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姉の代わりに処方を書くのをやめました ~白い結婚の夫だけが、私の名を知っています~  作者: 九葉(くずは)


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第五話 ローゼ:署名欄に、名前を書きます

侯爵領の薬院に呼ばれたのは、手紙を出して十日目のことだった。


朝の薬を検め終えたあと、セヴラン様が「今日は少し歩けるか」と言った。


「どちらへ」


「薬院だ。ギルベルトが、あなたに会いたいと言っている」


姉の婚約祝いにいた、銀縁の眼鏡の方である。


私は少し身構えた。あの席で、私は一言も名乗っていない。


薬院は本邸から丘を一つ越えたところにあった。石造りの棟が三つ並び、乾燥室の窓から薬草の束が見える。王国第二と言われるだけあって、実家の薬房が五つは入る。


作業場に入ったとき、匂いで手が止まった。


湿った根と、蜜蝋と、焦げた砂糖のような匂い。実家の作業場と同じである。どこの薬房も、この匂いだけは同じらしい。


「奥様、こちらへ」


案内された部屋で、ギルベルト様は帳面の山に埋もれていた。


「アシュフォード侯爵夫人。先日、バルドー邸でお目にかかりましたな」


「ご挨拶もせず、失礼いたしました」


「いや。私が名乗るべきでした」


ギルベルト様は帳面を一冊、こちらに滑らせてよこした。


侯爵様の八年分の記録である。飲んだ薬、量、体調の変化。几帳面な字で埋まっている。


「二匁への変更を、閣下から伺いました。三日で睡眠が改善したと」


「はい」


「私は八年、この方を診てまいりました。二匁半にしたのは二年前です。理由を申し上げてもよろしいか」


「伺います」


「痛みの訴えが増えたからです。増やせば効く。効きました。それだけです」


私は帳面をめくった。二年前の欄に、確かに痛みの記録が並んでいる。そしてその翌月から、睡眠の欄が短くなっていた。


「痛みは減って、眠りが浅くなっています」


「そこを結びつけなかったのが、私の不足です」


ギルベルト様は眼鏡を外し、目のあたりを押さえた。


「八年、私は閣下の身体を見ておりました。薬は見ていなかった」


その言い方を、私はしばらく忘れないと思う。


その日、私は薬院の処方をいくつか見せてもらった。


見せてもらう、というのは口実で、実際は試験だったのだと後で分かる。


十七枚のうち、四枚に手を止めた。


一枚は、痛み止めと胃薬の順番が逆だった。もう一枚は、乳飲み子を抱えた母親への処方に眠りを促す草が入っていた。あとの二枚は、単体では問題ないが、この患者が別に飲んでいる薬と重なる。


