政治は人で動く
それから1週間ほどたった日の午後、敏夫はグリフを事務所の打ち合わせテーブルへ呼んだ。
机の上には、先日グリフが作った住民投票案の資料が置かれている。付箋が何枚も貼られ、余白には敏夫の細かな書き込みが加えられていた。
「村田さんとの面会が取れた。これから役場へ行ってくる」
「ようやくですか」
グリフは敏夫の向かいに座った。
「会うまで、けっこう時間がかかりましたね。町長になったばかりで忙しいのは分かりますけど」
「村田さんの都合だけじゃない」
敏夫は資料の端をそろえた。
「こちらも時間をかけたんだ。村田さんの周辺にいる人間や、役場で私と話のできる人に、それとなく意見を聞いていた」
「この案についてですか」
「案そのものは見せていない。住民投票を行う場合に何が問題になるか、町長がどんな点を警戒するかを探っていた」
住民投票条例を議会へ提出した場合の反応。
事業者との事前協議。
県との関係。
投票費用への批判。
投票率が低かった場合の正当性。
そして、住民投票の結果と異なる判断を町長や議会が下さざるを得なくなった場合の政治責任。
敏夫は、考えられる懸念を一つずつ整理していた。
「それで、どうでしたか」
「やはりリスクは大きい」
敏夫は率直に答えた。
「条例案が議会を通らなければ、村田さんは政治力のなさをさらすことになる。通ったとしても、投票結果が割れれば町の対立を深めるかもしれない」
「事業者との交渉も、投票前にある程度まとめておく必要がありますね」
「ああ。住民が選んだ案を事業者が拒否すれば、投票そのものが茶番になる」
敏夫は椅子へ深く腰かけた。
「村田さんがこの案を採用するかどうかは、五分五分だろうな」
「五分五分ですか」
グリフは腕を組んだ。
敏夫が面会の直前にわざわざ自分を呼んだのは、期待するなと釘を刺すためだろうか。
時間をかけて町を歩き、多くの人間から話を聞いた。
ようやくたどり着いた案である。
できれば通したかった。
*
グリフはしばらく考えたあと、ゆっくり口を開いた。
「村田さんが今回の町長選へ出られたのは、牛山派の本命候補が出なかったからですよね」
敏夫が眉を動かした。
「そう聞いているが、それがどうしたんだ」
「牛山派の重鎮たちは、武藤さんに勝てる可能性が低いと考えた。だから、本命を温存した」
「まあ、そうだろうな。負ければ候補者本人にも、推した側にも傷がつく」
「本来の後継候補は、誰だったんですか」
「木村さんだ」
敏夫は少し声を落とした。
「牛山さんの後継としては、以前から木村さんが本命視されていた。その次に2人ほど名前が挙がっていたが、村田さんではなかった」
「村田さんは、切れ者だという評判だったんですよね」
「ああ。政策には明るいし、話もできる。ただ、派閥の中では若すぎた。古参の議員を差し置いて町長候補にするほどの基盤もなかった」
グリフは頷いた。
「つまり、牛山派にとって村田さんは、敗戦処理に近い候補だった」
「そこまで言うと厳しいが……」
「選挙に勝った今でも、本命候補へつなぐための町長だと思われている可能性がある」
敏夫はすぐには否定しなかった。
「普通に4年間を過ごしたら、次は木村さんを出す。そういう考えですか」
「その可能性はある」
「牛山派が次の町長選で別の候補を立てれば、村田さんが単独で勝つのは難しいですよね」
「この町では、まだ組織票の力が強いからな」
敏夫は渋い顔をした。
「町長になったことで浮動票は集められるかもしれない。しかし、牛山派の支援を失ったうえで、武藤派と牛山派の双方を相手にするのは厳しい」
「失点が続けば、町議会でも孤立する」
「そうだ。予算も条例も思うように通せなくなる。すぐ辞任という話にはならなくても、『次は推せない』という空気は強くなるだろう」
「ですよね」
グリフは、机の上の資料へ目を落とした。
*
「何が言いたいんだ」
敏夫が促す。
グリフは顔を上げた。
「桶狭間です」
「……桶狭間?」
敏夫の表情に困惑が浮かぶ。
「この住民投票案は、もともと奇襲なんです」
「普通の自治体の長なら、進んで選ばない方法だと思います。手間も費用もかかる。失敗すれば、責任逃れだと批判される」
「それは、具体的に調べるほどよく分かった」
敏夫は資料を指で叩いた。
「合理的に考えれば、避けたい方法だ」
「でも、合理的な選択をすれば、必ず成功するわけではありません」
