第七話 ローゼ:戻る義務はありません
最初に来たのは、手紙だった。
父の字で、一行だけ書いてあった。
一度、話がしたい。
私はそれを二度読んで、机の引き出しに入れた。返事は書かなかった。書くことがなかったからである。
次に来たのは、王都の親戚だった。
母の従兄にあたる方で、子どもの頃に一度だけ会っている。侯爵邸の応接室で、その方は一時間ほど話し続けた。
家というものは、代々続けるためにあるのです。ユリアは要領が悪いだけで、悪気はない。子爵も反省しておられる。あなたも侯爵夫人になられたのだから、少しは実家に目を向けても罰は当たらない。
私は最後まで聞いてから、こう申し上げた。
「私は、実家に目を向けていました。三年間、毎週」
「ですから、それを続けていただければ」
「続けないことにしたのです」
その方は、心底不思議そうな顔をした。
「なぜです」
理由を三つ並べようとして、やめた。並べたところで、この方が持ち帰るのは「機嫌が悪いようです」の一言だと分かったからである。
「お茶をもう一杯いかがですか」
「……いや、結構」
その方は帰っていった。
三度目は、本人たちが来た。
その日、薬院には視察が入っていた。王立薬院の本院から、二人。半年後に再審査を控えた薬房が方々にあるので、比較のために模範例を見に来たのだという。
つまり、私は模範例のほうにいた。
乾燥室で職人に指示を出しているとき、門のあたりが騒がしくなった。
「奥様。門に、バルドー子爵家の方が」
ノエルが息を切らして来た。
「お約束はないのですが、お引き取りいただけないと」
「通してください」
「よろしいのですか」
「一度で済ませたいので」
私は手を洗い、前掛けを外さずに前庭へ出た。
父と姉が立っていた。
父は少し痩せていた。姉は薄い色のドレスで、髪をきつくまとめている。婚約祝いの日と同じ人には見えなかった。
前庭には人がいた。乾燥室から出てきた職人が四人、荷を運んでいた使用人が二人、それから、離れた場所に王立薬院の視察官が二人。
追い払うこともできた。
私はそうしなかった。
「ローゼ」
父が一歩出た。
「元気そうだな」
「はい。お父様も」
「……話を、聞いてくれるか」
「伺います」
父は懐から書付を取り出した。上等な紙で、封蝋まで押してある。
「薬房の共同経営権だ。ユリアと二人、対等の権限とする。処方の全権はお前に渡す。名義も、正式に登記する」
私は書付を見た。
受け取らなかった。
「もう一つある」
父は続けた。
「三年分の給金を計算した。相場の調薬師の年俸で換算し、利息をつけてある。これも渡す」
「お心遣いに感謝いたします」
「では」
「お受けできません」
父の手が止まった。
前庭が静かになった。職人たちは荷を降ろしたまま動かない。視察官の二人が、こちらを見ている。
私は息を吸った。
乾燥室の端まで届く大きさで、声を出した。
「お父様が差し出しておいでなのは、席です」
自分の声が、前庭の端まで届くのが分かった。
「共同経営権も、給金も、これから先の話です。私が返していただきたかったのは、名前でした」
「……名前」
「三年分の控えの、隅にある名前です。あれを表に出すことは、もうできません。処方箋は出した時点で終わっています。書き直せません」
父は書付を持ったまま立っていた。
「過去は、返っていただけないのです。だから、これからの話をされても、私には受け取るところがありません」
姉が、一歩前に出た。
「ローゼ」
「はい」
「ごめんなさい」
姉はそう言った。
まっすぐに、はっきりと。九年帳場に立ってきた人の、通る声だった。
「私は、あなたが清書をしていると思っていました。三年間、一度も控えの原本を見なかった。見れば分かることでした。見なかったのは、見たくなかったからだと思います」
「姉さん」
「だから、ごめんなさい。本当に」
謝罪としては、たぶん、非の打ちどころがなかった。
私は姉の顔を見ていた。
そして、待った。
そのあとに続く言葉を待った。
あれはあなたの仕事だった、という一言を。
姉は続けた。
「だから、戻ってきて。二人でやりましょう。私は帳場をやる。あなたは処方を書けばいい。それが一番いい形だと思うの」
私は目を閉じた。
一番いい形。
それは本当だと思う。姉は客の話を聞き出すのが上手い。誰も父にも職人頭にも言わないことを、姉には話す。あの帳場があったから、体質台帳は成り立った。私が三年間頭に入れていたものの半分は、姉が集めたものだ。
私たちは、組めば強い姉妹だった。
「姉さん。一つだけ伺います」
