止められない計画
役場を出たグリフは、そのまま藤樹堂へ向かった。
ワルン・クラサワの仕込みは、すでにジョコと加藤へ任せても問題なくなっている。
以前なら、会議の最中も店のことが気になっていた。
だが今では、自分が数時間離れた程度で営業が止まることはない。
それも、藤樹堂へ入ったことで得た変化の一つだった。
事務所へ入ると、敏夫が打ち合わせ用のテーブルで待っていた。
グリフの顔を見るなり尋ねる。
「どうだった」
「最初は緊張しましたけど、思ったより進めやすかったです」
グリフはコートを脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
「事前に意見を聞いて、全部資料にまとめてありました。自己紹介と自慢話だけで終わる委員会ではなかったですね」
敏夫は笑った。
「村田さんらしいな。選挙のときも、無駄な会合を嫌っていただろう」
「部会に分けて、3月には最初の提言をまとめるそうです」
「それなら、技能実習生の件も予定より早く進むかもしれないな」
「農協の倉林さんが隣の席でした。外国人材についても調べていたようです」
敏夫は満足そうに頷いた。
「席順も、村田さんか事務局が考えたんだろう」
「たぶん。俺の話のあとに、倉林さんが農業の人手不足を説明する流れになっていました」
「うまく道を作ってくれたわけだ」
「まだ入口ですよ。部会で他の委員を説得しないといけません」
「入口ができただけでも十分だ」
敏夫はそう言ったあと、少し言いにくそうに目をそらした。
「それより、別件で困ったことがある」
グリフは動きを止めた。
「またですか」
「相談に乗ってくれるか」
――もう、困りごとは腹いっぱいなんだけどな。
町長選挙。
ルンザットからの人材受け入れ。
藤樹堂への加入。
地域活性化推進委員会。
ようやく一つずつ片づき始めたと思えば、すぐに次がやってくる。
グリフは小さく息を吐き、打ち合わせ用の椅子へ腰を下ろした。
「聞くだけ聞きます」
「助かるよ」
敏夫はそう言いながら、机の上に1枚の書類を置いた。
その表情を見る限り、軽い相談ではなさそうだった。
*
「太陽光発電のことなんだ」
敏夫は物憂げに言った。
いつもの落ち着いた口調ではあったが、声にわずかな疲れがにじんでいる。
「太陽光発電ですか」
グリフは、打ち合わせ用の椅子へ深く腰を下ろした。
「あれは、もう片づいたつもりでいました。選挙で住民の意思は出たじゃないですか」
村田は、メガソーラー計画の見直しを公約に掲げて当選した。
しかも僅差ではあったが、現職の武藤を破ったのである。
少なくとも政治的には、結論が出たものだと考えていた。
敏夫は首を横に振った。
「そう簡単にはいかないんだよ」
「県からは、すでに開発許可が下りている。一度出した許可をひっくり返すには、それなりの法的な理由が必要になる」
敏夫は机の上へ厚い封筒を置いた。
「事業者は許可を前提に土地を押さえ、設備を発注し、資金調達も進めている。行政の都合で止めれば、大きな不利益を与えることになる」
「県も簡単には動けない、ということですか」
「そういうことだ」
グリフは少し考えた。
「許可条件に、地元住民の理解を得ること、というような条項は入っていなかったんですか」
「マンションや大きな施設の建設でも、周辺住民へ説明するという条件はつきますよね」
「あるにはある」
敏夫は封筒から1枚の紙を取り出した。
県が交付した林地開発許可書の写しだった。
余白には、敏夫か役場職員が書き込んだらしい付箋がいくつも貼られている。
敏夫は、その中の1項を指で示した。
『事業の実施に当たっては、倉沢町及び地元関係者と十分に協議するとともに、周辺住民に対して事業内容及び防災対策を説明し、その理解を得るよう努めること。』
グリフは顔を近づけ、2度読み返した。
「うーん……」
指先で最後の一文をなぞる。
「語尾が微妙ですね」
「そうなんだ」
敏夫はため息をついた。
「『理解を得ること』ではなく、『理解を得るよう努めること』だ」
「努力義務ですか」
「少なくとも、住民が反対したら自動的に許可が失効するような条件ではない」
しかも事業者は、すでに一度、住民説明会を開いていた。
開催を知らせる回覧は出されていたが、参加者は多くなかったという。自治会長や土地の隣接者にも個別に説明し、当時は大きな反対を受けなかったという記録まで残っている。
「住民説明会を開いたという実績はあるわけですね」
「そうだ。内容が十分だったかどうかは別として、事業者側は『必要な説明はした』と主張している」
「自治会長も、当時は了承した形になっているんですか」
「少なくとも、強い反対は表明していない」
敏夫は苦々しそうに付け加えた。
「今になって町全体で反対だと言っても、事業者からすれば、話が違うということになる」
グリフは許可書から目を離した。
「町から事業者を説得して、自主的に撤退してもらうことはできないんですか」
「もちろん、その選択肢はある」
「村田さんや役場も、水面下では交渉を始めていると思う」