「それで桶狭間か」
「はい」
グリフは少し身を乗り出した。
「合理的に考えれば、あの時の信長は今川家へ従う方が安全だったはずです。僕なら、たぶんそうします」
「今川の傘下へ入り、家中で出世する道を探すのか」
「そうです。尾張を守りながら、今川家の中で勢力を伸ばす。そちらの方が、生き残る可能性は高い」
敏夫が苦笑した。
「ずいぶん堅実な信長だな」
グリフも少し笑った。
「でも、信長は戦う方を選んだ。何の準備もなく賭けたわけではなく、地形や天候、今川軍の位置を調べて勝ち筋を作っていたのでしょう。それでも、危険な勝負には違いありません」
「その危険な勝負に勝ったから、後の躍進があった」
「今回も似ています」
グリフは資料の最後に記した、政治的損失の項目を開いた。
「住民投票が成功すれば、メガソーラー問題を決着させるだけでは終わりません」
「村田さんが各地区を回り、町民へ直接説明する。住民の意見を聞き、事業者や県と交渉し、最後には住民の選択を政策へ反映する」
「町長の仕事を、町民が目の前で見ることになる」
敏夫は黙って聞いていた。
「今の村田さんは、選挙では若さを期待されて勝ちました。でも、町長として何ができるのかは、まだ誰も知りません」
「この問題を自分の力で解決すれば、村田さん個人の実績になる」
「そうです」
グリフは続けた。
「人気が高まれば、1年半後の町議選挙では、村田さんの応援を求める候補者が出てきます」
「村田さんに応援してもらえば票になる。村田さんの政策へ協力すれば、自分の選挙でも成果として語れる」
「そうなれば、村田さんに恩を感じる議員が増えるということか」
「はい。村田さんに近い議員が多数になれば、予算や条例も通しやすくなる」
「政策が実現すれば、さらに実績が増える。実績が人気につながり、その人気が次の選挙で新しい議員を呼び込む」
グリフは、指先で円を描いた。
「この循環ができれば、牛山派の重鎮たちが次の町長候補を別に立てるのは難しくなります」
「人気のある現職を引きずり下ろせば、派閥の都合で町長を交代させる悪役に見える」
「そうです。村田さん自身のグループができれば、次の町長選でも牛山さんの許可を得る必要がなくなる」
敏夫は考え込んだ。
「少し楽観的すぎないか」
「もちろん、住民投票を1回成功させただけで、そこまでうまくいくとは限りません」
グリフは素直に認めた。
「ただ、普通に町長をやっていても、村田さんは牛山派の本命にはなれない。いずれ交代させられる可能性が高い」
「なら、一度くらい大きな勝負に出る理由はあると思います」
「失敗すれば、反対に町長としての寿命を縮めるぞ」
「そこは、春子さんを少し見習った方がいいですよ」
「春子を?」
「成功したときのことだけ考えて、先に工場を広げようとするでしょう」
「それは見習ってはいけない部分だ」
敏夫が即座に言った。
グリフは苦い表情を浮かべた。
「まあ、敏夫さんは守りの人ですからね」
「そう言うがな」
敏夫は少し身を乗り出した。
「村田さんも、基本的には私と同じ側の人間だと思う。危険を承知で飛び込むより、失敗しない道を選ぶ」
「直人君が今の調子で桶狭間だ、人気町長だと話したら、警戒されて逆効果になるぞ」
「それは分かっています」
グリフも苦笑した。
「村田さんを説得するなら、敏夫さんの方が向いています」
「直人君は、村田さんと相性が悪いのか」
「悪いとまでは言いませんけど……」
グリフは、地域活性化推進委員会での村田の姿を思い出した。
進行は速く、質問も的確だった。
事務局へ出す指示にも迷いがない。
有能なのは間違いない。
「少し上から人を見るところがある気がします」
「村田さんが?」
「言葉遣いは丁寧です。でも、年上の役場職員へ指示するときの態度が少し気になりました」
「相手の話を聞いているようで、頭の中では最初から取捨選択しているというか」
「それは、町長なら必要な部分もあるだろう」
「そうなんですけどね。たぶん僕が話すと、こちらも反発して余計なことを言います」
敏夫は納得したような、していないような顔をした。
「私には丁寧に接してくれるが」
「それは敏夫さんが年長で、選挙の功労者だからでしょう」
*
そこでグリフは、もう一つ思いついたことを口にした。
「それから、我々が村田さんの味方だということを、最初に伝えた方がいいかもしれません」
