表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉の代わりに処方を書くのをやめました ~白い結婚の夫だけが、私の名を知っています~  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/8

第六話 バルドー子爵:聞き分けのいい娘だと思っていた

年が明けて、王立薬院の更新審査の季節になった。


この審査は毎年、形式的なものだった。


過去一年の処方記録を提出し、抜き取りで数枚を検められ、判が押される。二十二年、一度も落ちたことがない。


今年も同じだと思っていた。


審査官が三人で来たと聞いたときに、少し引っかかった。例年は一人である。


「バルドー子爵。直近三月分の記録について、確認したい点があります」


「どうぞ」


「返品が十四件出ております。前年の同時期は二件です」


「季節の変わり目でして」


「季節で肺と胃と皮膚が同時に増えることは、通常ありません」


私は言葉に詰まった。


審査官は紙束を机に広げた。返品の記録である。私が帳場でざっと見て、多いな、と言って戻したあの記録だ。


「この、ラフォン夫人の件を伺います。八月目の妊婦に、五月目の配合をそのまま出しておられます」


「控えの通りに出しました」


「控えの通りに出すのが問題です」


審査官は淡々としていた。責めてもいなかった。それが余計に応えた。


「三年前から昨年末までの記録には、この種の誤りが一件もありません。全五千枚以上、一件もです。ところが今年に入って、急に出始めた。何か変わりましたか」


私は答えた。


「次女が嫁ぎました」


言ってから、自分でも妙なことを言ったと思った。


審査官の一人が顔を上げた。


「次女の方は、薬房でどのようなお仕事を」


「清書です」


そう答えたのは、そう思っていたからである。


三人は顔を見合わせた。


判は、押されなかった。


「王立薬院への納入は、来年度から一時停止といたします。半年後に再審査を行いますので、それまでに体制の見直しを」


年間納入契約は、薬房の売上の四割を占めていた。


その半月後に、公開調薬会があった。


王都の薬師が集まって、自分の代表的な処方を披露し、質疑を受ける催しである。ユリアは去年から呼ばれるようになり、今年は壇上に立つ番だった。


私は客席の前から三列目にいた。テオドール君と、彼の父君も一緒だった。


娘は落ち着いて見えた。薄青のドレスで、白い作業台の前に立ち、産み月の近い方への処方について話した。去年、ギルベルト薬院長に褒められたあの処方である。


説明は流暢だった。私は誇らしかったと思う。


質疑になった。


最初の質問は、乾燥の温度についてだった。ユリアは答えた。次は保存期間で、これも答えた。


三つ目に、ギルベルト薬院長が立ち上がった。


「この配合には、子宮を収縮させる働きのある根が入っております。微量ですから単体では問題ない。ですが、同じ患者が胃薬を併用していた場合、どうなさいますか」


会場が静かになった。


ユリアは、白い作業台に手を置いたまま動かなかった。


私はその横顔を見ていた。娘が何かを言おうとして、言葉を探しているのが分かった。九年、帳場で客の話を聞き続けてきた娘である。人と話すことに詰まる姿を、私は見たことがない。