敏夫はそこで言葉を選んだ。
「ただ、撤退を求める以上、事業者がこれまで負担した費用をどうするかという話になる」
「町が補償するんですか」
「町が直接、損失を補償できるかは簡単ではない。町には事業を止める権限があるわけではないからね」
敏夫は別の資料を取り出した。
計画地の地番、所有者、面積、評価額などが書かれている。
「現実的な案として出ているのは、町か町の関係団体が土地を買い取り、里山保全や観光整備に使う方法だ」
「土地の買い取りですか」
「土地だけでは済まないだろう。地上権や賃借権、調査費、設計費、すでに発注した設備のキャンセル費用もある」
敏夫は指先で資料を軽く叩いた。
「実質的には、事業から撤退してもらうための解決金に近い。ただし、町が支払う以上、名目だけ解決金というわけにはいかない」
「公共目的の土地取得として、金額にも説明がつかなければならない」
「適正価格を超えて買えば、今度は町長が事業者へ利益を与えたと批判される」
グリフは眉をひそめた。
「面倒ですね」
「行政だからね」
敏夫が乾いた笑いを浮かべる。
「私が聞いている範囲では、事業者側が求めている金額は数千万円だ。ただ、設備の発注状況や将来得られるはずだった利益まで持ち出せば、1億円以上を要求してくる可能性もある」
「そんなにですか」
「交渉だから、最初は高く出る」
「着工してしまえば、さらに金額が膨らむ?」
「造成費や工事契約まで加わる。今より確実に難しくなるだろう」
「着工予定は4月でしたよね」
「ああ」
敏夫は壁のカレンダーへ目を向けた。
1月も、すでに半ばを過ぎている。
「だから村田さんも、3月までに方向を決めたがっている」
「ただし、町が数千万円を支出するなら、新年度予算か補正予算に計上しなければならない」
「最終的には議会の承認が必要になる」
グリフにも、その先は分かった。
「今の町議会は、まだ武藤派が多数ですね」
「そういうことだ」
選挙で町長が交代しても、議会の構成は変わっていない。
武藤を支えてきた議員たちが、村田の公約を実現するための土地取得に賛成するとは限らない。
むしろ、高額な税金を使って民間事業を止めるのか、と追及するだろう。
「県には働きかけているんですか」
グリフが尋ねた。
「県としても、地元自治体や住民が反対している事業を、そのまま強行する形になるのは避けたいでしょう」
「圧力をかける、とまでは言えない」
敏夫は慎重に訂正した。
「県からも事業者へ、町ともう一度十分に協議するよう説得してもらっている」
「ただ、県が許可を出した以上、法令違反もない事業者に撤退を命じることはできない」
「向こうも慈善事業ではない。投資した金を回収しなければならないからね」
「許可申請の内容に不備はないんですか」
グリフは許可書を手に取り直した。
「例えば、下流域への排水の影響が十分調査されていないとか、水源が見落とされているとか」
「それも役場と県で調べ直した」
敏夫は即答した。
「今のところ、許可を取り消せるほどの不備は見つかっていない」
「防災計画も?」
「書類上は基準を満たしている」
「景観については」
「世界遺産の構成資産から直接見える場所ではない、というのが事業者側の主張だ。特定の撮影地点からは見えるが、それだけで違法とは言えない」
グリフは腕を組んだ。
「まずいですね」
「まずい」
敏夫も否定しなかった。
「このまま4月に着工されれば、村田さんは就任から半年もたたないうちに、公約を破ったと言われかねない」
「町長には止める権限がなかった、と説明しても、住民は納得しないでしょうね」
「選挙では、止めると言ったからな」
「正確には見直す、だったと思いますけど」
「選挙の言葉は、聞く側の都合のいい形で記憶される」
敏夫は椅子の背へ体を預けた。
*
「それだけじゃない」
「まだあるんですか」
「牛山派の重鎮にも、事業者側から働きかけが入っている」
グリフは顔を上げた。
「村田さんを立てた側ですよね」
「その牛山派だ」
「県の許可が出ている以上、無理に止めれば町が損をする。税金を使って事業者へ金を払うのはおかしい。再生可能エネルギーは国の方針にも合っている」
敏夫は、彼らが使っているという理屈を並べた。
「それ自体、間違った話ではない」
「何人かは、すでに推進へ傾いている。村田さんに対して、公約の表現を柔らかくして、条件付きで建設を認めるよう説得しているそうだ」
「牛山さん本人は?」
「今のところ態度を明らかにしていない」
それが最も厄介だった。
牛山が明確に反対すれば、古い支持者は従う。
だが沈黙している間は、それぞれが事業者との関係や自分の利益を考えて動くことができる。
「県議にも話が回っているらしい」
敏夫は声を落とした。
「事業者は、県と町の両側から包囲しようとしている」
その話を聞いた瞬間、なぜかグリフの頭にアリの顔が浮かんだ。
――なかなかやってくるな、アリ。
もちろん、証拠は何もない。
アリは中国メーカーと日本の事業者を仲介する商社の社員にすぎないと言っていた。
