区など直接影響を受ける住民と、ほかの地区の住民を同じ1票として扱ってよいのか

・住民へ十分な情報を提供できるのか

・議会が住民投票条例を否決する可能性

・投票によって町の立場が固定され、事業者との交渉が難しくなる可能性

・投票に必要な費用と準備期間

グリフは、上から順に目を通した。

「自分が考えていなかった点もありますね」

「私も同じだ」

「熊田地区の人と、計画地から離れた人を同じ1票で扱う問題か……」

「町全体の財政や観光へ影響する以上、全町民の問題ではある」

敏夫が言った。

「だが、家の近くに発電所ができる人間からすれば、遠くの住民と同じ扱いには納得できないかもしれない」

「投票で建設容認が多数になった場合も厳しいですね」

グリフが言う。

「村田さんは、反対を期待して住民投票を提案したのに、賛成多数になったら無視するのか、と言われる」

「そうだ」

「逆に従えば、選挙中の主張は何だったのかと反対派から批判される」

「どちらへ転んでも、傷を負う可能性がある」

敏夫は静かに答えた。

「マスコミや反対派の議員から、こういう質問が出るでしょうね」

グリフはノートを返した。

「対応策は出たんですか」

「一応はある」

「一応?」

「理屈として説明できるという意味だ」

敏夫は一つずつ挙げていった。

住民投票は町長が責任を放棄するものではなく、住民の意思を判断材料として共有するものだと説明する。

投票結果に法的拘束力はないが、町長と議会は最大限尊重すると条例や説明資料へ明記する。

建設容認も含め、どの案が選ばれても実行可能となるよう、事業者と事前に協議する。

投票率が極端に低かった場合にどう扱うかは、成立要件を設けるか、結果の参考度を変えるか検討する。

熊田地区の住民については、別途説明会や意見聴取を行い、全町投票だけで意見を処理しない。

各案の費用や利点、欠点は、町と事業者の双方の主張を載せた資料として全世帯へ配布する。

「村田さんも久保さんも、その場でかなり案を出してくれた」

「では、問題点には対応できる?」

「制度上の説明はできる」

敏夫は慎重に答えた。

「ただし、その説明が住民から納得され、評価されるかは別だ」

「町長にとって、危険な選択であることに変わりはない」

「結局、今のまま個別交渉を続ける場合と、住民投票へ進む場合のどちらがましか、という話ですね」

「そうなる。難しい判断になるだろう」

グリフは少し考えたあと、言った。

「それは判断というより、決断じゃないですか」

敏夫が目を向ける。

「判断材料をもっと集めようとすれば、それだけ時間がたちます」

「業者が待ってくれるのは3か月です。材料が全部そろうころには、着工直前になっているかもしれない」

「今ある材料で、危険を承知でどちらかを選ぶしかないと思います」

「言うのは簡単だが、実際に決めるのは難しいよ」

敏夫は苦笑した。

「決断した本人が、あとで責任を負うからね」

「そうですね」

グリフはそれ以上言わなかった。

「では、あとは結果待ちですか」

「そうだな」

敏夫はノートを閉じた。

「私にできることは話した。あとは、村田さんが決めることだ」


*


その日の夜。

営業を終えたグリフは、ジョコと店内の片づけをしていた。

椅子をテーブルの上へ上げ、床を掃いていると、ポケットの携帯電話が震えた。

画面には敏夫の名前が表示されている。

グリフは箒を壁へ立てかけ、電話に出た。

「はい」

『直人君か』

敏夫の声は、いつもより低かった。

「どうなりました?」

電話の向こうで、短い間があった。

『住民投票を進める方向で、準備に入ることになった』

グリフは、無意識に背筋を伸ばした。

「決めたんですね」

『正式決定ではない。まずは事業者へ着工延期と選択肢の協議を申し入れる。同時に、条例案と実施方法を役場内で検討する』

「でも、村田さんは腹を括った」

『ああ』

敏夫ははっきり答えた。

『私もだ』

「敏夫さんも?」

『この案を私が持ち込んだことは、いずれほかの議員にも知られる』

敏夫の声は穏やかだった。

『これで私は、村田派だと見られるだろうな』

「牛山派の中でも?」

『少なくとも、中立だとは思われなくなる』

『ほかの議員から距離を置かれるかもしれない。武藤派へ戻る道も、ほとんどなくなっただろう』

敏夫は冗談めかすことなく言った。

『まあ、自分で選んだことだ』

「後悔してますか」

『まだ何も始まっていないのに、後悔はできないよ』

その返事は敏夫らしかった。

「分かりました」

『これから忙しくなる』

「もう十分忙しいんですけどね」

『言い出したのは直人君だ』

「そうでした」

わずかに2人の声へ笑いが混じった。

だが、それも長くは続かなかった。

『詳しいことは明日話す』

「はい」

『今日はそれだけだ』

電話が切れた。

グリフは、しばらく暗くなった画面を見つめていた。

村田が失敗すれば、敏夫も一緒に失脚する。

議員を辞めるところまでいかなくても、派閥の中で信用を失い、次の町議選挙で支援を得られなくなる可能性がある。

敏夫は、それを承知で住民投票案を推した。

グリフ自身も、もはや無関係ではない。

この案を考えたのは自分であり、資料を作り、敏夫を通して村田を動かした。

一つの思いつきが、町長と町議の政治生命を左右するところまで来てしまった。

重大な局面に立ったはずだった。

それでも、不思議と心は落ち着いていた。

――まあ、あのときは本当に命が懸かっていたからな。

ルンザットで、ゲリラと向き合っていたころを思い出す。

判断を誤れば、誰かが死ぬ。

明日、自分が生きている保証もない。

あのころに比べれば、今回の敗北で命を失う者はいない。

政治家として傷を負う。

選挙で負ける。

町で悪く言われる。

決して軽いことではない。

だが、死ぬわけではない。

――負けたら、そのときに考えればいい。

グリフは携帯電話をポケットへ戻し、壁に立てかけた箒を手に取った。

「どうしました?」

ジョコが厨房から顔を出した。

「仕事が一つ増えた」

「またですか」

「ああ。まただ」

グリフは苦笑し、途中になっていた床掃除を再開した。


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