第四話 ユリア:妹は三日で折れる
妹から返事が来ないまま、三日が過ぎた。
珍しいことではある。けれど、心配するようなことでもない。
ローゼは昔からそうだ。何か気に入らないことがあると、口では何も言わずに、返事だけ遅くする。二日、長くて三日。四日目の朝には必ず、几帳面にそろえた束が届く。
たぶん、婚約祝いの席で私が着ているものを笑ったのが気に障ったのだろう。そういう小さなことを、あの子はいつまでも覚えている。
「ユリア様、こちらの束は」
「机に置いておいて。妹が拗ねているだけよ」
帳場の少年にそう言うと、彼は困った顔で下がっていった。
四日目の朝が来た。
早馬は来なかった。
「ユリア様。ラフォン様の奥様が、お薬を取りにいらしています」
「もう来たの」
「昨日で切れたと」
私は机の上の束を見た。四十枚の依頼書は、封も切らないまま置いてある。ローゼが返すはずのものだ。
仕方がないので、自分で書くことにした。
書くこと自体は、別に難しくない。私は十四のときから薬房で働いている。乳鉢の使い方も、根の切り方も、湯の温度も、身体が覚えている。
ラフォン夫人は産み月が近い。であれば、去年の同じ時期に出した処方を引き写せばいい。控えは全部残っている。
私は控えの帳面を開いて、該当の一枚を探した。
去年の冬、確かに出している。配合も分量も書いてある。私はそれを新しい紙に写した。
写しながら、少しだけ手が止まった。
紙の隅に、小さな字で書き込みがある。
『確認済み ローゼ』
妹の字だ。
控えというのは、そういうものだと思っていた。書いた者と、清書した者。二人の手が入って一枚になる。清書のほうが後から書き込むのだから、隅に名前が残るのは当然である。
私は気にせず写し終え、包みを作ってラフォン夫人に渡した。
「お待たせいたしました。前回と同じものです」
「ありがとう、ユリア様。あなたのお薬でないと、どうも落ち着かなくて」
そう言われるのは慣れている。慣れているけれど、何度言われても嬉しい。
薬房の帳場に立つようになって九年になる。客の話を聞くのは得意だ。どこがどう痛むのか、いつからか、寝る前か朝方か。皆、私になら話す。父にも、職人頭にも話さないことを、私には話す。
それが私の仕事だと思っていた。
三日後、ラフォン夫人の使いが薬を返しに来た。
「腹の張りが強く出るそうです。夜のうちに二度、痛みで起きたと」
私は包みを受け取って、中身を確かめた。配合は間違っていない。控えの通りだ。分量も合っている。
「ご不安でしたら、量を半分に」
「奥様は、去年と同じものを出してくださいと」
「同じものです」
同じものである。私は帳面を三度見返した。同じだった。
その日の夕方、職人頭のマルクが作業場から出てきて、私の机の前に立った。
四十を過ぎた無口な男で、父の代からこの薬房にいる。作業場から出てくること自体が珍しい。
「ユリア様。ラフォン様のお薬ですが」
「配合は控えの通りよ」
「体質台帳は、ご覧になりましたか」
「体質台帳」
聞き覚えのない言葉だった。
マルクは少しの間、私の顔を見ていた。
「……ローゼ様がおつけになっていたものです。お客様ごとに、去年何を出して、どう出たかを」
「そんなものがあるの」
「私も、現物を見たことはございません。ローゼ様がお持ちで」
「じゃあ、どこにあるのよ」
マルクは答えなかった。答えられなかったのだと思う。
代わりに、こう言った。
「ラフォン様の奥様は、去年の冬と今とでは月が違います。去年は五月目、今は八月目です。同じ配合では、効きが変わることがあると」
「私が間違えたと言いたいの」
「そうは申しておりません」
「なら下がって」
マルクは頭を下げて作業場へ戻っていった。
私は帳面を閉じ、しばらく机に肘をついていた。
去年は五月目。今は八月目。
そんなことは、言われれば分かる。分かるに決まっている。
ただ、控えを引き写すときに、月数を数え直したことは一度もなかった。
その週、返品が三件出た。
胃を焼いた老人が眠れなくなったと言い、肺の弱い老人が痰が切れなくなったと言い、若い娘が発疹を出した。
どれも配合は控えの通りである。私は三件とも確かめた。
父が帳場に出てきて、返品の記録を見た。
「多いな」
「季節の変わり目です」
「そうか」
父はそれで納得して、奥へ戻っていった。
私も納得したかった。
夜、店を閉めたあと、私は妹の使っていた机を開けた。
三年間、ローゼが座っていた机である。嫁いだあと誰も触っていない。
引き出しには、赤いインクの瓶と、使い古した羽根ペンが入っていた。
それから、封筒が一つ。
差出人は書いていない。けれど、封蝋の押し方に見覚えがある。ローゼは封蝋をいつも少し斜めに落とす。手が小さいからだ。
私は封を切った。
中には処方箋が二枚。どちらにも、大きく赤い印が押してある。余白には、あの細い字で書いてあった。
『この配合は中止。理由は同封の通り』
一枚は、肺の弱い老人のものだった。もう一枚は、胃を焼いた方のものだった。
私はその二枚を、机の上に並べた。
いつ届いたのか。
思い出そうとして、思い出せなかった。使いの者が持ってきた包みを、私は開けもせずに引き出しへ入れた。あの日は婚約の打ち合わせがあって、忙しかった。
臆病な子だと思ったのだ。神経質で、いつも中止ばかり言う。
三年間、あの子は毎週これを押していた。
毎週、何かを止めていた。
私は椅子に座ったまま、その二枚を見ていた。
止めていたということは、止めなければ何かが起きていたということだ。
三年分である。
そこまで考えて、私は手を止めた。
考えを進めるのが怖かったのではない。進める必要がないと思ったのだ。
だって、あの子はいつも三日で折れる。
拗ねているだけだ。祝いの席で私が笑ったのが気に障って、それで返事をよこさない。もう少し放っておけば、几帳面にそろえた束が届く。届いたら、私はいつものように「ありがとう」と言う。それで終わる。
そういうことにして、私は二枚を引き出しに戻した。
翌朝、王都に一通の手紙が届いた。
宛名は父になっていた。私は帳場でそれを受け取り、差出人を見て、封を切らずに父の書斎へ持っていった。
アシュフォード侯爵夫人ローゼ、と書いてあった。
夫人、という文字を見たのは初めてだった。
あの子はもう、うちの人間ではないのだと、そのとき初めて思った。思っただけで、それが何を意味するかまでは考えなかった。
父が封を切り、三行を読んだ。
読み終えて、こちらを見た。
「ユリア。処方は、お前が書いているのだったな」
「ええ」
「そうか」
父は手紙を机に置いて、それきり何も言わなかった。
私は自分の言葉が正しいと思っていた。
妹はいつも三日で折れる。
四日目の朝が、静かに明けた。




