第八話 ローゼ:私の名を呼ぶ人
王立薬院からの通知が届いたのは、秋の初めだった。
産み月の近い方への処方を、本院の標準として採用する。全国十九の薬院に配布し、来春から用いる。
その一枚に、発案者の名前を記載するという。
ギルベルト様が通知を持ってきて、机の上に置いた。
「本院の標準処方に、個人名が入るのは十一年ぶりです」
「……そうなのですか」
「普通は薬院の名で出ます。名前を入れるかどうかは、発案者の希望によります」
私は通知を見た。
書類の下のほうに、空欄がある。掲載名を記入する欄だ。
「三年前に書いたものです。実家で」
「存じております」
ギルベルト様は眼鏡を押し上げた。
「バルドー薬房の控えを、再審査の際に拝見しました。三年前の原本には、配合を組み直した跡が残っております。組み直した字と、隅の確認済みの字が同じでした」
「……ご覧になったのですか」
「五千枚のうち、八百枚ほど。同じ字でしたので、途中でやめました」
「はい」
「あの日、私はバルドー嬢に、どなたの発案かと伺いました」
私は顔を上げた。
ギルベルト様は、少し困ったような顔をしていた。
「あのとき、私は褒めたつもりでおりました。今にして思えば、あの問いは、答える方の首を絞めておりました」
「姉のことでしたら」
「いえ。あなたのことです。あなたはあの場におられた」
私は何も言えなかった。
あの席で私が立っていたことを、この人は覚えている。
「掲載名は、ご自由に。薬院の名でも構いませんし、旧姓でも」
私は羽根ペンを取った。
しばらく空欄を見ていた。
三年前の冬、あの処方を四日かけて組んだ。指先が凍えて、羽根ペンを三度落とした。書き上げたとき、私は一人だった。
その一枚が、来春から十九の薬院に配られる。
私は書いた。
ローゼ・アシュフォード。
書いてから、少し考えて、その下に一行足した。
『体質記録の聴取 ユリア・バルドー』
ギルベルト様が、その行を見て、眉を上げた。
「よろしいので」
「事実ですので」
事実である。私が四日かけて組めたのは、ラフォン夫人がいつからどう痛むかを、姉が帳場で聞き出していたからだ。
姉の名前が入るべき場所に、姉の名前を入れる。
それだけのことだった。それだけのことが、三年間できなかったのだ。誰の名前も入らない紙の上では、誰の仕事も存在しないことになる。
その週、バルドー薬房の再審査が通ったという知らせが来た。
条件付きだという。王立薬院への納入は再開されず、当面は王都の一区画への小売のみ。職人頭のマルクが調薬の責任者になり、姉は帳場と体質記録を担当することになった。
姉が調薬から外れたのだと、私は理解した。
外したのは父ではなく、姉自身だという。マルクからの短い手紙にそう書いてあった。
『ユリア様は、下から学び直すと申されました。ローゼ様の写しを教本にしておいでです』
私はその手紙を、机の引き出しに入れた。
返事は書かなかった。
いつか書くかもしれないし、書かないかもしれない。決めなくていいことを決めなくていいというのは、たぶん、私が三年ぶりに手にしたものの一つだった。
離れの裏の畝では、二度目の収穫が終わっていた。
薬草は、思ったよりよく育った。土が良かったのだと思う。
木札を抜いて数えていると、背後に人が立った。
「四日ごとだったな」
「三日ごとに変わりました。木札は書き直してあります」
「読んでいなかった」
セヴラン様は少し不服そうだった。この方が不服そうにするのは、私が知る限り、自分の落ち度についてだけである。
「セヴラン様」
「なんだ」
「爪を見せていただけますか」
差し出された手を取って、光にかざした。
半年前より、白くなくなっている。
「よろしいですね」
「それだけか」
「はい。医者ではありませんので、それ以上のことは申し上げません」
セヴラン様は手を引っ込めて、それから、上着の内側から書面を出した。
見覚えのある紙だった。
離縁の条項である。婚礼の日に、書斎で渡されたもの。
「期日が近い」
私は木札を持ったまま、その紙を見ていた。
一年である。あと、ひと月に満たない。
「……はい」
「その前に、話しておきたいことがある」
セヴラン様は畝の縁に腰を下ろした。私も隣に座った。土がついたが、どちらも気にしなかった。
「五年前に毒を盛られたとき、私は十年保つと言われた。自分では五年と見積もっていた」
「存じております」
「一年で離縁すると決めたのは、そのためだ。私が先に死んだとき、あなたが後家として侯爵家に残るのは、割の悪い話だと思った」
「合理的だと思います」
「そう思っていた」
セヴラン様は、しばらく畝の土を見ていた。
「先月、ギルベルトに聞いた。今の処方なら、二十年は問題ないそうだ」
私は息を止めた。
「……いつからです」
「二匁に戻した日から、と言われた」
風が吹いて、乾いた薬草の匂いがした。