そのことを申し上げると、ギルベルト様は四枚を手元に集めて、しばらく黙っていた。


「三枚だと思っておりました」


「四枚目は、月ごとの記録を見ないと分かりません」


「あなたはどこで見た」


「そちらの棚の、三段目です。患者名で並んでおりましたので」


ギルベルト様は眼鏡をかけ直し、セヴラン様のほうを向いた。


「閣下。この方を、うちに」


「私が決めることではない」


セヴラン様はそう言って、こちらを見た。


「本人に言え」


そのあと、ギルベルト様から示された条件は、私が想像していたものと違った。


助手ではなかった。


処方監査役という役職だった。薬院が外に出す処方を、出す前に検める。差し戻しの権限を持つ。報酬は年に十二枚の金貨。薬院長の三分の一である。


「差し戻しの権限」


「あなたが赤を入れたものは、私であっても出せません」


「……よろしいのですか」


「よろしくありません。私の面子は潰れます」


ギルベルト様は真顔でそう言った。


「ですが、面子で人が死ぬのは、もっとよろしくない」


帰りの馬車で、私はずっと膝の上を見ていた。


セヴラン様が、上着の内側から封筒を出した。


「もう一つある」


「なんでしょう」


「王立薬院への推薦状だ。王都の本院に、あなたを推す。ギルベルトの署名も入っている」


私は封筒を受け取って、開かないまま持っていた。


「……こちらへ来た日に、離縁の条項をいただきました」


「そうだ」


「これは、その続きですか」


「続きだ」


セヴラン様は窓の外を見たまま言った。


「一年後、あなたには行き先が要る。実家に戻る、持参金で好きな土地へ行く、王都で職を得る。三つ目を作った。ここに残るのが四つ目だ」


「四つとも、同じ重さですか」


「同じにした」


同じにした、と言った。


同じである、ではなく。


私は封筒の縁を指でなぞった。この人は私を囲わない。囲わないために、わざわざ手間をかけて逃げ道を三つ作る。


そういう誠意である。


そして同時に、この人は一年で離縁するという条項を、一度も撤回していない。


義務なのかもしれない、と思った。


先代の遺言で娶った妻に、できる限りの処理をしてくださっているだけなのかもしれない。それはとても正しくて、とても親切で、私にはどう受け取っていいか分からない種類のものだった。


「残ります」


気がつくと、そう言っていた。


セヴラン様が振り向いた。


「推薦状は」


「いただいておきます。使わない選択肢を持っているほうが、仕事はうまくいきますので」


「そうか」


それだけ言って、また窓の外を見た。


耳が少し赤かったのは、たぶん夕日のせいだと思う。


薬院での初日は、盛大に失敗した。


乾燥室で、職人に指示を出そうとした。この根は湿気を吸うので、量を三分の一に減らしてほしいと。


言ったつもりだった。


職人は聞き返さなかった。聞こえていなかったからである。


私の声は、実家の作業場でちょうど届く大きさに調整されている。姉が帳場で客と話している声を邪魔しない大きさだ。三年かけてそうなった。


侯爵領の乾燥室は、実家の作業場の四倍ある。


結果、鍋一つ分の根が全部無駄になった。


「申し訳ございません」


「奥様、こちらこそ聞き取れず」


「いえ、私の声が」


顔から火が出そうだった。金貨十二枚の役職に就いた初日に、鍋を一つ潰した監査役である。


その晩、離れで一人になってから、私は窓に向かって声を出してみた。


この根は、量を三分の一に。


小さい。


もう一度。


この根は、量を三分の一に。


まだ小さい。


三度目で、少しましになった。ましになったところで、扉の外から声がした。


「奥様、いかがなさいました」


ノエルだった。


「……練習です」


「何のでございますか」


「大きな声を出す練習です」


ノエルは長い沈黙のあと、「では、私が向こうの壁に立ちましょうか」と言った。


翌週から、薬院の乾燥室に私の声が届くようになった。


処方監査役として最初の一枚に赤を入れたのは、着任して九日目である。


流産の危険がある配合だった。書いたのは、薬院で二番目に古い調薬師の方だった。


私は差し戻しの用紙を書き、理由を三行で添えた。


その用紙には、署名欄がある。


赤を入れた者が誰であるかを、患者にも、書いた本人にも明示するための欄だ。


私は羽根ペンを持ったまま、しばらくその四角を見ていた。


三年間、私が書いた処方箋には、この欄がなかった。あったのは控えの隅の余白だけで、そこに小さく書き込むのが精一杯だった。確認済み、と。名前は付け足しのように。


私は息を吸って、署名欄に書いた。


ローゼ・アシュフォード。


嫁いだ姓のほうは、まだ書き慣れない。


書き終えて、指がわずかに震えているのが分かった。


怖かったからではない。この一枚に何かあれば、責められるのは私である。実家の三年間、責められるのは常に姉のはずで、実際には誰も責められなかった。誰の名前も入っていなかったからだ。


責められる場所に、名前がある。


それが、こんなに嬉しいものだとは知らなかった。


用紙を持って部屋を出ると、廊下にセヴラン様が立っていた。


「終わったか」


「はい。一枚、差し戻します」


「見せてくれ」


私は用紙を渡した。


セヴラン様は理由の三行を読み、それから署名欄で目を止めた。


しばらく動かなかった。


「……その字を」


「はい」


「一年で、手放すことになっていましたね」


言ってから、この人は口を閉じた。


自分が何を言ったのか、言った本人が一番驚いた顔をしていた。


無表情の方が失言をすると、こんな顔になるらしい。


私は用紙を返してもらい、胸に抱えて、廊下を先に歩いた。


顔を見られたくなかった。


署名欄に、初めて自分の名前を書いた。


手が震えたのは、怖かったからではない。

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