議員への働きかけも、企業が事業を守るために行う通常の交渉かもしれない。
それでも、この動きの背後にアリ――いや、中国名では劉志遠だったか――がいるように思えた。
駅前で再会したときの言葉がよみがえる。
『選挙結果がどう転んでも、成果だけは出す』
あのときのアリは、妙に自信があった。
武藤が負ける可能性も考えたうえで、別の手を用意していたのだろうか。
――どうするんだ、グリフ。
遠くからそう挑発されているような気がした。
負けたくない。
その感情が先に立った。
政治家同士の交渉で、自分がアリに勝てるとは思えない。
役所や議会を正面から動かす力もない。
だからといって、何もしないまま事業が始まるのを見ているつもりもなかった。
「敏夫さん」
「何か思いついたか」
敏夫がグリフの表情を見た。
「どうだろう」
少し迷ったあと、敏夫は続けた。
「正直に言えば、俺には手詰まりに見える」
グリフは、わずかに目を見開いた。
敏夫が自分のことを「俺」と言った。
普段は家族の前でも「私」を使う人である。
よほど追い詰められているのだろう。
グリフは、机の上の資料を自分の前へ引き寄せた。
「いったん整理します」
許可書の裏へ、3つの項目を書いた。
「まず、村田さんは、建設を止められなければ公約違反と見られて政治的に困る」
「そうだ」
「事業者は、発電所を建設できなければ、投資を回収できず経営上困る」
「そのとおり」
「では、町そのものは何に困るのか」
敏夫が少し考えた。
グリフは自分で続きを話した。
「僕らが選挙で問題にしたのは、世界遺産や景観への影響、里山の荒廃、それから防災面でした」
「そして代案として、里山を保全し、観光資源として利用する構想を出した」
「そうだな」
「つまり、町の目的は、必ずしも事業者を町から追い出すことではない」
敏夫がグリフを見る。
「何を考えている?」
「まだ、形にはなっていません」
グリフはペンを置いた。
「ただ、ルンザットで似たような調整をしたことがあります」
「ゲリラとの件か」
「それとは別です。村の有力者同士で利害が対立して、どちらかを切れば争いになるような状況でした」
グリフは当時のことを思い出した。
一方を勝たせ、もう一方を敗者にすれば、恨みだけが残る。
そのため、対立している問題そのものを別の形へ組み替えた。
「相手を説得して諦めさせるのではなく、相手が別の方法で目的を達成できるようにする」
「今回も、それができないかと思っています」
敏夫はすぐには答えなかった。
「事業者に、別の場所で発電所を造らせるということか」
「それも選択肢の一つです。でも、もっと広く考えたい」
「事業者が必要としているのは、熊田の土地そのものではなく、投資に見合う事業ですよね」
「町が守りたいのは、熊田の景観と里山です」
「両方を満たす交換条件が見つかれば、撤退ではなく、計画変更として話ができるかもしれない」
敏夫の目に、わずかに光が戻った。
「何か当てがあるのか」
「まだありません」
「ないのか」
「だから、これから探します」
グリフは立ち上がった。
「少し動いてみたいんですが、今の僕は町の飲食店経営者で、委員会の一委員にすぎません」
敏夫が顔を上げる。
「私の名前を使いたい?」
「はい。藤田町議の政策スタッフとして、話を聞いて回る形にできませんか」
敏夫はすぐに頷いた。
「私設の政策スタッフなら問題ない。名刺くらい用意するよ」
「助かります」
「ただし、勝手な約束はしないこと」
「もちろんです。まずは話を聞くだけです」
グリフは数枚の資料を借り、事務所を出た。
いきなり事業者と交渉するつもりはなかった。
その前に、町の人間が何を考え、誰が何を望んでいるのかを知りたかった。
――久しぶりに、飲み歩いてみるか。
選挙前にも、居酒屋やスナックで町の本音を拾った。
会議室では出ない話も、酒の席では案外簡単に出る。
それから数日、グリフは町を歩き回った。
商店街の店主。
農家。
建設業者。
自治会の関係者。
話が通じにくい相手には、敏夫から渡された名刺を見せた。
『藤田敏夫町議 政策スタッフ 田辺直人』
それだけで態度が変わる者もいた。
自分への信用ではない。
敏夫と「町議」という肩書きへの信用だ。
――ルンザットとは違うな。
島なら、ほとんどの住民と直接話せた。
だが倉沢には1万人以上いる。
同じ町に住んでいても、地区が違えば顔も名前も知らない。
一つの町を知るというのは、思った以上に骨が折れた。
意外だったのは、メガソーラーへの関心がすでに薄れていたことだった。
選挙では大きな争点の一つだった。
それでも数か月たつと、「そういえば、そんな話もあったな」という反応が多い。
村田へ投票した理由もさまざまだった。
若さへの期待。
武藤が長く続いたから、そろそろ交代してもいいと思った。
昔から牛山派だから。
昔から武藤派だから。
グリフが聞いた限りでは、メガソーラーだけを理由に投票した者は多くなかった。
――これだけで勝ったわけじゃない。
だが、これがなければ勝てなかったかもしれない。