「つまり、私はもう、五年で死ぬ男ではない」
「……はい」
「それで、分かったことがある」
セヴラン様はこちらを見た。
「私は身体のせいで一年と決めたのだと思っていた。だが、二十年と言われた日に、私が最初に考えたのは、あなたにどう伝えようかということだった。喜ばせようとか、驚かせようとかではない。言い訳が一つ減った、と思った」
「言い訳」
「誰かと二十年暮らすのは、恐ろしい。死ぬまで一年の男でいるほうが、よほど楽だ」
私は何も言えなかった。
この方が、自分をこういう言葉で説明するのを聞いたのは初めてだった。
「臆病の言い訳でした」
セヴラン様は、そう言った。
「あなたを見ていて分かった。あなたは三年、言い訳を一つも使わなかった。使う代わりに、諦めていた」
「……ひどい言い方をなさいますね」
「事実だ」
事実である。
私は膝の上で手を組んだ。
「セヴラン様。その書面を、こちらへ」
差し出された紙を受け取った。
第一条から第七条まで。王都の法務官が三日かけて作った、誰にとっても損の出ない、よくできた書面である。
私はそれを、真ん中から破いた。
音が思ったより大きくて、二人とも少し驚いた。
「……あなたが破るのか」
「はい」
「私が破るものだと思っていた」
「あなたが破ると、あなたが決めたことになります」
私はもう一度、細かく破いた。
「これは、私が決めたことにします」
その夜、書斎で新しい書面を作った。
インク壺と、便箋と、封蝋。
セヴラン様が第一条から順に読み上げ、私が書いた。住まいの規定は入れないことにした。第四条があのままだと、また誰かが二十秒で見つけるからである。
最後の条項を書き終えて、私は羽根ペンを置いた。
署名欄が二つある。
私は自分のほうに書いた。
ローゼ・アシュフォード。
半年前、差し戻しの用紙に初めて書いたときは、指が震えた。
今は震えなかった。
セヴラン様が、自分の欄に署名した。それから、隣に並んだ私の名前をしばらく見ていた。
「ローゼ」
名前を呼ばれた。
この方は、これまで一度も私を名前で呼んだことがない。あなた、としか呼ばなかった。
「……はい」
「あなたの名を呼べる人間が、この世に何人いるか、数えたことがありますか」
私は考えた。
実家には、いた。父も母も姉も、私をローゼと呼んだ。呼びながら、誰も私の名前を紙に書かなかった。呼ぶことと、書くことは、違う。
薬院にはいる。職人たちは奥様と呼び、ギルベルト様は夫人と呼ぶ。ノエルは奥様である。
紙の上で私の名前を扱った人間は、たぶん、この方だけだった。差し戻しの用紙を受け取って、署名欄で目を止めたあの日から。
「……一人です」
「では、増やしていいですか」
私は顔を上げた。
「増やす、とおっしゃいますと」
「そのままの意味だ。私は言葉の裏を作るのが下手だ」
「存じております」
私は笑った。
たぶん、この方の前で声を出して笑ったのは初めてだった。
「増やしてください」
「そうする」
セヴラン様は書面を脇へ置いて、私の手を取った。取ってから、どうしたものか迷っている手つきだった。処方の分量なら一匁の違いまで指示できる人が、こういうときだけ何も決められないらしい。
私はその手を、両手で包んだ。
「爪の色が、良くなりました」
「今それを言うのか」
「今しか言えません」
しばらくして、セヴラン様は空いたほうの手で書面に封蝋を落とした。少し斜めになった。
「傾いていますね」
「あなたのを真似た」
翌朝も、私は本邸に上がった。
盆の上には六つの瓶。琥珀色が三つ、乳白色が二つ、透明が一つ。
セヴラン様は席に着いて、私が上がるのを待っている。一年前と同じである。違うのは、朝食の皿が二人分あることだけだった。
「琥珀色の三番から、順に」
「知っている」
「存じております。私が言いたいだけです」
薬院に着くと、乾燥室の職人が声をかけてきた。
「ローゼ様。今日の分の差し戻し、三枚ございます」
奥様、ではなく、名前だった。
いつからそう呼ばれるようになったのか、私は思い出せない。たぶん、乾燥室に私の声が届くようになった頃だと思う。
「拝見します」
私は前掛けをつけ、机に向かった。
一枚目を読み、二枚目を読み、三枚目に赤を入れた。理由を三行添える。
窓の外で、丘を越えてくる馬の音がした。
この時間に来る人は一人しかいない。迎えは要らないと三度は言ったはずだが、あの方は自分の落ち度でないことについては、こちらの言い分をあまり聞かない。
私は筆を持ち直した。
差し戻しの用紙には、赤を入れた者の名を書く欄がある。
患者にも、書いた本人にも、誰が止めたのかを知らせるための欄だ。三年間、私が書いた処方箋には、この四角がなかった。
処方箋の隅に、ローゼ・アシュフォードと書いた。
姉の代わりに書いた三年分のどの一枚にも、なかった名前だった。