十秒か、二十秒か。


もっと長かったかもしれない。


「……併用は、していないものと」


「していた場合を伺っております」


ユリアは、答えなかった。


ギルベルト薬院長は、しばらく待ってから、静かに言った。


「この処方を書いた方は、今日この場においでですか」


その問いの意味を、私はその場では理解しなかった。


理解しなかったのは、私と、たぶん娘だけだった。


会場を出るとき、テオドール君は私と目を合わせなかった。


三日後、婚約の解消を申し入れる書状が届いた。


理由は「仕入れ計画の見直しに伴い」とあった。


ユリアについての言及は、一行もなかった。


娘は書状を読んで、それを机に置いて、しばらく座っていた。


泣かなかった。


「お父様。あの人が好きだったのは、私の処方でしたね」


「ユリア」


「私が好きだったのも、そう言ってもらえる私でした」


そう言って、娘は帳場に戻った。その日の客の応対は、いつも通り丁寧だった。


客は減っていた。


その夜、私は薬房の記録室に入った。


二十二年、この部屋には入っていない。帳場は娘に任せ、作業場は職人頭に任せ、私は社交と取引の話をしていればよかった。


棚には、処方箋の控えが年ごとに綴じてある。


私は三年前の束を取り出した。


一枚目を開いた。


配合、分量、患者名、日付。その隅に、小さな字がある。


『確認済み ローゼ』


次をめくった。


『確認済み ローゼ』


次も。


私は最初、そういう体裁なのだと思った。清書した者が記名する決まりなのだろうと。


十枚めくって、気づいた。


赤い印のあるものが混じっている。


配合の一部が消され、書き直され、余白に細い字で理由が書いてある。この根はこの季節に湿気を吸うため量を減らす。この患者は昨年、同じ配合で発疹が出ている。この組み合わせは三日以上あけること。


書き直した字と、確認済みの署名は、同じ字だった。


私は束を持ったまま、床に座り込んだ。


一枚ずつ、めくった。


五十枚。百枚。二百枚。


赤い印は、十枚に一枚ほどの割合であった。三年で、五千枚以上ある。


私は数えるのをやめて、次の束を取った。二年前。同じである。一年前。同じである。


記録室の蝋燭が短くなるまで、私はそこにいた。


三年分だ。


一枚残らず、次女の字だった。


夜が明ける前に、私は一つだけ思い出したことがあった。


三年前の春である。


ローゼが私の書斎に来て、こう言った。


「処方に、姉さんの名前を書いてもよろしいですか。そのほうが、お客様に通りがいいと思いますので」


私は帳面から目も上げずに、ああ、と言った。


たぶん三秒もかからなかった。


十六の娘が、四日かけて何かを決めてきた顔をしていたかどうか。私は見ていない。見ていないから、覚えていない。


あのとき、なぜと聞いていれば。


いや、そうではない。


なぜと聞かなくても、記録室に一度でも入っていれば、私は三年前の夏には気づいていた。


私はこの部屋に入らなかった。入る必要がないと思っていた。薬房が滞りなく回っていたからである。


滞りなく回っていた理由を、私は考えたことがなかった。


朝、私はマルクを呼んだ。


「体質台帳というものが、あるそうだな」


「ローゼ様がおつけになっておいででした」


「どこにある」


「ローゼ様の頭の中かと」


私は黙った。


マルクは少し迷ってから、続けた。


「三年前、私は一度だけ申し上げたことがございます。ローゼ様に、なぜご自分の名で出さないのかと」


「なんと答えた」


「そのうち、とおっしゃいました」


そのうち。


「毎年、同じことを申し上げました。三年で三度です。三度目のとき、ローゼ様は」


マルクは言葉を切った。


「なんと」


「もう、いいです、と」


私はその場に立っていた。


もう、いいです。


聞き分けのいい娘だと思っていた。


怒らない娘だと思っていた。文句を言わず、家のために働くことを喜びだと思っている娘だと。


娘は三年かけて、諦め終えていた。


私が三秒で承知したあの春から、諦め終えるまでに、三年かかった。


その三年、私は一度も記録室に入らなかった。


机に戻り、私は便箋を出した。


書き出しで手が止まった。


何を書けばいいのか分からない。返してもらう、と書くべきなのか。


だが、何を返してもらうというのだろう。


娘が置いていったものは、この記録室に全部ある。持っていったのは、あの子自身だけだ。


私は結局、こう書いた。


一度、話がしたい。


三行の返事は来なかった。代わりに、王都の親戚筋から仲介の申し出が来た。私はそれに頼った。


その頃には、薬房の客はさらに減っていた。


そして、王立薬院の掲示に、新しい名前が出た。


アシュフォード侯爵領薬院、処方監査役。


ローゼ・アシュフォード。


私は掲示板の前で、その名前をずいぶん長く見ていた。


うちの控えのどの一枚にも、その大きさで書かれたことのない名前だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