「なあに」
「二人でやったとして、処方箋には誰の名前を書きますか」
姉が黙った。
その間の長さを、私はまた数えた。
婚約祝いの席で、ギルベルト様に褒められたときと、同じ長さだった。
「……それは、これから決めれば」
「決まっていないのですね」
私は目を開けた。
「一緒にやれたはずでした。私もそう思います。でも、そのためには、私の名前が要ったのです。三年前から、ずっと」
姉は何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。姉の中では、あの処方はまだ、半分は自分のものなのだ。悪意ではない。九年かけて作られた、そういう形の記憶である。
父が、書付を下ろした。
「ローゼ。……お前は、この家を潰す気か」
言ってから、父は自分の言葉に気づいたようだった。
私は首を横に振った。
「潰しません。私は何もしていませんので」
これは事実だった。
「私は書くのをやめただけです。それで薬房が回らなくなったのなら、回していたものが何だったかという話です。私が潰すのではありません」
「……」
「半年後の再審査には、体質台帳が要ります。あれは私の頭の中にありますが、書き写して差し上げることはできます」
父が顔を上げた。
「書いて、くださるのか」
「患者さんの話ですので」
私は姉のほうを見た。
「姉さん。台帳の元になったのは、姉さんが帳場で聞いた話です。半分は姉さんのものです。書き写す作業は、二人でやりましょう。三日いただければ終わります」
姉の目が、初めて揺れた。
「……それは、戻ってくれるということ」
「いいえ」
私は言った。
「仕事です。報酬をいただきます」
そのとき、父が最後の一言を言った。
たぶん、追い詰められたからだと思う。
「一年で離縁される娘を、どこがもらうと思っている」
前庭の空気が、はっきりと変わった。
職人の一人が手にしていた木箱を、音を立てて置いた。
私は父を見た。
腹は立たなかった。ただ、この人はまだ、私が行く先を心配することでしか私に触れられないのだと思った。三年前、私の提案を三秒で承知したときから、何も変わっていない。
背後で、砂利を踏む音がした。
セヴラン様が来ていた。
いつから立っていたのかは分からない。
セヴラン様は父の前まで来て、一度だけ礼をした。
そして、こちらを見た。
何も言わなかった。
私の隣に立って、それきり黙っていた。
代わりに答えることも、父を叱ることも、離縁の話を否定することもしなかった。
私は少し驚いて、それから、この人はこういう人だったと思い出した。
「侯爵閣下」
父が言った。
「これは妻の契約です」
セヴラン様は答えた。
「私は同席しているだけです」
父はそれ以上、何も言えなかった。
三日後、姉が薬院に来た。
紙の束と、筆記具を持って。
私たちは三日かけて、体質台帳を書き写した。四百七十二人分ある。姉が客の名前を読み上げ、私がその人の去年と一昨年を口述し、二人で書いた。
三日目の夕方、最後の一枚を書き終えたとき、姉は言った。
「ローゼ。あなた、これを全部、頭に入れていたのね」
「はい」
「……すごいわね」
すごいわね、と姉は言った。
あれはあなたの仕事だった、とは、最後まで言わなかった。
たぶん、一生言えないのだと思う。
私は報酬の請求書を書いて、姉に渡した。
金貨二枚である。相場より少し高い。
姉は請求書を見て、少し笑って、財布を出した。
門まで送っていくと、姉は振り返らずに馬車に乗った。
帰り道、離れの前でセヴラン様が待っていた。
「終わったか」
「終わりました」
「疲れた顔をしている」
「三日で四百七十二人分を思い出しました。少しは疲れます」
セヴラン様は少し黙ってから、こう言った。
「前庭のことだが」
「はい」
「私は、あなたより先に口を開きかけた」
「……気づきませんでした」
「あれはあなたの契約だった。すまなかった」
私はその場に立ち止まった。
この人は、言わなかったことを謝る。言ったことではなく、言いかけたことを。
三年間、私に何かを謝った人間は一人もいなかった。
「セヴラン様」
「なんだ」
私は何かを言おうとして、いつものように、声を落としかけた。
落とす前に、この人が言った。
「今、何を言おうとしましたか」
私は息を吸って、言った。
「家族なのだから、と父は言いました」
「聞いた」
「私は、その言葉を三年前に使い切っていました」
言ってしまうと、思っていたより短い一文だった。
三年分が、それだけの長さだったことに、少し驚いた。