「どういう意味だ」
「敏夫さんと村田さんは、町の政治の中では、立場が似ています」
「私が村田さんと?」
敏夫は意外そうだった。
「はい。2人とも、今の派閥の中心にはいない」
グリフは慎重に言葉を選んだ。
「村田さんは町長ですが、牛山派では非主流です。つなぎとして扱われている可能性がある」
「敏夫さんは武藤派を離れた。でも牛山派から見れば、まだ外様です」
「町長選で活躍したことで、いろいろ相談されるようにはなったでしょう。でも、完全に仲間として信用されているかは分かりません」
敏夫は複雑そうな顔をした。
「きついことを言うなあ」
「申し訳ありません」
グリフは頭を下げた。
「でも、構造的には運命共同体に近いと思うんです」
「村田さんの政治基盤が強くなれば、敏夫さんの立場も強くなる」
「反対に村田さんが失敗して牛山派の重鎮に見限られれば、村田さんを推した敏夫さんも責任を問われる」
敏夫は否定しなかった。
グリフは続ける。
「村田さんは、どうして敏夫さんがこれほど危険な案を持ってきたのか、疑うと思います」
「私に裏があると?」
「はい。自分を目立たせて、次の町議選を有利にしたいのか。失敗させて別の候補を担ぎたいのか。藤樹堂や僕らの事業に何か利益があるのか」
「村田さんくらい頭のいい人なら、疑う理由はいくらでも思いつくでしょう」
敏夫の表情が、少し険しくなった。
「一度疑われたら、案の中身以前の問題になります」
「どれだけ合理的な説明をしても、裏の目的を隠すための理屈だと思われる」
「だから、最初に理屈を話すのではなく、藤田敏夫という人間を信用してもらう必要がある」
敏夫は黙ってグリフを見た。
「結局、人からの助言は、内容だけで決まらないと思うんです」
「誰が言ったのか。その人が自分を助けようとしているのか。それが大きい」
「なるほどな」
敏夫は腕を組み直した。
「私は村田さんの敵ではない。村田さんが町長として成功することが、私自身にとっても必要だと伝えるわけか」
「はい」
「そのうえで、この案が危険なのは分かっている。でも、普通にしていれば次はないかもしれない、と話す」
「それなら、桶狭間よりは伝わると思います」
「桶狭間は使わない方がいいか」
「信長の話は、食いつきがよければ途中で出してください」
敏夫は小さく笑った。
グリフも少し表情を緩めた。
*
「ちなみに、本当に敏夫さんが孤立しているとは思ってませんよ」
「今さら慰めるのか」
「ほかの議員からも信頼されていると思います。人柄がいいですから」
グリフは指を折りながら続けた。
「優しいですし、話をきちんと聞いてくれます。藤樹堂の皆さんも慕っています」
少し間を置き、笑いながら付け加える。
「僕も慕っています」
敏夫は露骨に嫌そうな顔をした。
「最後の一言は、なんだか気持ちが悪いな」
「ひどいですね」
「だが、言いたいことは分かった」
敏夫は机の上の資料を封筒へ入れた。
「村田さんが、この案を採用した方が得だと説明するだけでは足りない」
「私がなぜこの話を持ってきたのか。最初にそこを伝えなければならないということだな」
「はい」
グリフは頷いた。
「いろいろ言ってしまって、すみません。少し出すぎました」
「いや」
敏夫は首を横に振った。
「ここまで言われて、腹を立てるほど子どもではないよ」
そう言って立ち上がる。
「補足したいことは、それだけかな」
「はい。あとは、住民投票案を無理に押しつけないことくらいです」
「案を断られても、村田さんの判断を尊重すると」
「その方が、かえって真剣に考えてくれると思います」
敏夫はコートを手に取った。
「分かった」
そして、いつになく力を込めて言った。
「とにかく、私なりに全力でぶつかってみる」
普段の敏夫なら、「できるだけ丁寧に話してみる」くらいの表現を選ぶだろう。
その敏夫が、「全力でぶつかる」と言った。
グリフは少し驚いたが、何も言わなかった。
敏夫は封筒を抱え、事務所を出ていく。
階段を下りる足音が遠ざかっていった。
グリフは1人になった打ち合わせテーブルで、敏夫が座っていた椅子を見つめた。
住民投票案が採用されるかどうか。
それはもう、理屈だけで決まる問題ではなかった。
村田が敏夫を信じるか。
そして敏夫が、村田に自分の本心を伝えられるか。
次の勝負は、政策ではなく、人間同士の間で始まろうとしていた。




